7 描きたかった世界
風呂に入っている最中も、オレは気が気ではなかった。
だからもう、とりあえず暖まるだけ暖まると、用意されていた服をざっと着て、髪もぐちゃぐちゃのまま、飛び出した。
彼女は、テーブルに両手をついて、唇を噛みしめていた。
「…ブランシュさん」
ぴりぴりとした空気が、彼女の周囲に漂っていた。
「…ちゃんと頭を拭いて、シャノ君」
はい、とオレは頭に掛けていたタオルを取ると、ごしごしと改めて水気を取り始めた。
「彼、今何処に居るか、判る?」
「…いいえ」
すっ、と立ち上がると、彼女はテーブルの下から端末を取り出した。細い綺麗な指が操作盤を叩く。パネルに受付嬢か秘書の様な女性が映る。名前を告げると、大急ぎで画面が『waiting』に変わった。
「シャノ君、これ」
彼女は数枚の紙をオレに手渡した。薄い紙だった。がさがさと開くと、中には見覚えのある字が書かれていた。
「ブランシュさん」
「読んで」
読んで、と言われても。この手紙は彼女に書かれたもので。
「心配しなくても、私だけが見たい部分は、ここにあるわ」
ああ、とオレは一息つく。下手な字が、目に飛び込んできた。オレははっとして顔を上げた。
「…これは…」
彼女は厳しい顔をして、「waiting」の画面から目を離さない。
手紙の内容は、この間奴が口走った過去が大部分だった。ただ、それだけではなかった。
その手紙には、こう書かれていたのだ。
―――この手紙を読む頃には、俺はもう、死んでいるだろう。
「…って」
「彼が、平和運動をしていたことは言ったわね」
「ええ。それに…オレ、今日、奴が狙撃兵だったってこと、初めて知った。戦争の時に活躍したなんて…」
「あのひとはそういうこと、自分で言うの嫌いなのよ」
「なのに、新聞には載ってるんだね」
「使われたのよ、あの頃は、結構負け続きだったから」
彼女はいつになく、苛々した口調になっていた。伝わってくる気持ちも、何処か揺らめいている。画面には相変わらず「waiting」が出続けている。
「…復讐を…しようと、している? ロブは」
「復讐―――かもしれないわ。でも、それだけじゃない。彼が、それだけのために、こんなことするとは、思わないわ」
「こんなこと」
「今、問い合わせているのよ」
苛立ちが更に強まる。本人は果たして気付いているだろうか。彼女はその形の良い指の爪を噛んでいた。
「よく、出かけることがあったんじゃない?」
「…ええ」
「でしょうね。私びっくりしたわ。あの画廊に、彼が絵を売っていたなんて」
あの画廊?
「あの画廊って…あの、元銀行の、あの画廊、ですか?」
「そうよ。あれは父からもらった、私の持ち物だから」
「ロブはそれを…」
「知っていたかもしれないし、知らないかもしれない。どうでも良かったのかもしれないわ。彼にとって必要だったのは、場所ではなく、その画廊のオーナーの方だったから」
あ、とオレはタオルを取り落とした。
「…ブランシュさんまさか」
「そのまさか、よ」
とんとん、と彼女はテーブルを指で苛立たしげに叩く。
「これから言うことは、忘れてね。…ああ、ちなみに、この部屋は、広いし、人は遠ざけてあるし、ついでに言うなら、ここは私のための家だから」
はい、と慌ててオレは答えた。つまりは物騒なことを喋ったとしても平気だ、ということだろうか。
「あの場所を私が父から結婚祝いでもらった時、私はそれを、学生時代から続けていた平和運動の拠点にしようと思ったの」
「あなたも…そっちの運動を」
「当時は皆、かぶれていたと言ってもいいわ。あのオーナーも、私達の同窓生よ。ただ同窓生の中でも、戦争に行ったひとと行かないひとが居たわ。徴兵されるにしても、皆が皆、兵役につくことができる訳ではないでしょう」
そういうものなのか。
「オーナーはたまたま運動能力で劣っていたから、徴兵を逃れることができたの。だから私は彼にあの場所と、画商という役割を負ってもらって、その裏で平和運動を続けてくれるように、資金援助を保証したわ。私は夫の仕事のこともあるし、表沙汰にはできない。だけど運動も捨てることはできなかった」
「運動を?」
「嫌な子ね」
少しだけ、彼女の中を分厚く覆っている雲の色が和らいだ気がした。
「…元々は、彼の影響だったのよ。出会った頃に見た絵は、ご両親を殺された彼の、行き場の無い気持ちが、そのまま出ていたんだわ。目に痛い、と思ったかもしれない。それはそうよ。口にできない、顔に出せない、彼の気持ちがそのまま練り込んであったのだから」
彼女ははぐらかす。
「それにあなたは、引かれたの?」
「どうかしら」
「彼の影響で、私は『キール』の平和利用のことや、現在の政府とマフィアの癒着とか、色々目を開かされたの。そこで私考えたのよ。私に出来ることは、何かって」
「あなたに、出来ること?」
「私がその時、出来ることなんて、たかが知れたことだったわ。ただの『ラッセル嬢マリ・ブランシュ』にはね。だけどこれが『パースフル夫人』になると、違うのよ」
!
