207大会~予選と新たな出会い
武術大会当日の明け方.珍しく蝋燭とガス灯によって照らされた部屋で,エレーナは純白のモスリン仕立てのシュミーズドレスを肌着の上から着て,小さい胸の下をドレス用のベルトで括り,空色の絹で作られたショールを上から羽織る.そして,肘上まである純白の長手袋を身に付け,白いバティスト仕立てで檸檬色のリボンが付いた,頭を覆うような帽子で結い上げた髪を隠し,顔に薄く化粧を施す.その後,彼女は鏡の前で美しい模様の描かれた絹張りの扇で口元を隠す仕草や膝を曲げるお辞儀の動作,歩き姿を確認していた.それから暫く経って部屋の呼び鈴が鳴ると,身嗜みを整えた彼女は何も持たずに扉を開ける.
「レーナ,おはよう」
朝食を運ぶ魔女アンナ・二コラエヴナは普段通りの挨拶をした後,彼女の普段とは異なる衣服を見て,笑顔で褒めた.
「可愛い姿だな.似合ってるよ」
「ありがとうございます.紅茶とクッキーは用意してありますので,部屋に入って下さい!」
彼女もまた笑顔でそう返すと,窓からの優しい光で明るくなった部屋にアンナを迎え入れる.そして,朝食を食べ終えると,エレーナは鞄と純白の日傘を手にしてアンナと共に,天色で塗りつぶされた空の下,輝く太陽に照らされながら歩いて武闘大会の会場である闘技場に向かう.
街の様子は花火が上がるなど西方の国々の謝肉祭(カーニバル)の様に騒がしく,市場以外の場所でも露店が立ち並び,多くの市民や馬車が川の流れのように西側へ移動している.その様子を彼女は歩きながら落ち着きのない様子でそれらを見ていた.アンナはそんな彼女を見つめながら歩いて行く.
武術大会は商人ギルドが威信を掛けて開催したものであり,200年前にヴルガ・マスクヴァ帝国の勇者が用いたとされる魔法剣『サモセク』を優勝賞品とし,コロッセオに外見を似せた高さ20m程の闘技場をこの大会の為に建て,更に遠方の国々にまで情報を拡散させていた.そのため,西側の城壁の外に建てられた闘技場の周囲は市民だけでなく貴族階級の者達や異国人も集まり,入場券の無い者も勇者ヴラドを含む大会参加者を一目見ようと押し寄せる.彼女達はそんな人混みを超えて闘技場の入場券に示された全体が良く見える,座り心地の良い,上等な観客席に座って開会式を待ち続けた.
ここでエレーナが使った入場券はアンナから手渡された物だった.彼女は勇者アレクサンドルの参加を知らなかったため大会の観戦には消極的であり,最終日の入場券だけを手にしていた.しかし,アンナがその祖国を代表する勇者の情報をもたらし,大会の開催期間である一週間分の入場券を持って来たため,彼女はアンナと共に大会の全日程を観戦することを決めたのである.
この大会では初めの三日間で16試合の複数人で行われる予選を行い,その後の4日間でトーナメント形式の本戦を行う.大会のルールは人間の不可逆的な肉体破損は避け,殺傷は失格とする他,審判の判断によって勝敗が決定される.
開会式の後,直ぐに始まった予選一戦目は勇者アレクサンドルと他5名の強者達の戦いであった.その勇者は椎の実形の兜を被り,鱗の様に金属片が並べられた鎧の上に八端十字架の模様が入ったマントを身に付け,先端がT字型となっている権杖と刀身が厚く幅広に作られた直剣を左右に携えて闘技場に入り,舞台の中央まで歩いていく.それを見て,彼女はその勇者の方を向きながら,アンナに抑揚のある声で話し始めた.
「よく見て下さい! あの中世風の鎧(スケイルアーマー)の人が祖国の英雄アレクサンドル・ポポーヴィチです.彼は司祭の息子である事を示すために権杖を持ち歩いているらしいのですが,その杖は強力無双の勇者であるアレクサンドル・ポポーヴィチに掛かれば,如何なる怪物であろうと杖の一振りで砕け散ると聞きます.貴方も絶対に見ないとダメですよ!」
「そうか,よく見ておく」
アンナは彼女を見つめながら返事をした.
