206日常~魔女マリーナが訪ねてきた



 武術大会まであと一週間を切ったある日の夜.アンドレイはカウンターの奥の部屋,かまどによる熱気が充満し,スープや焼き立ての白パン等の匂いに包まれた調理場で料理をしていた.一方,彼の妻ナターリヤは表のカウンターで無愛想な表情をしながら接客を行い,客の注文した料理を纏めて彼に伝えていた.二人の仕事は定期的に交代しながら行われているが,基本的には妻より腕が良い彼が料理を担当する時間が長く,仕込みも大体は彼が行っていた.



 そんな二人の出会いは彼が現役の勇者であった頃,貴族の社交界でナターリヤが彼に声を掛けたことに始まる.当時の彼は階級もそれなりに高く,他の勇者程では無いものの高い戦果を上げて英雄となっていたため声を掛けられたのだが,二人が意気投合したのは音楽であった.勇者となる前は音楽家を目指していた彼と,貴族として音楽の教養があったナターリヤは惹かれ合い.彼は他人に成りすまし,この地に逃げる時に駆け落ちのような形でナターリヤを連れてきたのである.



 二人の仕事の交代時間となり,ナターリヤは調理室の扉を開けて彼に交代を伝えるついでにこのような事を言った.



「ねえ,アンドリューシャ,あの魔女の子(アンナ)だけど,ヴルガ・マスクヴァの勇者と仲良くなりつつあるじゃない.私達の事をあの勇者に漏らしたりしないかしら?」



「まあ,大丈夫だろう.アネ―チカ(アンナ)は口が硬いし,わしらより年上で優秀だからな」



 アンドレイは手を洗いながら返事をし,ナターリヤは彼を真剣な表情で見ながら強い口調で反論する.



「いつも言ってるけど,私はあの魔女の子が優秀だとは思えないの.この前も店を吹き飛ばそうとしたのよ.それに『目立ちたくない』とか言っておきながら,杖を持ってローブ姿で街に繰り出している.あの魔女の子は養子だから優秀な両親とは違う.貴方はもう少し彼女の評価を見直すべきよ!」



「わかったよ.ナターシャ(ナターリヤ)」



 彼は妻の言葉を流して調理室を出て行くとカウンターに立って客の注文を受け,お酒を振る舞い始めた.そして,ナターリヤもそれ以上は反論せずに仕事を始め,フライパンを振るい,野菜を鍋で煮込み,パンを焼いていく.



 アンドレイは雷属性の魔力を失ってから,一般人並でしかなかった土属性の魔力をアンナとその両親の元で実用可能になるまで鍛え上げ,それと同時にアンナ達の派閥が使う魔法とポーション作りを学んでいた.それに対し,ナターリヤは彼のように魔法に精通しているわけでも無く,アンナ達との関わりも少ない.そのため,彼ほどアンナ達の事を知っているわけでは無いが,店を訪れた時は可能な限り言動,仕草を細かく観察しており,彼とは違う視点でアンナとその両親を評価していた.彼女に言わせればアンナの父親は警戒すべき対象では無く,母親は絶対に敵に回したくない存在であった.その眼はエレーナにも向けられており,現在の時点では充分に警戒すべきだと考えていた.



 エレーナが風邪を引いた日以来,アンナは毎朝その小さな勇者の元へと向かう際に朝食を持って行くようにしていた.それは主に焼きたての具材が入ったパン『ピロシキ』が多く,その調理はアンドレイ達が家族で使う台所で行われていた.食材は彼から買った自分の分を使い,片付けも丁寧に行うアンナであったが部屋ごとの防音性が非常に高いアンドレイの酒場であっても,ナターリヤは早朝,日が昇るよりもずっと前から行われる調理が気になって仕方が無かった.そう言った事で少なからずアンナの存在が負担となっているため,ナターリヤにとっては面白い物では無かった.



