203出会い~魔女アンナを雇う



 エレーナは酒場の店主アンドレイと夕食を共にした日の翌日,曙色の空の下,酒場へ向かって歩いていた.日の出の前であっても街中を歩き回るのは彼女だけではない.一般的な市民達も街道を行き来しており,彼らの中には小柄な彼女の前を横切る者も多く,彼女は何度も足を止めることになった.しかし,勇者であるため,珍しく時間に厳しいヴルガ・マスクヴァ帝国人である彼女は時間通りにアンドレイの酒場に辿り着いた.そして,酒場の向日葵が咲き誇る庭で掃除をしている,頭を広く覆う帽子の後ろ半分にショールを被せ,レディンゴートを身に纏う上品な婦人に彼女は笑顔で話しかけた.



「貴方がアンドレイ・アレクサンドロヴィチの妻ですか? 私は昨日,彼に夕食をご馳走になった者です」



 その言葉を聞いた婦人は手を止めてから彼女の方を向いて答える.



「はい.事情は聞いています.主人と,ここに泊っている少女が貴方を待っています.もう店に入っても構いませんよ」



「分かりました.それと,自己紹介をさせて下さい.私の故郷はペトロフスクで,名前はエレーナ・ペトロヴナと言います.よろしくお願いします」



「私はレフグラード出身のナターリヤ・ヴァシーリエヴナです.よろしく」



 婦人は自身の名前を明かすと直ぐに掃除に戻っていった.その頃,酒場では昨日と同じようにアンドレイと少女がカウンターで言葉を交わしていた.少女は昨日と同じ全身を覆う朽葉色のローブを着てフードも被っていたが,昨日とは異なり,この国の言語を用いて,頬杖をつきながら低めの声で喋っていた.



「なぁ,なんで私の魔力が減っている上に銃の弾が一発無いのか,教えてくれないか? 私は一体何をしたんだ?」



「すまない.わしが君を怒らせたんだ.それで君は魔法を使い,発砲もした,被害は天井の板一枚だけだから問題ないよ」



「酔っ払った時の私は酷いものだな.どうせ,きっかけは些細な事だったんだろ? 悪いが,修理費用はお父様にツケておいてくれ.ただ,アンドーリャ,私が銃を撃つのは止めて欲しい.それと,頭が少し痛い.私の部屋で話したらダメなのか?」



「頼むから,もうあと20分は待って欲しい」



「わかった」



 二人の会話が途切れた時,エレーナは黒い扉を開けて柔らかな日光と共に酒場に入り,いつも通りの笑顔で二人に声を掛けた.



「おはようございます! 時間通りにきましたよ!」



「おはよう,時間は……5分前か,ともかく来てくれてありがとう」



 そう言って,アンドレイはエレーナに近づいて彼女と握手をすると,今度は後ろを向いてこう言った.



「わしは食材を仕入れてくる,まあ,好きに話していてくれ」



 アンドレイが酒場を出て行くと酒場の中に居るのはエレーナと少女の二人だけになった.カウンターにはクッキーと二人分の紅茶にジャムがある.それは間違いなく,二人の為に用意された物であった.しかし,彼女は直ぐに座ろうとしない.少女が目を細めて無言でじっと彼女を見つめていたからである.暫くしてから少女は口を開いた.



「なあ,近くに来てくれないか? 二日酔いのせいか良く見えないんだ」



「いいですよ」



 彼女は少女の下へ静かに歩いて行って隣の席に座る.少女はその間も目を離さずに彼女の瞳をじっと見つめていた.



 12分経っても少女の硝子のように透き通った青い瞳がエレーナの水晶のような青い瞳を見つめ続けていた.そして,静寂に包まれていた空間で少女は小さな声で独り言を発した.



「……白」



 少女は視線を机に落とすと,そのまま数十秒ほど下を見続けた.そして視線を戻し,真っすぐと彼女の目を見て話し出す.



「あぁ,すまなかったな.私はアンナ・ニコラエヴナだ.君はヴルガ・マスクヴァ帝国の出身らしいな.私も同郷だ.よろしく頼む」



「私の出身はペトロフスクで,名前はエレーナ・ペトロヴナです.こちらこそよろしくお願いします」



 彼女は笑顔でいつも通りに返事を返した.それを皮切りに二人の会話が始まる.