「私には、他の選択肢は無かったのも本当よ。彼もそれは知っていた。だから私も彼を自分の結婚式には呼ばなかったわ。当然でしょう。ウエディングドレスで誰かの横に居る私を、彼は見たくなかったでしょうから」
確かに―――そうだろう。そして奴は、その間、敵兵を、正確無比に、冷酷なまでに、一人一人殺していたのだ。
「そして、結婚したことで、私には動かせるものが増えたの」
「そういうものですか?」
「この階級ってのは、そういうものなのよ。あなたにはしち面倒臭く思えるかもしれないけれどね」
オレは素直にうなづいた。
「…ああ全く、何をやっているのかしら」
未だに「waiting」は続いていた。
「画廊の方は…」
話をうながしてみる。それで少しでも彼女の苛立ちが治まるかもしれない。
「オーナーを信用して、方法は彼に任せてみたの。最終目標は、この政府の体質を根本から覆すこと。…危険よね」
「危険…ですね」
「そして、現在兵器産業に利用されようとしている『キール』を利用して、この砂漠が大半の惑星を、もっと人々の住みやすい緑の惑星にすること。…とてつもない、ってオーナーも呆れていたわよ」
それは当然だと思う。
「ただ、今の私には、それはそう遠く無い位置だわ。私が今ここに居るのは、そのためなのだから。ここが活動の基点なのよ。だからずっと戻ってきたかったの。長かったわ。夫の地位が安定するまでは、彼の側に居ることが不可欠だったから」
その時、画面の「waiting」が消えた。代わりに出たのは、紺色の制服を着た男だった。ああたくさんワッペンがついているなあ、とオレはそれを彼女の後ろから眺めながらぼんやりと考えていた。
『…これは議長夫人、お久しぶりです。如何しました? またシレジエに』
「お久しぶりですわ、ランボース警察本部長。ちょっと里帰りを、と思いまして。別宅の方も、時々は住んであげないと、せっかくの建物が可哀想だし」
『おお、そういえば、夫人はそちらでお育ちに』
「ええ。久しぶりに羽を伸ばしておりますわ。ところで本部長、何か、デビアの方で何か、大変な事件が起きたんですって?」
『ああ、もうご存じでしたか。ですが、ご心配はいりません。犯人は既に我々の手の内にあります』
「まあ! そんなに早く、捕まりまして?」
ざわ、と彼女の気持ちが一気に温度を下げた。すごい、とオレは思った。どうしてこんな状態で、同じ様に言葉を返せるんだ。
『ああ、あれはもう、捕まることを前提として動いていましたな。全国展開している恐れもありますので、シレジエの方も現在、関連人物を手配中です。しばらく騒がしくなると思いますが、ご勘弁を…』
「そうですか。良い結果を期待していますわ。ところで、犯人は現在デビアの都市警察本部に移送されたのかしら? 今私のお友達が、デビアに滞在しているので、心配なのよ」
『お友達とおっしゃいますと…ああ、そう言えば、サンタン銀行の頭取夫人が現在、デビアにお見えでしたね』