 そんな,厄介者のアンナはエレーナが安全に帰られるようにと付き添って宿まで送り届けることが習慣化していた.二人がそんな会話をしたのも,そのとき,小さな勇者を送り届けていて,アンナが酒場に居なかったからである.



 場所は変わり,弱い光を放つ街灯が並ぶスぺランツェイ通りを歩く若い女が居た.彼女の名はマリーナ・ユーリエヴナ.彼女は裏打ちされ刺繍が施された一枚の絹布で出来た冠型の被り物を身に付け,服は空色を基調としたサラファンを身に纏っていた.そして,アンドレイの酒場の前まで来ると,庭に植えられた向日葵の花を撫でてから黒い扉を開けて酒場に入って行った.



 酒場に入ると,真っすぐカウンター席に向かい,座ってからアンドレイにヴルガ・マスクヴァの公用語で話しかける.



「こんばんは.久しぶりだけど,私の事分かる?」



「……少し待ってくれ,今思い出す」



 彼は彼女と同じ言語でそう言うと,マリーナの姿を見続けた.彼は被り物で覆われていない頭頂部から覗く焦げ茶色の髪を見ても答えず,後ろから伸びる三つ編みで纏められた尻尾のように長い髪を見ても答えず,美しさと可愛さを持つ整った顔と水晶のように透き通った灰色の眼を見ようと答える事が出来なかった.



 3分経つと彼女はジェスチャーを交えながらフランツィヤ・クーリツァの言語で話し始めた.



「お姉さん悲しいなーー.アンドレーイカが13歳の時,モスコフで一週間も相手してあげたのよ,初めての時なんて,何も知らない貴方に色々教えて一晩中ベッドの上で交わってあげたのになーー.その時,私の名前を何回も呼んでいたよね? もう少し言わないとダメ?」



「マリーナ・イヴァノヴナ……いやマリーナ・ユーリエヴナだな.頼むからその話は止めてくれ」



  頭を抱えながら,彼女と同じ言語でそう答えた彼に対して,彼女は卑猥な笑みを浮かべながらこう言った.



「いいよ.でも答えてね.アンドレーイカ,貴方の友人の娘,ここに来てない?」



「あぁ,あの子なら一ヶ月程前からここに泊っている.2時間後には帰って来るはずだ」



 彼がアンナの所在について答えたのは,彼女が魔女アンナの友人関係にあると認識していたからである.アンドレイとマリーナの関係は彼が養成学校で学んで居た頃,街で出会った彼女に誘われて肉体関係を持った事に始まるが,彼女が一週間でモスコフを離れたため,その素性に気が付く事は無かった.それからは何年も出会う事は無く,勇者として戦い,魔王に殺され掛け,アンナ達の元で療養し始めた頃,休んでいた小屋に彼女が訪ねてきたのである.彼はその時になって彼女が魔女であることを知り,同時に彼女がアンナの友人である事を理解した.



「それなら,ここで待つことにするね.アンドレーイカ,適当に料理と酒を見繕って,料理は祖国,モスコフ辺りの料理でお願い.これでも,お金はそこそこあるから」



 彼女は頬杖を付きながら祖国の公用語で言う.そして,順番に運ばれてくる『ピロシキ』や『シチー』,焼いたチョウザメをヴルガ・マスクヴァ南部の上質な葡萄酒を味わいながら,切り取って口に運ぶ.その途中,彼女はアンドレイに卑猥な笑みを浮かべながら話しかけた.



「ねえ,アンドレーイカ.魔力が強くて賢い男,紹介してくれない? 私もこの街で探したけど,詐欺師と妻帯者にしか会えなかったの,だから溜まっちゃって.あーー,できれば若い人がいいなーー」



「はぁ,若い奴だと知らないな.友人はわしよりも年上ばかりで魔力がある奴なんて殆ど居ない.悪いが諦めてくれ」



「そっか,残念」



 彼の溜息交じりの言葉を聞いた彼女は再び食事を口に運び始める.そして,食後には更にウォトカを飲みながら,こんな事を祖国の公用語で喋り始めた.



