第5話 骸《むくろ》

「おたずねしたいことがございますが、お許しくださいましょうか」

「申せ」

「竹藪でむくろになっていた女性にょしょうは、何をたばかったのでございましょう」


 漢鬼が笑い声を上げ、赤鬼が姿を現す。

 赤鬼が吠えた。

「望みのものを見せたからであろうな」 

「責めに耐えられなくて、自ら命を絶とうとした。三夜の内の一夜を残したままであった」

「自ら命を絶つ……どのようにすればそれができるのですか」

「できぬわ。お前の命も我はいらぬと言っておいたぞ。手足を食らおうともお前も死なぬ」


「では、あの女性はどうやって……」死んだのか。

 鬼ならば殺すことが出来るのか。


 身体の精を全て吸い取られ、内蔵わたも見せて野ざらしにされていた。


「ゆえに死んではおらぬ」

 小夜は驚愕して息を止める。


「では、生きたままであのような無残な姿に……」

 小夜は悲鳴を上げる。

「なんとむごいことを……」


 泪を滲ませ唇を噛む。

「お慈悲を下さりませ。どうかあのお方に安らかな死を賜りませ」

「慈悲とは何だ。初めて聞く」

「そのようなものはもっておらぬ」

 鬼と漢鬼が同時に吠えた。


「では、あの方の残りの一夜を私が努めます故に……どうかもう一度あの方に会わせて頂きとうございます」


「会ってどうする」

「せめて経など唱えてあげたいのです」


「経だと? お前は経を唱えられるというのか」

「誰に教えられた」

「ならば我等の存在も知っていたのか」

 赤鬼と漢鬼が交互にたたみかける。


「幼い頃から母と祖母に教えられました。経は宇宙における万物のことわりを示していると。その中に人の持つ五欲を食らう鬼が居るとも聞きました」


「人は本来無垢である。だが長じるに従い欲がつく」

「五欲がつく。それによって五色の鬼が生じるのだ。鬼は欲に蓋をして、人間の悟りの道を閉ざす」

「欲を克服できぬ者は無明を彷徨さまようのだ。それで女をどうする」

「経は万物のことわりを説きます。道に導けば未練執着を断ち切ることができます。さすれば幾ばくかの安らぎを得られましょう。或いは成仏さえも叶うやもしれません」


「お前が代わりに一夜努める。ふむ。それでよいのか」漢鬼が言った。

 赤鬼が、

「あれがどうなろうと我等はかまわぬ、知ったことでは無いわ。謀り裏切った者になど用は無い。望みとあればお前をあれの横に置いてやるが、それでよいのか」

「ありがとうございます」

 漢鬼と赤鬼が、大声で笑った。


「『ありがとう』とは我らに向けた礼の言葉か。われらにそのような言葉を用いた者はお前だけであろうな」

「お前だけだ。人はみな、我らを見ただけで昏倒する。約定が成った者は逃げ帰る」

「ありがとうとはな」

「ありがとうとはな」

 鬼は再び笑い声を上げた。

「あの言葉は偽りであったとたばかるなよ」

 鬼達が喜んでいるのだと知り小夜は驚いた。


「御礼の心に、決して偽りはございません。今朝方、帰りました折りに祖母を見ました。安らかに寝入っているのを見てどれほど嬉しかったことか。嬉しくて、嬉しくて有り難く何度も御礼申し上げました」


鬼が怪訝な声をだす。

「約で定めたことであろうが」


 小夜は鬼との約束は絶対なのだと改めて知った。

「我らが人間のように約を違えると思うたか」

「決してそのように思ったのではありません。ただ感謝申し上げたのです」

「それには及ばぬ」

 漢鬼が笑った。

 磊落らいらくな笑い方ではなく、口の端をわずかに開き歯を見せた笑い方をした。鬼の照れる様子を見て、小夜は鬼の恐ろしさはその清廉な魂にあることを知った。


 人は約束が履行されると相手に感謝する。

 人が持つ『感謝』の心は、相手の労をねぎらう。

 行為に感謝することは人の側のことわりなのだ。

 鬼の理屈では決めたことを違えず行うことが当たり前なので、感謝はない。


 反面、約を違えることが許しがたい大事となり、その者は冥界に見棄てる。

 見棄てた後は子々孫々に至るまで二度と関わることはない。


 そうして人は真の鬼の姿を見ることが出来なくなる。

 

「人と人は触れ合って生きております。欺くこと、殺し合うこともあります。故に自分の心をつまびらかにしておくことが必要なのです」


鬼が首を傾げる。

 だから人を理解せよと言うのではない。ここは鬼の世界なのだ。


「愚かであるな」

「それを人間と申します。ただ、人には愚かであったと省みる智慧がございます。些事は見逃せば人は進歩もいたしましょう」

「で、あるか。ならばお前もお前の約定を果たせ」

「はい」出過ぎたことを言った。小夜は羞恥に顔を赤らめながら、小声で答えた。

 

 鬼の世界に『愛』は存在しない。なので漢鬼は愛を知らない。

 鬼の持つ力は人の五欲を察知し、それにふたをして悟りに至らせないことだ。これを五蓋ごがいという。

 鬼は、人が紡いだ欲望を取りだし、食する。

 鬼に愛され、愛することなどできるはずもないのだ。


『そうではない』

 小夜の何かがそれを否定した。


 人間界の、欲望と欺瞞に満ちた世界と比ぶべくもない鬼界の潔癖さを好ましく思えることができれば、そして愛されたいという見返りを求めなければ、鬼は愛するに値する。

 

 求めねばよいだけのことだと思った。


『漢鬼を、産まれたばかりの赤子のように見返りを求めず愛すれば、私を慕う気持ちが生じるのだろうか』

漢鬼は、小夜の慕って欲しいという心の煩悶はんもんを感じ取り戸惑っていた。

 これは『欲』なのか、それとも……。

漢鬼が受け継いでいる記憶の中に、鬼を愛する――少なくとも好意を持つ――人間は存在していない。


 小夜は「くすっ」と笑い声を出す。慕って欲しいというこの気持ちがすでに見返りを求めているではないか。


 漢鬼は、一瞬浮かんで消えた小夜の不思議な感情に戸惑いながら、小夜の体液を吸い取り、果実の霊水を注ぐ。


 小夜は注がれた漢鬼の霊水を、束ねた黒髪に含ませて蓄えた。

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