第5話  与一 (其の五)

 苦しいなりに、いつの間にか寝入っていたようだ。

 水の入った竹筒を見つけ、嗽(うがい)をして喉を潤した。

 ようやく身体の中が落ち着いたような気がして、大きく息を吐く。

 周りを見回す余裕が出来て、呟いた。

「これあ蔵だ」

蔵の床に畳が一畳。その端に夜具がたたんで置かれている。

「なんでぇ。誰か住んでるんじゃねぇか。それとも住んでたのか」

 宴の後片付けに、正体の無くなった自分が邪魔になって、ここに運ばれた。そう思った。

 もう大丈夫なんで挨拶をと、出ようとしたら錠が掛かっていた。

「そりゃあそうか。蔵だもんな」

「誰か居ねぇか」

 だが、胃液で焼かれた喉から声は出ず、素手で叩く扉は岩のような厚さと重さを返してくるばかりだ。


 六尺程の高さにある窓の外からも、何の気配も感じられなかった。

 人も、動物も、鶏の鳴き声さえしない。

「一体どうなっちまったんだ。訳が分からねぇ」

 屋敷の全部が出ていくなんて聞いたことがねえ……。いったい何があったんだ。

 それにしたってぇ夕刻になれば帰ってくる筈だ。そしたら誰かが窓が開いてることに気付くにちげえねえ。それまでのんびり一休みだ。いや、まて。ここは蔵だ。何かお宝があるかも知れねぇ。ちょいと見せて貰おうか……。


 夜が更けた。 

 雲が厚いのか、星明かりさえない闇だ。

 夕刻になっても人の声は聞こえず、台に上がって窓から見る他のどこにも明かりは点らない。

    

「あんなに喰ったのに腹が減ってきやがった」


 眠れず、壁にもたれていると闇の中から寂寥感せきりょうかんが襲ってくる。

 窓の外を吹き抜ける風の中に、何かの音を探し求めた。

 羽虫の音一つでも聞きたいと耳を澄ましたが、いつか風の音さえも聞こえなくなった。


 腹が減った。子供の頃、食べ物を盗んで暮らしていたことを思い出した。

 よく盗んだのは、屋台の団子だ。

 捕まってどれだけ殴られようと喰ってしまえばこちらの勝ちだ。

 腹をかばって丸くなり、蹴られ、殴られてる間にひたすら食った。そんな殴られた痛みなんか半日すれば消えてしまう。


 殴られてやる。殴らしてやるからあのとき盗んだ団子売りの屋台の親父に、ここにいてほしい。と思った。

 あの親父は心底から腹を立てていた。そんなふうに俺に向かったのは、あのおやじくらいのもんだった。


 やがてその親父も、悪態をついて暴れ回る与一にあきれ果てた体で、それからは団子を盗んでも追いかけてこなくなった。

 俺は親父に勝ったと思っていたが、そうではないことに気付かされた。


 与一を見ると、団子を一串、犬か猫に餌を投げ与えるように投げてよこしたのだ。

 同情したからではない。


 そのとき親父が「屑め」と呟いたのだ。

 与一はその団子を食いながら涙をポロポロとこぼし、歩き続けた。


「ちきしょう。なんで俺にゃ親がいねぇんだ」

 ちきしょう、ちきしょう、と拳を握り、振り回す。

 淋しさと口惜しさに流れる涙が口に入り、しょっぱさを美味いと感じる自分が切なかった。


「ちきしょう。あんときと同じじゃねぇか」

 忘れられ、無視されている。

 その思いが何より悲しかった。

 無視される。忘れられることは、一欠片ひとかけらの関心さえ持たれていないことだ。


「だが、そうだ。お袋が俺を探そうとしてくれたって聞いた!」

 結果的には成仏しちまったが、命懸けで探そうとしてくれたことには変わりねえ。若し俺があいつらの仲間にならず、めし屋で我慢して真っ当な生活をしていたら、小夜様の言ったとおり、お袋と生活ができてたんだ。