「私ね,今はキエフスクのキイ魔法使い養成学校で魔法を教えているの.これが結構大変でね,貴族から農奴まで様々な階級が集まるから問題が絶えなくて.それに教える側もモスコフかペトロフスクで卒業したばかりの人が多いから,間違った事を教えている人も多いの.例えば魔法杖の増幅機能についてだけど,あれって僅かな魔力を流すと,その数百倍の魔力を体内から無理やり外に出す物なのに何も無い所から増やしているみたいな事を言う人が居るの.体感的にも感じ取れる現象なのに,それすら分からない落ちこぼれが教えるから私が修正しないといけないことも多くて」



「それは仕方ない事だな.そもそも魔法使い養成学校自体がわしが祖国に居た頃には無かった物で全く新しい物だ.それに平時ならまだしも戦時中である以上,あまり力を割けないのだろう」



 魔法使い養成学校の歴史は十数年前にモスコフに建てられて始まった.それまでは主にごく一部の貴族や教会,古くからの魔法使いの共同体によって魔法の多くが伝えられていた.彼らは様々な理由により魔法を流出させようとしなかったが,その最たるものは魔法杖の製造期間である.当時の杖は魔力を持つ者が数十年掛けて作り上げるような物であり,非常に高価な物であった.しかし,魔法杖の製造技術に革命が起こり製造期間が短く,結果として比較的安価に生産出来るようになった事と幾つかの魔法の開発によって軍事利用が可能となり,皇帝の命により魔法使いを軍に組み込むことが決定した.そのために作られた魔法使い養成学校は社会階級を問わず,一定基準の魔力を持つ者を集めて魔法使いの育成を開始した.もっとも研究機関としてでは無く,魔法を使う兵士育成機関であるため,その教育は実際に魔法を発動させることに重点を置いており,経験から得られた魔法の発動方法を模倣させる事によって短期間で幾つかの魔法を唱えられるようにしていた.



 一定基準の魔力とは消費魔力の一番低い魔法を発動させる事が可能な魔力を持つ事である.生物は如何なる者でも魔力を持っており,その容量は同じ種族であっても異なるが不変では無く増やす事が出来た.その方法は魔法を発動させる事によって鍛えると言うものであり,養成学校はそれを可能とする人間のみを魔法使いにしていた.また,ヴルガ・マスクヴァは魔女狩りの規模が小さかったことで他国よりも多くの魔法使い候補が国内に存在した事で複数の養成学校を建てる事が出来た.そして,彼女の勤めるキイ魔法使い養成学校はモスコフ,ピョートル魔法使い養成学校|(場所はペトロフスク)に続く3番目の養成学校であった.



 マリーナは上目遣いをしながら,人並みにある胸をカウンターに押し付けて言う.



「そうなんだけどね.でも,少しは私に同情して欲しいなーー.ペトロフスクの魔法使い家系の貴族から送られてきた,魔法使いが一ヶ月で根を上げる環境って言ったらどう?」



「そうだな,酒を一杯分無料にする.何が良い?」



 彼の言葉に対して,彼女は笑みを浮かべながらこう言った.



「私が欲しいのはお酒じゃなくて言葉だよ.相変わらず分かってないねーー」



 マリーナはそれからも彼に何度かそう言った話をして待ち続けた.アンナが帰って来る数分前にはその魔力を感じ取り,黒い扉の方を見ていたが,実際に酒場に戻ってきて,何時も通りの朽ち葉色のローブを身に纏い,銀の杖を携えながら,茶色の鞄を肩から掛けて,更に蝋燭の入ったランタンを持った姿のアンナを見ても,彼女は直ぐに声を掛けようとはしなかった.一方,アンナは酒場に入ると一直線に彼女の元へ行き



「久しぶりだな.まあ,奥で話そう」



と,この国の言葉で声を掛けると,続けてアンドレイにこう言った.