「そう、彼女」
『ええ。犯人は現在取り調べ中です。逃げる様なことはございません。大丈夫です』
「そうですか。なら安心しましたわ。こちらもずいぶん物々しかったので、不安でしたのよ。あなたならきっとそのあたり、正確な情報を教えて下さると思いましたから」
『それはそれは。いつでも頼って下さい、ぜひ』
「ありがとう」
では、と通信は切られた。
「…と言うことよ。シャノ君」
「奴は…捕まった、ってことなの?」
「だと、思うわ。そうでなくて、こんな手紙、あの男が書くものですか!」
ばん、と彼女はテーブルを叩いた。その拍子に、床に置いておいたビニールバックがぱたり、と倒れた。あ、とオレは思わず声を上げた。
中から、銃が転がり出た。―――忘れていたのだ。
ぱっ、とオレは手を伸ばして拾おうとするが、彼女の方が一瞬早かった。
「…どうする気? こんなものを持って…」
「どうするもこうするも…」
オレは黙って首を横に振った。具体的にどうできるか、なんて、考えが浮かばなかった。ただ、オレが持っている―――オレが扱える武器なんて、それしかなかったし、あの場で持ち出せるのは、あれしかなかったのも確かなのだ。
「アパートにも、狙撃用の銃があった」
「…でしょうね。もうあなたもあそこには戻れないでしょう」
「どうしようオレ…ブランシュさん」
がたがた、と急に身体が震え出すのが判る。
「オレは、奴にもう会えないの?」
「…今の調子だと、デビアの警察本部で取り調べを受けてるってことになるわね。…まずいわ」
ちっ、と彼女は舌打ちをし、腰に手を当てた。まるでそれは名家の夫人には似合わない動作だった。
「まだシレジエだったら、私も手を回せたかもしれない。…だけどデビアで…しかも彼が破壊したのは、カストロバーニの兵器工場だわ」
「やっぱり、兵器なの?」
「それ以外の何に、彼が壊す理由があって?」
彼女はテーブルの回りを何度かうろうろと歩き回った。苛立ちと、もやもやがそれまでには無かった程に高まっていた。
「向こうの警察本部はマフィアと結びついてるから…取り調べなんて名目に決まってるわ」
「…じゃあ…」
「下手すると、もう死んでいるかもしれない」
「やだよ!」
オレは思わず、彼女に駆け寄っていた。ぐい、とその手を、思い切り掴んでいた。
視線が合う。
!
はっ、とその時、オレは、一気に彼女の雲の奥にあったものが飛び込んでくるのが判った。
そして思わず、こう問いかけていた。
「…あなたはまだ、ロブを愛している?」
はっ、と彼女は息を呑んだ。
「あなた…」
「そうなんでしょう? あなたはまだ」
一度開いてしまったものは、止まらない。握った手から、オレの中に、次々
と、隠されていたものが伝わって来た。
そしてその中には、彼女が一枚だけ隠した、奴の手紙の内容が、断片的に見えた。
―――君も関わっていたのだろう?