審判を務める店主アンドレイの掛け声で一戦目が始まった.勇者が権杖を一振りすれば強者の剣が手から離れ,二振りで強者の残りの武器は無くなり,三振りで強者に敗北が言い渡される.勇者は魔法すら使わずに敵を倒したのである.人間は鍛えようとも身体能力に限界があるが勇者には無く,特に英雄アレクサンドルは『メドヴェーチ』(蜂蜜を喰らう者=熊)を超える力の持ち主であった為に魔法も使えない者共に敗北する事など無かった.勇者は他の強者も同様に倒して予選を突破したのである.
エレーナは眼を輝かせながら退場する勇者に声援を送り,見えなくなるとアンナの方を向いてこう言った.
「英雄アレクサンドル・ポポーヴィチ,やはりカッコいいです! 見たい物があるので私に付いて来て下さい」
「あぁ,分かった」
彼女はアンナを連れて闘技場の傍に建てられた参加者達が待機する屋敷に向かった.その建物は300人を収容出来る設備を持ち,正面の門以外は高さ5mの石壁に囲われ,マスケット銃を装備した衛兵によって警備されている.彼女達は屋敷の周りを歩き,一周すると人気の少ない裏側へと回る.そして,彼女は片方の白い手袋を外して垂直に飛び上がり,途中で石壁の僅かな出っ張りに指をかけて,身体を逆さにしながら再度飛び上がって石壁を越える.しかし,アンナは付いて来なかった.そのため,彼女は再び石壁を飛び越えてアンナの元に戻り,普段通りの表情で聞いた.
「これ以上は付いて来れませんか?」
「あぁ,魔法は見つかる危険が高い上に道具も無い.私はそこの日陰で待っているから行ってきてくれ」
「分かりました.直ぐに戻ってきますので待っていて下さいね」
エレーナは笑顔でそう言って再び石壁を飛び越えていく.一方,取り残されたアンナは日陰に入り,そこから動かずに待ち続けた.
屋敷に忍び込む彼女の目的は勇者アレクサンドルに会って声を聴く事.彼女は綺麗に整備された庭を歩き,二階の開いていた窓から屋敷に入る.彼女の泊まる宿のように華美な内装を施された建物の中で彼女は細心の注意を払いながら移動し,音を出さず,誰にも見つからずにその勇者が居る部屋に辿り着くと,三回ノックをして部屋に入った.
彼女の目の前には綺麗に髭を剃り,丁寧に整えられた髪を持つ美形の勇者アレクサンドルが兜を外して椅子に座っていた.そして,その勇者はこの国の言葉で彼女に声を掛けた.
「お嬢さん,こんにちは.何の用かな?」
彼女はその勇者の眼を見ながら,僅かに頬を赤くしつつも,フランツィヤ・クーリツァの言語でこう話した.
「一度,貴方の姿を傍で見てみたいと思い,この部屋を訪ねました.英雄アレクサンドル・ポポーヴィチ,予選を見ていましたが貴方は本当にお強く,祖国の名に恥じない戦いをされました.貴方ほど素晴らしい勇者を私は見た事がありません.それはもう英雄譚の勇者のように.強力無双の勇者アレクサンドル・ポポーヴィチ,私は貴方を謁見する事が出来て幸甚の至りです」
「ありがとうございます.お嬢さん,貴方の名前を聞かせて頂けますか?」
その勇者は姿勢を正し,彼女を真っすぐと見ながら同じ言語でそう聞いた.彼女は膝を曲げるお辞儀をした後名乗った.