「すまないが,部屋を貸してくれないか?」



「あぁ,こっちだ」



 彼は彼女達をカウンターの奥,生活空間にある,扉で区切られた個室に案内して,蝋燭の灯りを灯すと別の部屋に紅茶を取りに行った.この酒場は防音性が高く,扉を超えて音が伝わる事は無い.そのため.彼女達は机に着いて祖国の公用語で話し始めたが,彼女は先程とは異なる真剣な表情でアンナを見つめ口調を変えて聞いた.それに対してアンナは普段通りに話し出す.



「すみません.貴方がアンナ・ニコラエヴナであると確認したいので答えて下さい.アンナ・ニコラエヴナは丁度3ヵ月前に私の家に来て,私の5人目の娘に杖を渡しました.そのとき,娘が何て言ったか覚えていますか?」



「正確には3ヵ月前と二日前だな.それに杖を渡したのは4人目の娘で5人目には人形を渡した.その子は人形を受け取ってこう言ってた『可愛い!いつもありがとうお姉ちゃん!』と,今回は結構簡単な内容だな」



 彼女はその言葉を聞くと,すぐに席を立ってアンナの傍に行く.アンナも同様に席を立つと彼女達は抱きしめ合った.マリーナの身長は165cm程,130cmもないアンナに対して,彼女は姿勢を低くして抱きしめていた.マリーナとアンナの関係は弟子と師匠,古くからの魔法使い派閥内での部下と上司,そして,気心の知れた友人でもあった.彼女は離れるとこう言った.



「本当にアンナ・ニコラエヴナなのですね.疑って申し訳ありません」



「いや,良いんだ.見た目も魔力も違うから仕方ない.とりあえず,座って話さないか?」



「はい!」



 そうして,彼女達は再び机に着く.その後,アンドレイが扉を開けて部屋に入り,紅茶とクッキーを中心としたお菓子を机に置いて部屋から出て行った後,彼女達は再び話し始めた.アンナは紅茶を一口飲んで一言目にこんな事を聞いた.



「マーシャ,君が元気そうで何よりだ.それで,君の子供の様子はどうだ?」



「全員元気です.四女スヴェトゥーシュカは貴方から頂いた杖で魔法の練習に励み,人形を13体出せるようになりました.ただ,長女マリヌーシュカは変身魔法を覚えてしまって,まだ,16なのに,これ以上の身体の成長は見込めなくなってしまい……あぁ,ごめんなさい,涙が」



 彼女は長女の事を話し始めると俯いて顔を手で覆い,涙を流し始めた.彼女達の変身魔法は細胞単位で肉体をその生物に変えてしまう.知能や生殖能力といった本質は変わる事が無いが寿命に関して言えば,その魔法が変化した姿を維持し続けるものであることと,一度変身すると本来の姿に戻るのも魔法を用いて元の姿に変身すると言った手順を踏むため老化も成長もしなくなる.そのため,彼女は泣いていたのだ.そして,若い姿のマリーナも少女姿のアンナもその魔法によって自身の年老いた姿を見る事無く不老となり,マリーナはこの時点で100歳.アンナは250歳となっていた.



「私もマリヌーシュカの成長する姿は楽しみだったが,そうか,辛いな,マーシャ.だが,あの子は賢い子だ,覚悟はあるだろう.それに君達は成長も早いから大した影響は出ない.優秀な魔法使いになると信じて見守ろう」



 魔女アンナは彼女に優しくそう言い,彼女が泣き止むまで慰めの言葉を掛け続ける.そして,彼女は少し落ち着いてから涙を払い,アンナに言った.



「すみません.いつも私ばかり……貴方に甘えすぎですね」



「そんな事は無い.私と君の仲だ.いくらでも頼ってくれて構わない」



 アンナはそう言って,クッキーを一口齧る.一方,彼女は泣いた跡が残る,僅かに赤くなった眼で硝子のように透き通った青い瞳を真っすぐと見ながら聞いた.