―――君がこの社会を正してくれ。
そんな願い。政府とマフィアの癒着の証拠を記した記録のこと。
―――君の存在を、感じていた。
―――君になら、託せると思っていた。
「勝手だわ」
と彼女はつぶやいた。
―――君を
―――誰よりも
―――心の底から
―――幸せを
―――今でも、そしてずっと、君だけを
「…勝手なのよ」
彼女はオレに掴まれたまま、その手で顔を覆った。
泣いている、様に、思えた。
だがそれは一瞬だった。
「…行きましょう」
顔から手を外すと、彼女はしっかりとした声で宣言した。
「行くって」
「デビアへ」
そう言うと、彼女は再び端末に指を走らせた。今度は「waiting」無しで、笑顔の女性の姿が現れた。
『…まあ、議長夫人! お久しぶりですこと! よく私がこちらに居ること判りましたわね』
「そんな堅苦しい呼び方、なさらないで、アマーリエ。お友達でしょう? 私達。…何でもそちら、今大変なんですって?」
『ええもう…でも今私、母の看病でこちらに来ているものですから、ブランシュ、遠くで爆発が聞こえても、首都へ帰ることもできなくて…』
モニターの向こうの女性はハンカチで目を押さえている。
「…それは本当に大変ですわね…お母様はそんなに今、大変なんですの?」
『…ええ、命に関わる程ではないのですが、ちょっと今動かすことはできなくて…』
「元気を出して、アマーリエ。そうだわ、私今シレジエに来ているの。今からそちらへ伺いますわ」
『え、そんな…だって、あなたもお忙しいでしょう?』
「いいえ、今ちょうど私、里帰り中で、…こう言っては不謹慎かもしれないけれど、暇を持て余していましたのよ。ほら、ずっと忙しかったから」
『…あなたは真面目な方ですものね』
モニターの中の女性は、少し笑顔になった。
「ええ、だからせっかくですもの。お母様のお見舞いも兼ねて、今から伺いますわ。よろしくって?」
『ええもうそれは。…ありがとう、ブランシュ』
「そんな。お友達でしょう?」
やがて彼女は通信を切った。
「お友達?」
「口実よ。彼女には悪いけど」
あ、とオレは顔を上げた。
「友達のサンタン銀行の頭取夫人のお母様のお見舞いにデビアの病院に行く。…そしてそこで、私は危険な目に遭うのよ」
そして彼女はオレに、一度取り上げた銃を渡した。
「…銃弾が二発しか、無いんだ」
じっと彼女に視線を合わせ、オレは言った。
「二発あれば、充分だわ」
オレ達は、うなづきあった。
「議長夫人」の機動力はすさまじいものがあった。デビアに、オレ達が着いたのは、あの会話の三時間後だった。
オレは専用ヘリに乗り込む前に、着替えさせられていた。ああ似合わねえ、と思っても仕方が無い。「議長夫人」に下手な格好のガキがくっついていたら、それこそ問題だ。
雨期のシレジエと違って、デビアは乾いていた。懐かしい、とは思わないが、知った空気が肌を取り巻いていた。
ヘリポートから、既に用意されていた特別車に乗って、まず「お友達」の母親が入院しているという病院へと向かった。
大きくて綺麗な病院。オレ達には縁の無い場所だった。玄関前の広場へと車を近づける時、夫人はつぶやいた。
「…デビアの警察本部が近いのよ」
だから余計に、「お友達」は怖がっていたのだ、と。
「まあ、議長夫人、わざわざ!」
アマーリエと夫人が呼んでいた女性は、腕を伸ばし、ブランシュ夫人と一度抱き合った。
「ずいぶんとお痩せになったのではなくて? 顔色も悪いわ」
「大丈夫よブランシュ。でもやっぱり怖いわ。何か毎日毎日、入ってくるニュースは物騒だし、何かあればここが救急病院になることもあって、そんな時は、夜もサイレンの音がひどくって、なかなか寝付けないことが多いのですのよ」
うっうっ、とアマーリエ夫人はやはり涙ぐんでいる。どんよりとした気持ちがこちらまで伝わってくる。…あまり気持ちがいいものではない。
「それは…でもご安心なさって。デビアの警察は優秀ですもの。不穏分子など、すぐに何とかして下さいますわ」
「ああ本当に、あなたがいらしてくれて、どんなに心強いことか!」
その瞬間、アマーリエ夫人の気持ちがいきなり晴れやかになる。あまりの気持ちの移り変わりの速さに、オレはくらり、と眩暈がした。
「ほら元気をお出しになって、私をお母様の所にご案内して下さいな」
ええ、とアマーリエ夫人はくるりと背中を向け、周囲に何やら指示を与えだした。ブランシュ夫人も、自分のスタッフに指示をするために振り向く。
「…シャノ、どうしたの」
オレは、アマーリエ夫人の移り気にあてられ、車に手をついて身体を支えていた。
するとそこへ、彼女が駆け寄ってきた。様子を見るふりをして、耳打ちする。
「…今よ」
今?