「申し遅れました.ペトロフスク出身のエレーナ・ペトロヴナと言う者です」
「この国まで訪れるのは大変だったでしょう.ですが,私達はそれだけの価値がある戦いを行って見せます.そして,ヴルガ・マスクヴァの剣『サモセク』を必ず祖国に持ち帰ることをお約束しましょう」
「分かりました.私はその素晴らしき戦いを見届け,貴方に声援を送り続けます.貴方の勝利を祈って」
勇者アレクサンドルの宣言を聞いた後,彼女は返事をして部屋を出た.数日前から話す内容を考え,練習し,憧れの勇者の前で上手く話せた事が嬉しかったのだろう.彼女は扇で笑みが止まらない口元を隠しながら,外に出る為に再び移動し始めた.そして,彼女はついに曲がり角で人にぶつかった.鈍い音が鳴り,床に倒れ込んでしまった彼女に相手は手を差し出しながら,この国の言葉でこう言った.
「おや,すまないね.大丈夫かい?」
彼女はその時初めてぶつかった相手を見た.椎の実のような形をした黄金の兜を被り,強靭な鋼の鎧(ラメラーアーマー)を身に纏い,左手に黒い槌矛を携えている.そして,傍には右手で携えていたであろう銀の魔法杖が立て掛けられていた.その兜から覗く顔は彼女の戦死した父親に似た美形で眼の色は彼女と同じ色をしていたため,エレーナは差し出された手を取って立ち上がると頬を赤くしながら彼に言う.
「はい,大丈夫です……あ,ぶつかって申し訳ありません」
「それくらい別にいいさ.それより君の服が汚れてしまったね,私が魔法で綺麗にしてあげるよ」
ぶつかった相手の青年はそう言って魔法杖を手に取り,魔女アンナと同様に無詠唱で光を発することも無く魔法を発動させると彼女が床に倒れた時に付いた埃や砂が地面に落ちて行き,小さな染みも消えていく.彼女は手袋を見てその様子に目を丸くしていると彼は柔らかい表情をしてこう言った.
「後ろも綺麗にしたから,そのまま外に出ても問題ないよ.それと,君は服装を見るに可愛いお嬢さん……でいいのかな? 性別的に不満があるのなら言ってくれ,訂正するよ」
「え,私の性別が分かるのですか?」
彼女は青年の顔を瞬きもせずに見つめながら言った.それに対して彼は笑いながら笑顔で自己紹介を始める.
「アハハ,もちろん分かるよ.私は優れた魔法使いだから魔力で大体の事は分かる,君が可愛い少年の勇者である事もね.キエフスク出身のヴォリガ―・アレクセーエヴィチだよ.よろしく!」
「は,はい! 私の故郷はペトロフスクで,名前はエレーナ・ペトロヴナです.よろしくお願いします」
「分かったよ.その名前で呼ばせてもらうね」
彼は柔らかい表情をしながらそう言うとその表情のまま言葉を続けた.
「エレーナ・ペトロヴナ,確かにここの警備は甘いけど屋敷に忍び込むのは良くないかな.屋敷の中は自分の立ち位置すら分からない馬鹿と女を連れ込むような阿呆が多いから,君には少し危険だ.だから,私が外まで連れて行ってあげるよ.付いてきてくれるかな?」
「は,はい!」
彼女は青年の左側を歩いて付いて行った.建物の中ではその日試合の無い者達は普段着で酒を飲み,女を侍らせ,賭け事に興じ,予選が近い者は彼の様に時代錯誤な鎧姿で静かに過ごしていた.そんな者達の中で彼女が興味を持つような強者は半数以下であった.そして,階段に差し掛かると彼は歩きながらこんな事を話し出した.
「君は恐らく,ロストーフツェフ陸軍少将……英雄アレクサンドルを見に来たのだと思う.だけど,私も強さには自信がある.もし良かったら,私の試合も見て欲しいのだけど,どうかな?」
「見ます! 二戦目に貴方は出場するのですか?」
彼女は歩きながら彼の横顔を見て返事をすると,彼は彼女の方を向いて笑顔で言う.
「あぁ,それと確か,彼は杖で殴打して戦ったと聞くから私は趣向を変えて戦わせて貰おうかな,魔法使いらしく戦うよ」
二人はそんな事を話しながら屋敷を出て,衛兵が立つ正面の門を通り過ぎると足を止めて彼は彼女の顔を見ながら伝える.
