第2章 第1話 触れ(ふれ)
松が病から回復したのを機に、小夜に多くの縁談が持ち上がった。
元々小夜の見目が良いことに加え、大庄屋の家柄ならば財も有る筈と、財産目当ての者が殆どで、親代わりとして参座した忠兵衛も「どいつもこいつも、大庄屋がどれほど大変な仕事か解っておらぬ。あんな奴らが統領になるなら儂は郷に帰るぞ」と悪態をついた。
元は身分のある侍で、軍学者でもあった忠兵衛は、小夜の祖父の代に知己を得て、家督を息子に譲り、村の者に学問と剣術を指南している。
「小夜は八郎太の描いた図を成したいのであろう」
「はい。それこそが父の後を継ぐ私の努め。なので心の奥では、そのための伴侶を探していたのかもしれません」
姫神の使い女が言う、「子を成す」ことが使命とは、既に考えられなくなっている。
鬼界から戻った小夜は、人の心が読めるようになっていた。
そのことを隠して夫婦になったとしても、いつか相手の心の卑しさを軽蔑することになるだろう。良い妻、普通の嫁にはなれぬと思った。
小夜の葛藤に気付いた祖母は、小夜の肩を抱きしめて「もう婿殿を探すのはやめよう」と言った。
「お前程の愛らしい孫が私には居る。これ以上何をのぞむ事があろうかと気付いた」
祖母は小夜の頭を撫でて、
「昔のようにお前を抱いてやれぬ程に、お前は大きくなった。それも嬉しいやら淋しいやら。でも、その嬉しさも淋しさも生きる喜びであると、病にかかりとくと知った。それは、治してくれたお前のおかげであった。私はお前の力を見誤っていました」
「ばば様。案じなさるな」
小夜は祖母に笑顔を見せてる。
「私には道が見えます。何事も願い行えば、なるべくしてなる。このように叶うことを私は知った。今こそ父、八郎太の意志を継ぎ、村のため村人のために尽くしましょう」
鬼が、望みを言えといったことを思い浮かべた。いっそ鬼に、天下一の花婿を捜せと頼んでみようかと、そう思った。
「おお。小夜に道が見えるというなら思う様にすれば良い。ならばそのことができるよう、この婆にもすることがある。八郎太がお前に言った言葉。なすべき事を、勇を持って成せ。それができるようにしよう。早くせねばと気に掛けていた。病から立ち直った今こそ統領として急ぎ、やらねばならぬ」
松は立ち上がり「触れを出す」と言った。
「明日の正午に触れを出す。名主と組頭を集めよ」
何をなさいます。と、問いかけてすぐに「はい」と言い直し、小夜も立ち上がった。
幸田家が隷下の村々にだす『触れ』は、大庄屋として七ヶ村の頂点に立つ幸田村統領の命令である。問いも異論も介在の余地はない。
小夜は庭と台所にむけて「ふれをだす」と大声で呼びかけた。
「刻(とき)は明日、午(うま)の正刻。六助は吉次へ」
「はい」
「たきは信助に」
「はい」
「とねは太吉」
「はい」
「くめは松五郎」
「はい」
「庄蔵の所は私が行く。確実に組頭に伝えて、各々、
それを聞いた四人の従者が、それぞれに
大庄屋の広大な屋敷、庭を囲んで、五つの田畑が広がる。それは、い組から、ほ組に分けられ五人の組頭が管理していた。
この組頭は幸田家の直令としても働き、統領の警護も兼ねている。
幸田村の組織は、統領という大庄屋の下に七つの村があり、七人の
村長は統領家と同じく五人の組頭を従える。
村長配下の組頭は、二十の家族を掌握し、男には槍を、女には弓の技を憶えさせる。
家長は、子共に読み書きに算術、農作物の作り方などを習得させなければならない。
その仕組みが小夜の父と軍学者忠兵衛が考案した武家社会に対抗できる最強の組織として、村の平和を維持していた。
参集を命じたのが寺の鐘ではなく、直接伝令が来たことで、村の大事であると判断した統領直下の組頭五人は、直ちに馬に跨がり定めのとおり隷下の七ヶ村に向け、それぞれ駈けだした。
松が、
「忠兵衛殿。こちらへ」と、座敷の上座に忠兵衛を招じ入れて、「お頼みしたいことがあります」と言った。
忠兵衛は「小夜がことか」と問いながら、刀自が譲ろうとする上座を、手を振って断り、下座に着座する。
「そのとおりです。明日、小夜に幸田を継がせることに致しました」
「良く決心なされた。小夜は儂にとっても孫娘に等しい。その欲目で見てもあの聡さはすでに統領に相応しい」
「有り難い申されようです。つきましては忠兵衛殿から藤井様にお戻り頂き、小夜の烏帽子親としても後見をして頂きたいので御座います。どれ程聡くても女の身。後ろ盾次第では侮られ、思うように物事が運ばぬことがありましょう」
「承知した」
「そう言って頂けると思うておりましたが、それにしてはご決断が早い」
「なに。この屋に世話になると決めたときから、この屋の為の命と決めておりましたわ。それがお小夜の為とあれば願ってもない」
「されば、死んだ我が亭主も、八郎太殿夫婦も、藤井様が居られるおかげで後に憂いを残すこと無く、ここを去ることができました」
「いや。想いはあったであろうがな」
松は立ち上がり、
「お目通し頂きたいものがございます」
そう言って戸棚から帳面の入った箱を取り出した。
「村々の田畑面積。石高。人の数などを記しましたもの」
「ふむ。この付箋は」
「はて」
開くと小夜の字で、村々個々の揉め事、解決した方法などが、事細かに書かれている。
「これはまあ、いつの間に」
「申し送る事、言い聞かせることなど何もござらんな」
戦記詳報と記された三冊の書簡には、忠兵衛の説く戦の原則がどのように使われたかという付箋があるのをみつけ、ふたりは顔を見合わせて、感嘆の声を上げた。
「これは楽しみな頭領が現れた」
楽しそうに笑い合った。
「伝えて参りました」
帰ってきたたきが報告する。
「ではたき、私と祝いの支度をしよう」
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