「はい……もう落ち着きました.次の話題にしましょう.アンナ・二コラエヴナ,一昨日の16:00頃,火属性の魔力も備えた男の勇者と共に西側の広場に居ましたよね? 今の貴方の魔力を知っていれば直接会いにも行きましたが.一体何者ですか?」



「私の雇い主だよ.お母様から魔王討伐命令を受けていたから,丁度この街に訪れていた彼女に雇って貰ったんだ.一週間程前に出会ったばかりだが,料理を振る舞ってくれたり気を遣ってくれる本当に良い子でな.それに聞いてくれ,私の能力でも白と出たんだ.だから,つい,彼女は『モコシ』(女神)からの贈り物なのではないかと思ってしまうんだ」



 アンナはクッキーを片手に持ちながら,口元に笑みを浮かべて嬉しそうに話した.アンナは生来,人を見分ける能力があった.自身にとって害を為す者は赤,自身の絶対的な味方で良い影響を与える者は白,どちらとも言えない者は黒色のような物を纏ったように見える.未だに解析が終わっていない能力であり,効果も経験から得られた情報を元に予想された物であったが,アンナはこの能力を信用していた.その事を知っている彼女も嬉しそうに笑顔で言う.



「貴方がそう言うのなら,本当に良い子で貴方の理想的な人ということなのですね.羨ましいです.彼女という事はその勇者は女性ということですか?」



「あぁ,すまない.その子は男性だが外見が可愛い少女そのもので,殆どの人が彼女を女性扱いしているから,話を拗らせない為に私もあの子の事を『彼女』と言うことが多くて間違えたんだ.まあ,彼女自身,女性を装っているようで,服は女性物のドレスを身に纏って,エレーナ・ペトロヴナという女性名を名乗っている.偽名だとは思うが良い名前だ.早く本当の名前を聞けるような関係になりたい物だな」



 アンナは先と同じように嬉しそうに話し,手に持ったクッキーを食べて紅茶を口にした.その姿を見てマリーナは笑顔で聞く.



「エレーナ・ペトロヴナの事を詳しく聞かせて貰っても良いですか?」



「あぁ,そうだな.彼女と出会った日の事だが,彼女は民話や英雄譚と言った物が好きみたいで,私が戦友のマーシャ(≠マリーナ)を模った氷像を作ったら彼女が『大蛇ゴルィニシチェ! 可愛いーー……はっ! すみません,取り乱しました』と言って喜んでくれたよ.他にも……………」



 アンナはエレーナの事を語り始め,それを彼女は真剣な眼差しで聞く.その語りはアンドレイが紅茶とお菓子を再び運んで来るまで続いた.彼が部屋に入ると,アンナはその語りを止めて彼の姿を見ながら祖国の言葉で声を掛ける.



「アンドーリャ,いつもすまないな.あと三時間程,この部屋を使わせて貰っても良いか?」



「あぁ,戸締りさえしてくれれば,構わない」



 マリーナは頬杖を付きながら彼と話していた時のような口調でアンナにこう言った.



「ねえ,アーニャ,今思い出したんだけど,勇者アレクサンドル・ポポーヴィチがこの大会に出るっていう確かな情報があるの.勇者養成学校でも人気みたいだから,そのエレーナって子,連れて行ったら喜ぶと思うけど,どう?」



 そして,アンナは直ぐに彼の方を向いて尋ねる.



「アンドーリャ,一枚でも良い.大会の入場券は余ってないか?」



「あと13人分は手元にあるが,元々……」



 アンドレイの言葉を遮り,アンナは真剣な表情で彼の眼を見ながら聞いた.



「好きな額で構わないから.二枚,譲ってくれないか?」



「いや,元々君達に渡すつもりで用意していたから,金は取らない.明日にでも持って行くか?」



「そうだな,明日……いや,彼女に聞いてからにさせてくれ」



 アンナの言葉を聞いた後,彼は機嫌が良さそうに少し笑顔になりながら



「分かったよ」



と言ってお菓子と紅茶の交換を済ませて部屋を出て行った.