「私はこのまま予選に向かう.もし私に興味を持ってくれたら,また会いに来てほしい.正面の門まで来たら衛兵に君の名前を添えて,私に用があると言ってくれれば会いに行くよ」
「本当ですか! 絶対に会いに行きますね!」
彼女は目を輝かせながらそう言うと.ヴォリガ―は笑いながら歩いて闘技場の方へ行った.そして,エレーナは待たせていたアンナの元へと向かう.しかし,曲がり角を進むと朽ち葉色のローブを着たアンナともう一人,裏打ちされ刺繍が施された一枚の絹布で出来た冠型の被り物を身に付け,服は空色を基調としたサラファンを身に纏った魔女マリーナが会話をしているのを目にして彼女は足を止めた.アンナはその様子を見るとマリーナを連れて彼女の元へと近づきながら声を掛ける.
「警戒しなくていい.彼女が前に話した私の友人マーシャだ」
マリーナは彼女から手が届く距離にまで近づくと,アンドレイに話したような口調で話しかけた.
「こんにちは.貴方の事はこの子から話を聞いてるよ.私はマリーナ・ユーリエヴナ,今はキイ魔法使い養成学校で教えている身だね.まあ,大会にも参加しているからよろしくね」
「私の故郷はペトロフスクで,名前はエレーナ・ペトロヴナです.よろしくお願いします」
「うん.知ってるよ.そろそろ予選が始まるから,また後でねーー」
彼女は普段通りに自己紹介をすると,マリーナは笑顔を見せながら返事をして小走りで屋敷の方へ向かって行った.彼女はその方向を見ながらアンナに言う.
「私達も観客席に戻りますよ」
「あぁ,それと,勇者アレクサンドルには出会えたのか?」
「はい.それと,良い人に出会いましたよ,ヴォリガ―・アレクセーエヴィチという方なのですが…………」
彼女は魔法使いヴォリガ―の事を話しながら,彼が出場する予選二戦目を見る為に観客席に戻って行った.
彼女はマリーナに昔一度だけ会った事があった.それは7年前,彼女が実家に居た頃にマリーナが来客として訪れたため,彼女は母親の指示でフランツィヤ・クーリツァ料理を作った.すると,彼女はマリーナに呼び出されて料理を褒められたのである.その時,彼女は名前を聞かれて『エレーナ・ペトロヴナ』と名乗った.殆ど会話をしていないが彼女も忘れて居なかったため,足を止めてしまったのである.
予選二戦目は魔法使いヴォリガ―と勇者トゥドルを含む他6名の強者達の戦いであった.彼は先と同じように黄金の兜を被り,強靭な鋼の鎧を身に付け,黒い槌矛と銀の魔法杖を左右に携えて闘技場に入り,観客席を見渡しながら舞台の中央まで歩いていく.彼女はその魔法使いの方を見ながらアンナにこんな事を言う.
「あの人がヴォリガ―・アレクセーエヴィチです! あ,今,私の事を見てくれました!」
そして,頬をほんのりと赤く染め,眼を輝かせながら
「私,この試合が終わったら絶対に彼に会いに行きます.貴方も付いて来て下さい!」
と,彼女を見つめるアンナに言った.それに対してアンナは口元に笑みを浮かべながら,優しそうな眼をして一言こう返した.
「分かった」
審判を務める店主アンドレイの掛け声で二戦目が始まった.ヴォリガ―が無詠唱,無発光で魔法を発動すると舞台全体が12月のヴルガ・マスクヴァ北部のような氷点下を大きく下回る気温となり,冷やされた空気から白い煙が発生した.それは観客席にまで及び,気温が低下し始める.観客の多くは無理をしてでも見ようと身体を震わせながら試合を観戦していたが,エレーナは目を輝かせながら声援を送り,アンナは笑顔で偶に彼女の事を見ながら静かに試合を観戦していた.