 めし屋の日々が思い浮かんだ。


 子供の頃からこき使われて、楽しいことなんか何一つ見つけられない毎日だった。何時か抜けだそうと思いながら、釣り銭を誤魔化し、客の飯を一口含んで空腹をしのいだ。

 そんな時に声を掛けて来た男がいた。


 男は盗賊で、飯屋を仲間の連絡場所にするのが目的だった。

「与一よ。俺らの正体を知った以上おめえも仲間だぜ」

 初めて仲間と言われた与一はそれが嬉しくて、「何でも手伝うぜ」そう言って『繋ぎ』の役を買って出た。

 恩も義理もない飯屋だが、そのせいで長続きだけはした。


 生きるために喰う。喰う金がねぇからかっぱらう……。俺はなんて考え無しのガキだったんだ。


「どうすりゃあ良いんだろうなあ。俺は……」


 与一は闇の中を見回して明かりを求めた。まとわりつくような濃い闇は足を蹴立てて泳げば闇の上に浮かび上がれそうなヌメリを感じる。

 若し店を飛び出してたら……。若し盗人の仲間にならなかったら……。

 若しを連ねて考える。


「なんだ。そんなことだったのか」

 こんな簡単なことに気がつかなかったのは、盗っ人根性が染みついちまったんだろうな。つくづく俺は情けねえ。

 与一は自分にあきれて笑い声をあげる。

「真っ当に生きる方がよっぽど良い暮らしが出来るってことじゃねぇか。盗人は捕まっちまえば元も子もねえ。それよりも飯屋を流行らせて、行く末は俺の物にすりゃあ良かったんだ」


「そうだ。自分がどんな飯屋で喰いてぇか、それを考えりゃあ流行るはずだ」


 美味い物を安く食いてぇに決まってらあ。あとは皿や鉢をいつも洗って、ゴミや古い食いもんが客の口に入らねぇようにしなきゃなんねえ。そしたらあの店はもっと流行って銭がたまる。爺や婆には小銭を渡して遊ばせるんだ。ババアの代わりに気の利いた小綺麗な女を雇やあいいのさ。仕入れ先とも懇意になる。それで俺がいなくちゃあ回らねえようにする。

 酒を薄める。つりを誤魔化す。唾を入れて仕返しをする。そんな飯屋で過ごしてきた与一には真逆の思いつきだった。


「ああ。だがちきしょう。気づくのが遅かった」

 そう言って与一は愕然とした。

「それどころじゃねえ。明日も次の日もこのままだったら、俺はそのうち、この中で飢え死にするにちげえねえ」


 小夜に、『一生働かなくてもいい生活』を頼んだことを思い出し、 子供のときの、働かせて貰えない恐怖が蘇った。


冗談じゃねえ。俺が言ったのはこんな意味じゃねぇ。卑怯じゃねえか。

 闇の中に小夜の顔が浮かんだ。

「あら。与一に卑怯と言われた」天真爛漫な笑顔でころころと笑う。

 笑顔が消えて与一を睨みつけた。その顔が『約定は命に掛けて違えぬ』と凛として言い放った。

 

 音も無く、色も無く、二日が過ぎ、三日目の朝は雨が降っていた。


 窓を伝う雨水を飲もうと思う限りの方法を試したが、うまくいかなかった。最後にやったのは着ていた着物を脱ぎ、窓の外に突き出すことだった。

 水を含ませた生地を噛むと、饐えた匂いと塩の味がした。


 汚れた汁を啜る。そうやって生きていく意味を考えた。


 夜、死ぬことを考えた。


 想いが定まらぬままボンヤリしていると、漆黒の闇の中に、ホウと青白く光る火の玉が浮かんでいた。

「鬼火だ」

 それが鬼火だと知らせる何が有る訳でもないが、与一にはそれが鬼火だと分かった。

 

鬼火は手のひらほどの大きさになり炎が揺らめくと女の顔をうつしだした。

 女は手を合わせ、一心に何かを唱えていたが、与一の顔を見て深々と頭を下げた。

 与一は「おふくろ」と呟き「すまねえ」と手を合わせた。

「おふくろ」と何度も、繰り返し泣いた。

 炎が揺らめき、鬼火が消えた。


「俺が生きて出られたら、まず墓に行く」

朝、いつのまにか、水の入った竹筒と塩の入った袋が投げ込まれていた。


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