はっ、としてオレは、ポケットに入れておいた銃を取り出し、体勢を立て直し様、彼女に突き付けた。
きゃあ、とアマーリエ夫人の声が上がる。
「あ、あなた一体」
「シャノ! あなたどういうつもり!」
「うるさい! オレはこのチャンスを狙ってたんだよ!」
半分は本気だったから、説得力はあったと思う。ただ人質と計算ずくだとは、誰も思っていないだろうが。
「おい! 誰でもいい、デビアの警察本部に連絡しな! 議長夫人の命が惜しかったら、今現在、そっちに捕まってる爆破テロの犯人に会わせろ、と」
「テロって…この子!」
「早く!」
ぐい、と銃を押しつける。痛いかもしれない。ごめんなさい。
「は、はやく! はやく、連絡をっ!」
アマーリエ夫人は金切り声を上げながら、周囲に指示を出した。
そしてさすがに市内だ。すぐそこに見える警察本部から、すぐに本部長がやってきた。
「…馬鹿なことは止して、すぐに夫人を離しなさい」
「冗談言ってるんじゃねーよー!」
オレは殊更に、チンピラめいた口調を飛ばした。
「…命なんか惜しくねえんだよ。ただあんた等に捕まった、うちの兄貴に会わせてくれたら、この奥さんはちゃんと放す。約束だ!」
約束。そんなもの、この都市で何の意味がある? 自分で口走っておきながら、オレはその言葉の無意味さに苦笑した。だがその笑いは、向こうには不敵な笑みに取られた様だった。
「…会うだけか」
「そうだ。それだけだ。それ以外、何も、いらない」
本部長から、迷いの感情が漂ってくる。おそらく彼の頭の中では、どうすればいいのか猛スピードで計算が為されているのだろう。
そこへ、ブランシュ夫人はさっくりと声を飛ばす。
「…本部長、私のことなど!」
「黙れって言うだろう!」
オレはそこに間髪入れずに、声を飛ばす。腕をひねり上げるフリをする。ああ、と彼女の声が漏れる。本当に、ごめん。今だけだから。
彼女からも、焦りの色が感じられる。オレ達は時間との勝負なのだ。
「…それとも、もう兄貴は死んでるとでも言うのか!」
「死んでは…いない」
本部長は答える。その言葉に嘘は無い。生きては、居るようだ。
だが。オレははっとする。明確な映像。
分厚い鉄の扉。窓の無い部屋。灯りは小さく、弱い光で。
「でも、死にかけて、いるんだな!」
本部長は顔を上げる。
「あんたの中に見える。…そうだ奴は、左の目をつぶされて…殴られて、額から血も出てる…鼻血も出てる…顔なんか変形してるじゃないか…指に針? 何やってるんだよ、あんた等、サドか!? 背中もひどいじゃないか…何で叩いたんだよ…」
オレは思わず、見えた通りの情景を口走っていた。
「…お、お前…」
「そうだろう!」
「…そうなの? 本部長」
ブランシュ夫人も、静かに問いかけた。
「足も変な風に曲がってるし…手錠は掛かってるし…つり下げられてるし…あ!」
うろたえる本部長の気配の中に、オレは見覚えのある顔を見つけた。
頭の中がかっと熱くなる。めまいがする。震えが来る。
「…カストロバーニの、指示なんだな?」
低い声が、思わず漏れていた。
「そうなんだな!」
本部長の動揺は激しくなる。オレは畳みかける様に、叫んだ。
「一目でいい! 会わせてくれよぉ!」
畜生畜生ちくしょう!