始まった強者達の戦いは殆ど一方的な物だった.強者がその魔法使いに剣を振るえば,当たる寸前で青白く半透明の薄い膜のようなものが発生し,剣を止める.そこから人間がいくら剣に力を入れようと1mmも進まないのである.魔法使いが使う『魔法の盾』は魔力を変換し,ぶつかった物体の運動エネルギーと相殺する.すなわち,その魔法使いの相殺できる量を超えるか,魔力が切れない限りはその守りを抜く事は出来ない.つまり,この魔法を使う者達に対し,人間が真っ向から戦ったところで勝ち目など無いのである.
そして,魔法杖を持つ勇者トゥドルは母国語で構成される魔法を詠唱し,光を発しながら爆発魔法を放った.爆燃によって膨張したガスによるエネルギーをヴォリガ―の『魔法の盾』は容易に打ち消し,熱も同様に消し去った.
「アハハ,下手くそだなぁ,酸素バランスが負に傾き過ぎだよ」
ヴォリガ―は笑いながらそう言うと,勇者トゥドルに近づき,杖を取り上げ,へし折って地面に捨てる.そして,寒さで震えながらも降参しない強者共を素手で掴み,審判による敗北が言い渡されるまで何度も凍り付いた地面に叩きつけた.そうして,その魔法使いは勝利したのである.彼女はその様子を見て眼を輝かせながら
「ヴォリガー・アレクセーエヴィチ,カッコいいです! 早く会いに行かないと」
と言って席を立ち,アンナの方を振り向かずに彼の下へ向かった.アンナもまた,彼女を追って後ろに付いて行く.そして,人々がひしめき合う空間の隙間を縫って彼の元へ向かう途中,彼女達に声を掛ける者が居た.
「やぁ,その方向だと,私に会いに行くつもりかな?」
彼女達はルパシカ姿の彼と出くわした.そして,場所を人気の少ない所に移すと,彼女は一言目に彼の試合を褒め称え.二言目にアンナの事を説明し,三言目に真面目な顔をしてこんな事を言った.
「ヴォリガ―・アレクセーエヴィチ,貴方を雇いたいです.私と一緒に魔王軍ウル・タルタルスと戦いませんか?」
アンナが一言,彼女に口を出す.
「待ってくれ,彼はヴルガ・マスクヴァ帝国の第一軍,第二軍団長,ドブルィニン陸軍少将だ,ペトロフスクの陸軍幼年学校出で,魔法使い養成学校の設立にも関与した有名人だ」
「言わないで欲しいね.ちっこい魔女ちゃん.私はヴォリガ―・アレクセーエヴィチとだけ名乗ったんだ.一人の人間としてこの子と接したいのだけど,君にはそれが分からないのかい? <仕事を終えたら,思いっきり遊べ>とは言うだろう? 私だって珍しく取れた休暇中くらいはのんびりとしたいんだよ.ほら,こんなにも萎縮されたらまともに話せないじゃないか」
ヴォリガ―が言うように彼女は真っ青になって震えていた.この時まで彼女は相手が何者か知らずに接しており,最後に言い放った言葉は階級が遥かに上の彼を侮辱したようなものであった.そして,彼は姿勢を低くし,彼女に目線を合わせて声を掛ける.
「すまなかったね.私は今日の予選が終わったらスぺランツェイ通りの『ストリゴーリニキ』|(アンドレイの酒場の店名)と言う酒場で待っているから,落ち着いたら来てくれないかい? それでは,また」
彼はその場を立ち去った.時間は雨が降るように過ぎ,空が暖炉の炎のように赤くなった頃,彼女達は客が15名程入ったアンドレイの酒場に居た.エレーナはカウンター席で静かに俯いて.アンナはその傍で目の前にある紅茶に口を付ける事も無く彼女の事を見つめていた.そして,ついにルパシカを着たヴォリガ―がその酒場を訪れた.
「おや,私のほうが遅かったか」
彼はこの国の言葉でそう言うと,彼女の隣に座る.そして,自身の方を向いた彼女に対して笑顔でこう言った.