 彼女達は別の話題で話し続けた.それは,お互いの近況や魔法使い養成学校の制度,この街の美味しい料理店等の話であった.彼女が自身の近況として話したのはアンドレイにも話したような,魔法使い養成学校の愚痴も含まれるが,それ以上にキエフスク付近で問題となっている『ヴルダラク』(人狼)や『ウィプリ』(吸血鬼)の増加が内容の中心であった.そして,魔法使い養成学校の一部の見習い達がそれに加担して他の魔法使い見習い,彼女の教え子にも被害が出ていると彼女はアンナに伝えた.



 アンドレイが再びお菓子と紅茶を運んで来ると彼女達の会話は止まる.そして,彼が部屋から出て行った後,彼女は瞬きもせずにアンナの眼を真っすぐと見て聞いた.



「アンナ・二コラエヴナ,話せないのなら構いませんが,貴方の魔力を削って弱体化させたのは貴方の母親ですか?」



「あぁ,変身魔法を含め,幾つかの魔法を封じられた上でな.話では疑似的に魔力容量の成長,身体能力の成長を再現したらしい.それに,様々な耐性に関しても人並にしたと言っていたな.目的は聞いてないが私の予想としては戦友のマーシャ(≠マリーナ)の子供達に人間の生活をさせる為の魔法を開発しているのではないかと考えている」



 アンナは普段通りの表情で答えたが,その言葉を聞いた彼女は真顔で聞く.



「渡された物は?」



「無い」



「命令されたのは何時ですか?」



「一ヶ月程前に言われた.事前に言われて無かったから,今ある装備は旅用の物だけだな」



 彼女は俯いて少し間を置いてから,先と同じように真剣な表情でアンナの眼を見て話し出す.



「……アンナ・二コラエヴナ,今日は私と逢っていない事にして下さい.魔王は私が殺してきます」



「待ってくれ,何でそうなる.まず,私が命令を受けているから,私の仕事だ」



 その言葉を予想していなかったアンナは慌てた様子でそう言った.それに対して彼女はこう返す.



「……今回の命令は私に言わせれば貴方の尊厳を無視した物です.私が親なら,そんな事を娘に強要などしません.ですので,私に任せて下さい.それに,貴方は運命の人と出会えた.下らない命令に従うよりもそちらを優先した方が幸せになれます」



 アンナは紅茶を一口飲んだ後,彼女の水晶のように透き通った灰色の眼を真っすぐと見て言う.



「世の中には様々な価値観を持つ者が居る.子供に関して言えば,君は私生児を多数儲けたが,戦友のマーシャは結婚した上で多数の子供を儲け,お母様は私と言う養子を取った.子育ての形も皆異なるが,子供を愛してる事だけは変わらない.お母様にも何か考えがあっての事だろうから,そんな事は言わないでくれ.魔王は私が討伐する」



 マリーナは少し間を置いてから,眼を細めながらアンナに言う



「……分かりました.前言を撤回します.ですが,無理はしないで下さい」



「努力するさ」



 アンナは養子である.ヴォルフである魔女ソフィア・フセスラーヴィエヴナの養子となり,魔法や知識,あらゆる物を与えられた.そのためアンナは母に忠誠を誓い,母の言葉を信じ,彼女達が所属する魔法使い派閥の『クニャージ』(長)でもある母親の命令は必ず従っていた.しかし,マリーナはそれが面白くなかった.男癖が悪い一族に生まれた彼女は元来魔女ソフィアとは関係が悪く,批判的に見る事も多い.そして,価値観が異なる彼女から見れば,アンナは母親に都合よく利用されているだけであると見ていた.そのため,アンナは母親と距離を置くべきだとマリーナは考えていたのである.



 それからの会話は弾まず.マリーナは暫く経った後,黒い扉の前に立つアンナに見送られながら,光を失った街灯が並ぶスぺランツェイ通りを歩いて帰っていった.

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