目からぽろぽろ、と熱いものが流れていたが、どうでも良かった。本部長以下、そこに集まった警官も、どうしていいのか判らずに、顔を見合わせていた。
「…本部長、この子を、連れて行ってちょうだい」
ブランシュ夫人は、静かな声で言った。
「しかし議長夫人…」
「この子は会いたがっているだけよ。私には判るわ。それに、何かあっても、こんな子供に何ができて?」
「子供って言うな!」
「…痛っ! 本部長、早く…」
何処までがお芝居で、何処までが本気か、オレにはだんだん訳が判らなくなってきていた。ただ判ったのは、オレは彼女に銃を突き付けたまま、車で、デビア警察本部まで送られて行く、ということだけだった。
それ以外のことを考えるのを、オレは意識的に止めていた。
そうなると、奇妙な程に、辺りの「気配」が消えて行くのが判った。いつもだったら、勝手にざわざわとまとわりついて離れない、周囲の人々の意識が、気配が、オレの周囲十㎝で止められているかの様だった。
送られて行く車の中でも、オレは彼女に銃を突き付けたままだったので、いい加減腕がだるくなっていた。だがそれを止める訳にはいかない。彼女の手も握ったままだ。それでも彼女の気持ちすら伝わってこない。
…もしかして。
ふとオレは思う。オレは、オレのこの「バケモノの力」を、コントロールすることができるんじゃないか。
ずっと、考えてもみなかったことが、頭の中に不意に浮かんだ。
彼女は彼女で、オレに掴まれた手をぐっと握っている。細い綺麗な指先が、白くなっている。噛んだ唇は、口紅がハゲかけていた。
「ここだ」
と本部長は二階の一番奥へとオレ達を連れて行った。
「…本当に、ここなんだろうな」
「ああ、本当だ。ほら」
そこは、本部長のあの映像の中にあった、取調室だった。
重い鋼鉄の扉。小さなのぞき穴から中を見た瞬間、オレの心臓は跳ね上がった。
「…ロブ!」
連絡があったのだろうか、つり下げられていた手は自由になっていた。だが、それだけだった。薄汚れたコンクリートの床に、奴の身体は力無く横たわっていた。
「…いい加減、貴様、夫人を放さないか」
「いいや、まだだ。今放したら、あんた等はオレを今掴まえるだろ。後ろで用意しているじゃないか」
ぐっ、と本部長は詰まった。
その気配の中には、やはりあの懐かしくも思い出したくもない、感情が混じっている。
本部長が、その後ろの奴等が、こうオレに向かって思っている。
―――こいつはバケモノだ―――
そうだよ、とオレは内心つぶやく。
だから、それがどうしたって言うんだ。
ぎい、と重い扉が開く。オレはそのまま内側から鍵を下ろした。
「ロブ!」
オレは声を張り上げた。彼女の手は握ったままだ。
「…おい、起きろよ! いつまで寝てんだよ! 寝汚ねえにも程があるぜ!」
銃を持った方の手で、オレは奴を揺さぶった。
ひどい、と彼女のつぶやきも聞こえる。
「…」
意識を取り戻す気配。だけど。
「…声が、出ない?」
ロブはうなづいた。痛めつけられたせいなのか、水もまともにもらえなかったのか、その辺りは判らない。何か言おうとすると、ひゅうひゅうと音が喉から漏れるだけだった。
どうすればいいんだ。オレは唇を噛んだ。目を一度ぎゅっとつぶり、考えた。時間は無い。
オレは思わず、奴の手をぐい、と握っていた。
ぬるり、とした触感があった。血だ。何処からか知らないが、手には血がべっとりとついていた。
どうして普通の人間は、こんな簡単に、壊れてしまうのだろう。ああそうだよな、だからオレがバケモノなんだ。
だけど、バケモノでも、できることが。
オレは掴んだ手にぐっ、と力を込めた。
同時に、夫人の方の手にも、力を込めた。
つながってくれ、とオレはその時強く念じた。
―――何って顔、してるんだよ。
はっ、と彼女は顔を上げ、オレの方を見た。オレは目を伏せた。何処で見られているかも判らない。ここではオレ達はただの他人だ。犯人と人質だ。たぶん彼女は理解している。してくれないと、困った。
オレを仲介にして、彼女にも、もう話せない、奴の気持ちを、伝えたかった。
「オレ等が、見える? ロブ」
―――見える。…片方だけだけど。ああ相変わらず、ブランシュは、綺麗だな…
彼女の肩がひく、と震えた。彼女は言いたい。言いたいのだ。
―――あなたは馬鹿よ…
流れて行く。
―――馬鹿で結構…俺は、満足だ。
―――この子はどうするの! あなたが拾ってきたのでしょう! 一人で置いて行く気!?