「私は別に怒ってないよ.君の部下にもね.ここは酒場だ.飲み食いしながら気軽に話そう.階級なんて関係ない.対等に話させてくれ.当然,私が君達二人の分を持つさ.好きに食べてくれ」
「……はい,ありがとうございます」
彼女が小声でそう返すと,ヴォリガ―は次々とヴルガ・マスクヴァ料理を注文し始め,お酒を棚ごと要求する.その為,カウンターに居たアンドレイは妻と仕事を交代し,彼の注文に答えた.彼は順番に運ばれる『ピロシキ』等の前菜,『シチー』や『ボルシチ』と言ったスープ,魚を用いたメイン料理や『カーシャ』のようなサイドディッシュ,イチゴ等を甘く煮た『ワレーニエ』といったデザート等をそれぞれ47皿ずつ食べ,お酒を延々と飲み続けた.それに対して周りの多くの客が目を丸くし,彼女はその様子を見ながら人並みの量を食べていた.そんな彼女に対して,カワスズキの丸焼きを目の前に差し出して話し出した
「ほら,食べると良い.というよりも君は食べないとダメだよ.君の魔力の変換効率は六割を超えている.だから人の二倍は摂取しないといけない.それに最近までろくなものを食べてない様に見える.もっと食べれば綺麗になれるよ」
魔力とは,食事によって得られるエネルギーの一部が変換されて貯められる物だとされている.その変換効率は人によって異なり,その良し悪しは資質であるが,魔法やポーションによって一時的には変える事が出来た.彼女の六割という変換効率はかなり優秀な部類である.そんな彼女はこう断ろうとした.
「私,ここ二週間は多めに食べていますよ.これ以上食べたら太りますので,少し頂くだけでもよろしいですか?」
「全部食べても大丈夫.まだ君は若い.身長もまだ伸びるから遠慮しなくて良いんだよ.アンナもそう思わないかい?」
料理を食べ終えてクッキーを齧っていたアンナは彼に言われて祖国の言葉で言う.それに対して彼も同じ言語で返す.
「異論は無いが,彼女は元来そこまで食べる習慣が無い.無理強いはしたくない.それとあまり公共の場で名前を呼ばないでくれないか?」
ド「君の名前はよくある名前で雇い主は偽名.何処に隠す必要があるんだい? どうせなら,愛称で呼び合えばいい.そうだ,私としては君達の愛称を教えて欲しいな」
「私の事はレーナと呼んで下さい」
「……私はアーニャでいい」
エレーナに続いてアンナも彼に愛称を教えた.それから暫くの間,この国の言葉で変哲のない会話を続けた後,彼女は真剣な表情をしてヴォリガ―を見つめてこう言った.
「ヴォリガ―・アレクセーエヴィチ,私は貴方を侮辱しました.謝るだけで済むとは思っていませんが.ひと先ずは謝罪させてください.申し訳ありませんでした」
「分かった.私を満足させるような芸を披露してくれ,そうしたら,今回の件は無かった事にしよう.神に誓うよ」
彼女はその言葉を聞いて,少しの間,俯いて何も喋らなかった.そして,彼女を見つめていたアンナが彼女に提案を行う.
「歌はどうだ? この酒場は防音性にも優れる上に楽器も揃ってる.私も君の歌を聞いてみたい.だから歌ってくれないか?」
「分かりました.アーニャの提案に乗りましょう.ナターリヤ・ヴァシーリエヴナ,歌っても良いですか?」
「主人に聞いてきます.許可は下りると思いますので使う楽器を考えておいて下さい」
ナターリヤは淡々とした口調で彼女に言葉を返した.結果として彼女達は演奏の許可を与えられ,彼女は祖国の歌を歌い,アンナは最新のレフグラード製アコーディオンを手にして音楽を奏でる.彼女が歌えば,ヴルガ・マスクヴァの言葉を知らぬ者であってもその透き通った歌声を賞賛し,歌が終われば歓声が上がる.そうして,心を震わせるような綺麗な歌声の中で時間は過ぎていき,彼女の不安も消えて行った.
メモ
吉岡 正敞 日英仏対照ロシア語ことわざ集 駿河台出版社 1992 p51より <仕事を終えたら,思いっきり遊べ>
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