「まあいい,自己紹介をさせてくれ.私は『ヴォルフ』だ.最近力を失ってしまって鍛え直さないといけないが,今でも簡単な魔法なら使える上に知識だけは以前と変わらないから魔法を教授することも出来る.正確に言えば,学校程度の魔法は使用魔力量を無視していいなら全部出来る.それ以外の高度な魔法も一部を除いて使える.どうだ,雇ってはくれないか? まだ,知りたいことがあれば聞いてくれ.答えられる範囲で答える」



 アンナもアンドレイと同様に彼女の名前に疑問を持ったが彼よりも受け入れるまでの時間は短かった.そして,アンナの自己紹介に対する彼女の反応はこのようなものだった.



「『ヴォルフ』というのは,もしかして魔法使いの事ですか?」



「あぁ,そうだ」



 彼女にとって『ヴォルフ』とは狼の事を指す以外にもう一つ別の意味を知っていた.それは,英雄譚の魔法使い『ヴォルフ』,彼は蛇と人間の間に生まれた魔法使いであり,魔法で動物に姿を変えることが出来た.そのため,彼女はこんなことを聞いた.



「アンナ・ニコラエヴナ,貴方は『眼光鋭き鷹』のような動物に変身することが出来たりはしませんか?」



 アンナは目を横に逸らして少し間を置いてから,目線を戻してその言葉に答えた.



「……そうだな,人を狼や犬にする手段なら知っているが,それとは別の魔法だから出来ないと言った方がいいな」



「そうですか,次は貴方自身のことを教えてください.まずは嗜好について聞かせてもらってもいいですか?」



 アンナは一瞬目を見開いてすぐに下の方を向いた.そして.少し時間が経ってから目線を戻して答えた.



「……まあ構わない,答えよう.私が好きなのは戦うことだな.戦争,暗殺,決闘,何でもしたさ.大体は魔法で爆轟を起こして障害物ごと吹き飛ばしてた.当然,無関係の人間を巻き込むこともあったな.まさに危険人物と言って良い.人の道は外れていると思うよ」



 10歳の少女にしか見えないアンナがその見た目とは似合わないことを言い出したためか,彼女は少し困った顔をしながら先の言葉を言い直した.



「別に貴方の強さに関わることではなく,好きな食べ物や趣味のことですよ」



 アンナは表情を変えずに俯く.そして数十秒後,再び目線を戻して答える.



「…………そうだな,好物で言えばクッキーだな.昔から好きだが,最近の物は特に美味しくてな.食の細い私でも,大量に食べる事が出来るということもあって重宝している.それと趣味は……読書くらいだろうな.伝承も好きだから,よく聞いてたがな……これくらいしかない.すまないな,つまらない人間で……」



「……暫く気を抜いて話してみませんか? 私も民話や伝承は好きですから」



「分かった」



「民話で『銅の国,銀の国,金の国』というものがあります.ご存知ですか?」



「あぁ.知ってる.たしか…………」



 二人は話し合った.民話や伝承以外にも,話題は歌,裁縫,料理といったものにも移り変わっていく.それに対してアンナは十分な知識を持っており,彼女を満足させるものだった.アンドレイが店の奥で仕込みを始めても会話は終わりを見せなかった.そして,二人の緊張がほぐれて,柔らかな表情で話し合うようになった後,彼女は真剣な表情でこんな事を口にした.



「そういえば,アンナ・二コラエヴナ,貴方の拳銃は何処で入手したものですか?」



「……そうか,君は昨日,酒場に居たのか」



 アンナは残念そうに,その言葉を発した後,ゆっくりとローブの中に手を入れて,黒色のメッキが施された金属製の拳銃を取り出して机に置いた.そして,その銃を見ながら話し出す.



「この銃はお母様が作った.もう50年程前の話だな.お母様から頂いてから大切に使っているつもりだが,殆どの部品が入れ替わっている.だから同じものとは言い難いかもしれないが,それでもお母様から頂いた物に変わりはない.私の宝物だよ」



 エレーナはその話を聞いた後,次の言葉を発するまで少し時間が掛かった.現在よりも高度な技術を使ったであろう銃が50年前に作られていたというのだから,困惑するのも無理はない.彼女が次に発した言葉はこのような物だった.



「貴方のお母さんはいったい何者ですか?」



 あまりにも直接的すぎる言葉を発した彼女に対してアンナは何度も間を開けながら返した.