―――シャノ…
目を半分伏せた顔が、こちらを向く。
―――全部、判っちまったんだな。
「ばれる様なこと、あんたがするからだよ、狙撃兵」
―――やれやれ、俺もまだ未熟だったってことか。
「そうだよあんたはまだ未熟なんだよ。だからこんなとこでくたばってないで、もっとじゃんじゃんかましてやろうぜ!」
―――ばーか。
ははは、と本当に奴のいつもの笑い顔が見えた様な、気がした。
―――ブランシュ…手紙を読んだなら…こいつを、守ってくれないか?
彼女の気持ちに僅かなためらいが感じられた。
―――あれは、本当なの?
―――推測だが、まず間違いない。
何のことを、言っているのだろう。
二人の「会話」の中には、言葉にならない部分もあった。だけどそれは。
―――頼む…
―――判ったわ。
「ロブ!」
オレは思わず叫んでいた。
「こうなることが判っていて、どうしてオレを、利用しなかったんだ!?」
「シャノ君!」
彼女という人間にしては珍しく、声を荒げた。
「ずっとずっとずっと、皆、バケモノのオレを、利用してきたんだよ! そうすれば良かったじゃないか! そうすればあんた、そんな、こんな、自分で、危険な…」
声が詰まった。それ以上は、喉が詰まって、出すことができなかった。
「オレがあんたに何かしてやりたかったんだから、あんたもオレを利用すれば良かったんだ! 馬鹿じゃねえの!? おい聞いてるのかこの馬鹿!」
オレは思わず、両手で奴の襟首を掴んでいた。既にその首は、だらんと力を無くしている。止めて、とばかりにブランシュ夫人は、オレに背中から抱きついた。
暖かい、彼女の体温が伝わる。オレはぐっ、と奥歯を噛みしめた。ぎりぎり、と自分の歯の音が聞こえてきそうだった。
―――どっちでも、いいんだよ、そんなことは。
「どっちでも…」
―――本当は、ああ言えば良かったのかもな。
「…言ってみろよ」
―――お前が人間だろうがバケモノだろうが、俺にとってはただの馬鹿なガキでしか無いんだよって。
う、とオレは思わずうめいた。
―――たまたま俺が絵描きのくせに狙撃手なんかの腕を持ってしまった様に、お前もたまたま、そんな力を持って生まれてしまった…それだけのことだよって。
「…あんたは言葉が足りないんだよ」
「そうよ…」
夫人もまた、つぶやく。だがそれ以上は口にしない。
―――そうだった、よなあ。
ははは、とあのいつもの笑い顔が、また浮かんでくる。顔は既にその笑みを作ることはできないというのに。
―――ごめん、な。
どちらに向けて言ったのか、オレには判らなかった。
―――あいして、いるよ。
「ロブ!」
ぐい、と背後の彼女も同じ名を内心叫んだ。
オレは奴の胸に耳を当てた。服に付いた血は、既に固まって、がさがさとしている。聞こえるかどうかも判らないけれど、オレは、そうせずにはいられなかった。
…弱々しい音が、聞こえる様な、気がした。
「シャノ君…」
彼女の声が聞こえる。ごめんブランシュ夫人、今はあなたの方は閉ざさせて。
オレは奴の方に集中する。
ああ―――重い。
ずん、と来る様な重みが、奴から伝わってくる。ああこれは、奴の感覚だ。全身が、痛みを通り越して、もうただ、ひたすら、重い。
このまま冷たいコンクリートを溶かしてめり込んでしまいそうな程に、重い。
その中で、一瞬ぎらり、と光がよぎった。
オレはその光を必死で掴んだ。
するとそれは、ふわり、と明るい光景になって視界一杯に広がって行った。
もの凄いスピードなのに、それは、一つ一つが鮮やかで、オレにその姿を認識させる。
これは…奴の記憶?
