第6話 無明 

 小夜は、昨日と同じ竹藪の笹の葉の上に横たわっていた。


 気怠さをおして立ち上がると、またも銀の粒が、ざらりと湯文字の上に落ちる。

 集めて小布に包み、湯文字をつける。

 

 見回せば、冥界めいかい現世うつしよきわに老婆のむくろが横たわっている。獣はいない。


「そのように見えるが、骸ではなく老婆でも無い。先ずはこの憐れな姿が辛かろう」

 小夜は女の身体を隠すように襦袢を掛け、自分は肌に直接小袖を着る。


 髪の先を女の口にあてがい、絞ると、漢鬼の霊水が女の口に滴り落ちた。

 徐々に皺が伸び、目鼻口があるべき姿に戻り女の吐息が聞こえた。


 女は鬼に対する呪詛じゅその言葉を吐く。

 小夜が女に語りかけると、女の意識が小夜を捉えて訊ねた。


「お前様は何者です。私を蘇らせる術があるのですか」

「私は祖母のやまいの快癒と引き替えに、鬼にこの身を供すると願い出た者です。あなた様の野に晒された姿の憐れを想い、幾ばくかの救いの道があればと捜しに参りました」


 名は名乗らなかった。漢鬼は名がつけば名に捕らわれると言っていたからだ。


「嬉しや。鬼どもは如何ばかりか口惜しがることであろう」

 鬼は、『知ったことでは無い』と言った。鬼達は口惜しがりもせず、些かも痛痒を感じないだろう。だが呪詛の言葉は毒と執着を撒き散らす。


「あなた様が何故にこのような姿でうち捨てられたのか、お聞かせくださいませ」

 小夜の問いに、女は声を震わせて語った。


「凡そ十九年もの昔、私には男の赤子が居ました。食べる物も無く餓えて、共に死のうと思いましたが、せめて子の命だけでもと、赤子を人の家の前に捨て置いたのです。

 私は身投げをしましたが、ある人に救われました。その後、その人のおかげでなに不自由無く過ごしていましたが、跡継ぎの子ができません。それで捨てた子に会いたいと、願掛けをしたのです。初めは、息子のためならどんなことでも我慢が出来ると思いました。鬼など簡単に騙せると思った。でも、二夜目に鬼がみせた息子の姿は刃物で人を傷つける盗人でした。今は与一と名乗り、飯屋で働きながら盗人をしていることが分かりました。


 こんな息子を、大恩有るたなに入れるわけには参りません。鬼に、もう息子はいらないと言ったのに、鬼に腕を喰われました。次は足を喰うと言われました。喰われた腕は館から出れば戻ると言うが、こんなに痛く苦しい目に遭ったあげく、あんな情けない息子と会うぐらいならいっそ死んだ方がましです。それで小柄こづかで喉を突いたが、でも死ねないのです。喉を掻き切れば痛みも苦しみもいっときと思ったのに、いつまでも死ねないのです。鬼は怒って私の血も涙も吸い尽くしてここにうち捨てました。獣は私の腹を食い破りました。でも死ねないのです」


 女は「鬼が恨めしい」と叫び「どうか私を殺して」と哀願した。


「あなたは過ちを犯しました」

 小夜は静かに声を掛けた。


「鬼を恨んではいけません。全ての原因は鬼を裏切ったあなたにあるのですから」

 女の声が一変した。


「おのれはこの上、我が心までさいなもうとするか」


「あなたの死ねぬ訳を申しているのです。あなたを冥界に縛り付けている縄とは、すなわちあなたの怨みや念なのです。執着をお切りなさいませ」


 女は目をつり上げ、小夜を睨みつけた。小夜はその目を見返して、激しく叱りつけた。


「あなた様は捨てた赤子が舐めた辛酸を償う事ができたのにそうしなかった。鬼からの責め苦を受けることでそれができたのに……。そして息子に会い、衣食を与え正しい生き方を教えなければいけなかったのにそれもしなかった。それなのにすべて鬼のせいにして怨みながら、ご自分は逃げようとなさるのか」

 

「綺麗事を……」

 女も怒りの声を上げた。


「この浅ましい姿を見よ。鬼は我が身を食ろうたが、何一つ我には与えていないのだぞ」

「鬼とあなたは初めに定めを取り交わしたはず。それを反故ほごにしたのはあなた様ではありませんか。その約定を守れば望みが得られたのですよ」


「望んだことはもはや要らぬと言った。私の産んだ子が世の人に仇成すなど、なんと恐ろしい。それなのにまだ足を食らうと言う。耐えられぬ」

「では、このまま、未来永劫うち捨てられたままでも良いのですか」

 女は身体の芯を震わせて叫んだ。

「良いことなどあるものか」

 女は喚いた。


「じゃが、よう分かった。あと一度、足を喰われて元に戻れるのならその方が良い。我慢してやろう」

 小夜は首を振る。


「叶いますまい。鬼は一度でも約を違えた者は許さず、元になど戻れません。あなたに関わる人々は子々孫々二度と鬼とまみえることができなくなりました。それにあなたの残った一夜は私が代わりに引き受けることにしました」

 女は驚愕の表情で小夜を見つめる。

「何故じゃ。何のために」

「あなたとこうして話をするためです」

「それだけのために……」


 女は落胆の声を出し、それは悲鳴になった

「お前なんぞと話して何になる。叶わぬ望みなど見せおって」

「私がどうこうするのではありません。あなた様が自分でするのです。どうぞ、怨みや念を切り、執着をお断ちなさい。そしてあなたが持つ仏性を解き放てば、行く道が開かれるでしょう。神仏がお助け下さいます」