「私と同じ,『ヴォルフ』だ…………いや,それだと説明にならないか.そうだな……元錬金術師だから,何でも自分で作ろうとする……だから,腕試しなんだろうな.拳銃どころか,長物であってもヴォルフには必要無いからな……私が話すことができるのはここまでだ」



「わかりました.それでも構いませんよ」



 彼女がそう言った後,アンナは目を下に遣りながら小さな声で彼女に聞いた.



「その,私は不採用だよな?」



 彼女は柔らかな表情と優しそうな声でこのように返した.



「そんなことありません.私としては貴方を雇いたいと思っています.ですが,もう少し話をしましょう.私自身のことをまだ伝えていません」



「分かった」



「聞いているとは思いますが,私は勇者です.モスコフ勇者養成学校第32期生,エレーナ・ペトロヴナ.手持ちの武器は杖だけです.仕込み杖だと聞いて実家から持ってきたのですが私では抜けません.それに私は魔法を使うのが極端に苦手です.養成学校で魔法の訓練を受けたはずで,更に実家でも練習してみたのですが上手く行きません.つまり,勇者としては非力と言わざるを得ません.そのため,貴方以外の強者も何名か雇うことになります.それでも良いですか?」



 彼女の語りは,街で強者に声を掛ける時とは別人のように落ち着いた物言いだった.それに対して,アンナはこんな事を言い出した.



「……それは構わないが,その仕込み杖を見せてくれないか?」



「いいですよ」



「机の上に置いてくれ」



 彼女は杖を鞄から取り出してカウンターに置いた.アンナは杖を見ながらゆっくりと机まで腕を上げて,杖を手に取ると少しずつ膝まで持って行く.そして,アンナが持ち手を引くと一部が焦げて変色した刀身が杖から徐々に顔を出し始めた.5cmほど刀身を出すと,その様子を瞬きもせずに見つめている彼女に淡々と語り始めた.



「この仕込み杖は魔法使いが使うことを前提としたもので杖の調整と一致した魔力を持つ者じゃないと引くことが不可能.つまり,杖の調整が君とは別人の魔力になっているから抜けないということだな.そもそも,調整していない杖の時点で,魔力の増幅が上手くいかないから魔法杖としての役割を果たさない.暗器として使うとしても,その仕込み杖の仕組みは杖に魔力を流すことによって内部に書かれた術式が発動し,刀身の周りの空気を約1873Kまで加熱させて強度の低下した金属を叩き切ることが前提で切れ味は無い.だから,杖を調整しない限り,使い物にならないな」



 彼女はふと疑問に思ったのだろう.純鉄の融点は1538℃,それに炭素等を含ませた鉄の融点はそれよりも低いことが多い.そのため,彼女はこんなことを聞いた.



「その温度だと刀身そのものが溶けませんか?」



 その言葉に対して,アンナは先と同じように淡々と話し続ける.



「内部から冷却して刀身の温度は融点を超えないようにしている.それと刀身は一般的な鋼鉄じゃなくてニッケルの合金で出来ているから耐久性も高い.持ち手も普通の人間が持てるように冷却してはいるが,熱対流と熱伝達で持ち手以外からも熱が伝わるからその熱を遮断する魔法を使う必要もある.無駄が多い上に小型だから魔法杖としての性能も低い.失敗作と言えなくもないな」



「確かに無駄が多そうですが,私としては面白い武器だと思います.この仕込み杖の制作者についてはご存知ですか?」



 アンナは少し嬉しそうな表情をしながら彼女の問いに答える.



「お母様が設計して製造していたが.私も6本ほど生産したんだ.その仕込み杖の製造番号は16,私の作品だ.ここで君がその杖を持って私と出会うというのも何かの運命かもしれないな.そうだ,杖の調整は私に任せて欲しい.それと,自覚は無いかもしれないが,君は『生粋の魔法使い』だ,魔法くらい私が教えるさ」



「そ,そうですか,それなら,貴方に任せますね」



 彼女が戸惑ったのも仕方が無かった.それは,彼女が生まれる前から家の倉庫に置いてあった仕込み杖を幼女に近い少女姿のアンナが生産したと言い出したためである.更に,その嬉しそうな表情をしたアンナが彼女の妹達とよく似ていた事も彼女の動揺を誘った.そして,アンナはその嬉しそうな表情を崩さずに彼女に声を掛けた.



「……すまない,二日酔いが酷いから,二階にある私の部屋で話したいのだが,それでもいいか?」



「わかりました」



「付いてきてくれ」



 アンナは席を立って歩き出す.しかし,その歩く姿は年老いた犬よりも弱々しく,両手で握った杖を右前に出してそれを支えに少しずつ足を進めるといった様子だった.それを見た彼女はアンナの下へと駆け寄ってこう言った.