―――明るい日射しの下、彼は芝生の上を駆け回る。目の前には湖が見える。もうちょっとでたどり着く。待ってよ、と少年がその後を息せき切って追いかけている。やがてその横に、犬が追いつき、振り返った彼に飛びついてくる。彼は転がる。頭も服も草だらけになる。もう一人の少年は、それを見て大声で笑い、お先に、と駆け出す。湖の近くには一軒家。彼等はそこへ入って行く。大きくも小さくもない、オレンジの屋根と白い壁の。
―――白い壁の校舎には立て看板が並ぶ。真っ赤な文字でスローガンが書かれ、攻撃的な文章が並ぶ。ビラを配る彼。遠くからはピアノやバイオリンの音が聞こえて来る。その音に一瞬気を取られると、仲間達からどうした、と声がかかる。こいつ音楽科にオンナが居るんですよ、と言う仲間に、そんなのじゃないですよ、と返す。だけど顔は真っ赤だ。いいじゃないか、と仲間は言う。それ以上彼は何も言えない。
―――彼は何も言えない。構内のカフェテリア。もう何度も約束をすっぽかしている彼女に目の前でふくれられて。ねえロバートちゃんと私の話、聞いてるの? 彼女が本当に怒ってるのは判っている。いつも悪いのはこっちだ。だけど仕方がない。彼女と仲間達との約束だったら、どうしても自分は後者を優先させる。だからこの時もやはり彼女にただあやまるしかない。本当にごめん。だけど彼女も彼の事情は知っている。だからこう言った。いいわよ仕方がないものね。だからお願い一つだけ聞いて。彼は問いかける。何? あのね、私の絵を描いて欲しいの。
―――私の絵は? 彼女は彼に問いかける。捨てたよ、と彼は答える。怒っているのね、と斜めにした傘の下、彼女は言う。私の決めたことに、怒っているんでしょ! 雨の中。婚約が決まってから連絡が取れなくなった彼をようやく見つけたのは、レイン通り。二人でいつか歩いた街。彼の黒い髪からはぽたぽたと滴が落ちる。そう、捨てたのね。彼女は言った。捨てたんだ。彼は言う。それに、と彼は付け加える。俺は戦争に行くんだ。嘘でしょう。彼女の声は震える。嘘じゃない。彼は答える。俺は戦場に出るんだ、弟と一緒に。
―――弟さんは残念だったね。上官は言う。今まで出会ったこともないような上の階級。彼の嫌いな人種。いやあ本当に残念だった。本論を早く言ってくれ、と直立不動を余儀なくされた彼は思う。何せマクラビー軍曹兄弟の射撃の腕は、有名だからね。だから何を言いたいのだ、と彼は次第に不機嫌になって行く。だが顔には出さない。上官は言う。実は君の階級を一つ上げて、狙撃を専門とした部隊を率いて欲しいのだよ。なるほど、と彼は思った。思った通りだ。上官は言う。やがてソグレヤ中が、君の名を知ることになるだろう、ロバート・マクラビー曹長!
―――「ロバート・マクラビー曹長、今度はファルハイトの空戦王を仕留める!」新聞には大々的に見出しが走る。基地の一つの片隅に腰を下ろし、一面を飾る自分の顔に彼は苦笑する。次のページをめくる。また写真だ。最近交代した議長の就任を祝うパーティの様子。笑顔の人々。綺羅綺羅しい会場。―――美しい、夫人。もう決して、この手には入らない、彼女。新聞を破き、彼はぐっ、と愛用の銃を握る。
―――彼は銃を握る。いつものことだ。失敗は許されない。そういつもの通り、成功だ。ただその帰りに一匹の猫を拾ってしまった。きかん気の黒い猫を。なかなかなつかない、黒い猫を。ここに居ればいいさ。ちょこんと所在なげな―――
ああ、あれはオレだ。
奴の目から見た、オレの姿が、見える。
こんな風に、ロブにはオレが、見えてたのか。
―――オレはあんたの描く世界が好きだよ。綺麗な、あの風景が。すると彼は答える。あれは現実の世界じゃないさ。俺が勝手に空想している、「平和」な世界だ。ここにはない、でもそうなって欲しいって、俺が勝手に思っている世界だ。
絵の中の景色が、そのままふっと膨らんだ。
―――いつか、これが、特別でない、「現実」になればな。
―――そのためなら俺は…
ふっ、とそれは、いきなり、消えた。
さあっ、とオレは自分の身体が、一気に震え出すのを感じた。
ロブは、死んだんだ。
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