 女は舌打ちをして言った。


「神仏だと。そんなものはどこにもない」

「あなたと私をここにいざなわれたではありませんか」

「神には何の力も無いことを知らぬのか。仏もおるものならつれてこい。それで冥土に逝けるなら拝んでやろう」

「仏はすでにここにおわします」

 女は怪訝な顔をして、目だけで辺りを見回す。漢鬼の霊水も、朽ち果てた女の五体を立ち上がらせる程には効力が無い。


「仏はあなたの身のうちにあります。だがその顕現けんげんをあなたの心が蓋をしているのです。欲で赤く、憎しみで青く、後悔で黄色く、恨みで黒く、あなたの顔の色が変わっているのはそのせいです」

「…………」

言葉を失い女が沈黙する。

「この上は是非もありません」

小夜は女に向かって手を合わせると、開経偈かいきょうげを唱えた。


 無上甚深微妙法むじょうじんしんみみょうほう

 百千万劫難遭遇ひやくせんまんごうなんそうぐう

 我今見聞得受持がこんけんもんとくじゅじ

 願解如来真実義がんげにょらいしんじつぎ……。


「どうか、ご唱和なさいませ。世尊妙相具せーそんみょうそうぐ

 女は成すことも無く、小夜の言葉を呟くように繰り返した。


「せーそんみょうそうぐ」   

「我今重問彼」

「がーこんじゅもんぴ」   

「佛子何因縁……」

「ぶっしがーいんねん……」   


 小夜の詠む言葉を辿りながら、女の目から涙がこぼれた。


 経の意味など全く分からないのに、想いが湧いてくるのだ。


 切なかった。子に逢いたい。逢って詫びたい。そして今こそ、ともに死んで世間様にお詫びがしたい。

 想いは女のかたくなな心を解きほぐしていった。

「切ない」

 女の声が震える。

 

「私はなんと愚かな生きかたをしてきたことか。何と欲にまみれて、噓で固めた人で無しであったことか、なのに息子の悪業は許せなかった。それはよく考えれば自分の安寧あんねいおびやかされると思った卑しさからであった。自分が救われたとき、何故赤子のことを黙っていたのか。それこそが我が罪だった。生きるに赤子が邪魔になるという自分勝手な思い込みからであった」


 女は泪が出ることに驚いて歓喜の声を上げた。

「有り難や。嬉しや。人の心の善が私にも残っていたのか」


 女にとって小夜が観音菩薩だった。


 小夜の唱える経をなぞる女から怨念が消え去ると、青い顔が明るく変化した。

 小夜は、三度(みたび)経を唱え、周辺が経に包まれる。


 母が伝えた経文は、広大な宇宙に於ける天地物のことわりを示し、世には無明もなく、また無明が尽きることもない。と説かれている。


 経の途中、小夜は思い立ち、女を抱えて冥界の境から現世うつしよに移した。

「痛みが和らげばよいのですが」

「ああ……身体が動きます」

 女がゆらぎながら半身を起こすと腹から銀の粒がこぼれた。血と全ての体液を吸い尽くした鬼の残滓だ。


「私には 知が無く、智慧もない。なすことさえ判らずに暗がりの中をうろついていました。けれど今、暗闇から浮かび上がったような心地がします。どうか息子に会って私の詫びを伝えて下さい。そして、もし真人間に戻らなければ、世のために、どうかあの子をあやめて下さい」


 小夜は指の間を歯で噛み、神薬を取り出すと女の口に入れた。

 女は、悲鳴を上げた。それは、歓喜の悲鳴だ。


 全ての苦と痛みが消えてゆき、押し寄せる心地よさに身体を震わせた。やがて五体の感覚が消滅し始めた。

 食い破られた腹が、感覚も無いまま、再生される。

「今のは何? 何を呑ませた?」

「神薬です。鬼の責め苦に耐えられないときに飲めと、宮のつかいめ様が下さりましたもの」

「あなた様はまだ二夜も鬼の所に行くのでしょうに、その神薬を私に下されたのですか」

「これは『施』です。お気になさいますな。 これほどの効用があるとは思いませなんだが、ようございました」


「南無……観自在菩薩……」


 女は小夜を拝み、「以前ならば私は、そんな薬があるなら、もっと早く出せ。とでも言ったかも知れません。それがどれ程卑しく恥ずかしい言葉であるかを知ることが出来ました」

 女が両の手を見、その手で顔を撫で、自分を愛おしそうに抱きしめる。


「あぁ。この身体も私のものではなかった。天から一時いっとき与えて頂いた借り物にしかすぎぬのに粗末にした。我が物は魂だけなのだ。身体とは魂(たましい)の器であったのだ……。それなのに随分と身勝手な使い方をしてしまった」

 首の傷を撫でた。


「それがおわかりになられたか」

「今は、あなた様にもっと早くお会いできていればと、その事だけが口惜くちおしい」


「いいえ。どれ程前にお会いしても、こうはなりますまい。今であるが故にこうなれたのでしょう」


 鬼界を見、鬼の霊水が有り、仏性を解き放ち、五蓋を滅して神薬の力を得た。どれが欠けても、悟りにも似た安らぎは得られなかったであろうと小夜は感じていた。


「私も学べたことが多くありました」

 小夜が言うと、女が再び小夜を拝み、身体が崩れ落ちた。


 魂は昇華し、宇宙そらの彼方に消えていった。


 女は彼岸に渡ったのだ。



 

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