「大丈夫ですか? 私が背負いますよ」



「……頼む」



 彼女は質量の小さいアンナを軽々と背負って部屋へと向かう.階段を登り終えるとアンナはこんな事を言った.



「すまないな,今日は体が上手く動かないんだ.いつもは普通に動くのだが」



「別にいいですよ.私も二日酔いになった時はあまり動けないですから,そんなものです」



「……そうかもな」



 部屋に入って,彼女が具合の悪くなったアンナをベッドに座らせるとアンナは座りながら朽葉色のローブを脱ぐ.ローブの下に着ていたのは農民のような朱色を基調としたサラファンだった.更に肩から掛けた拳銃嚢とナイフの鞘を身体から降ろし,杖をベッドの隣に置いて,そのまま横になった.そして頭だけを彼女の方へ向けて弱々しい声で話しかけた.



「あまり座り心地は良くないかもしれないが,机の傍にある椅子に座って欲しい」



「分かりました」



 その椅子に彼女が座った後,アンナは身体を横に捻って杖に手を伸ばしながらこう言った.



「情けない姿ばかり見せるのも良くないな,そうだ,私の魔法の実力をまだ見せてない,机の上を見ていてくれ」



「はい」



 アンナは杖に触れながら魔法を発動させ,高さ20cm,長さ40cm以上の氷の彫像が下の部分から形成されていく.完成した氷の彫像は3つの頭に,12の尾を持ち,2枚の翼を携えた竜のような物だった.その姿は剥製のように細かい部分まで作りこまれている.それを見ていたエレーナは普段とは異なる反応をした.



「大蛇ゴルィニシチェ! 可愛いーー……はっ! すみません,取り乱しました」



「アハハ,別に構わない.それよりも喜んでくれて嬉しいよ」



 恥ずかしさから,少し顔が赤くなる彼女に対して,仰向けになったアンナは嬉しそうな顔をしながら喋り始めた.



「昔,魔法の精度を上げるために,ずっと魔法を用いて氷像を作っていた時期があってな.よく作っていたのがこの大蛇だったんだ.だから一番造形がいい.精度に至っては±10μmだから,まあ,他の氷像よりは自信があるな」



「本当に素晴らしいと思います.全体の造形も良いですが,表面の鱗の一枚一枚まで細かく再現されていて,表情も自然に作られています.それに精度ということは雛形も用意したということですよね?」



 エレーナのその問いに対してアンナは少し困ったような顔をしてこう言った.



「いや,確かに雛形は作ったが……」



 そして,途中で話を切り替えて



「ところで,まだ返事を聞いていないのだが,私の事は雇ってくれるのか?」



と言うと,彼女は笑顔でこう返した.



「はい,そのつもりです.賃金や雇用内容の話は貴方の体調が回復してからでも良いですか?」



「もちろんだ.君の好きにしてくれていい」



 アンナは嬉しそうな表情でそう言った後,身体を再び捻りながら杖に手を伸ばしてこんなことを言った.



「ところで他に聞きたい事はあるか? 魔法を使って見て欲しいなら今日は別に構わないのだが」



「いくつかありますが,また,別の日に聞きます.その,長々と貴方と話した私が言うのもおかしいかもしれませんが,今は身体を休めた方が良いですよ」



「そうか.分かった」



 そう言うと同時に,再びアンナはベッドに仰向けになった.そしてエレーナは少し恥ずかしそうにしながら言う.



「それと,私の事はレーナって呼んで欲しいです.貴方の事は何て呼べばいいですか?」



「アネ―チカ」



「……アーニャだと,ダメですか?」



「それでもいい.好きに呼んでくれ」



 それから少し会話をした後,アンナは眠りについた.一方,エレーナは酒場を出て街の西側を散策した後,暗くなった夜道を一人で帰っていく.そして翌日,再び酒場を訪ねると朽葉色のローブを着たアンナが彼女に声を掛けた.



「レーナじゃないか.やっぱり来てくれたんだな」



「勇者だから当然です」



 エレーナとアンナは雇用契約を交わした.契約書を交わすと始めにアンナが,次に彼女がこう言った.



「レーナ,これからよろしく頼む」



「こちらこそ,これからよろしくお願いします!」



 ちなみにアンナの賃金は本人の要望で相場通りのものとなった.

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