6 元狙撃兵の伝言

 その日は朝から雨だった。

 ロブはまた例のごとく、ふらりとスケッチに出ていた。もう三日になる。

 だいたい奴がスケッチに出て行くのには、よく考えればペースがあった。

 気付かなかったオレが馬鹿だと言えば馬鹿なんだが、画廊から絵の依頼を受けると、用意をして、出かけているのだ。ただオレが、画廊からの連絡が来ていることに気付かなかっただけで。


「おやシャノちゃん買い物かい? 雨期ってのは全く嫌だねえ…あたしもまた後で出かけないと」


 市場に出ようと、アパートの玄関で傘をさしかけたら、一階の窓から声が聞こえた。でもさっきオレ、このひとが帰って来るの、窓から見た気がするんだが。


「買い忘れ? じゃオレ、ついでに買ってこようか?」

「あ、いいのかい?」


 そう言うと彼女は、市場の肉屋で、牛のすね肉を少し多めに、と頼んだ。大鍋にスープでも作るのだろうか。OK、とオレはうなづいた。

 ぱっ、と傘を開く。ロブの持っていたそれはでかい。しかも、何かずいぶん地味で、がっちりとしている。


「おっちゃーん、すね肉をこんだけで」

「ほいよ、何だねシャノ、お前さんとこでこんなに食うのかい?」


 市場の馴染みの肉屋は、目を丸くする。オレは笑いながら、ひらひらと手を振る。


「オレんとこじゃないよ。ロブ今日居ないしさ。ついでついで」

「ふーん、また居ないのかい。いっつも忙しいひとだねえ」

「忙しいって言うんかなあ。だって、いつものスケッチ旅行だぜ?」

「そうかい。でもなあ、あのひとだったら、もう少しいい給料のとこに勤められるはずなんだがなあ」

「ロブがあ?」


 オレは思いっきり声を上げる。


「だって画家だよ、あいつが他に勤めるなんて、オレ、考えつかないって」

「いや画家の方は、趣味でも出来るだろ。だいたい、こないだの戦争で、あんだけ功績立ててる奴が」

「は?」


 そう言えば、戦争に出たことがある、とは聞いていた。


「優秀な狙撃兵ってことで、何度か記事にもなったじゃないか? うん、あの頃は、ちょうどこっちも負け続きで、ヒーローが欲しい頃だったしなあ…確か政府から勲章をもらったんだよねえ」

「…」

「何だいシャノ、お前さんが知らないのかい?」

「…や、あの、そういう風に見られてるとは思わなくて」

「そうかあ? だから、奴さえその気になれば、そのテの仕事も引っ張りだこのはずなんだがなあ、軍じゃなくても、警察や警備会社とかさ。何だってまあ、明日も知れない画家なんかやってるんだか」


 ほいよ、と言って、肉屋はオレにすね肉の山をくるんでよこした。どっさりとした包みが、妙に重く感じた。

 初耳だった。

 確かに戦争に行った、とは聞いた。だけどそんなこと、何も。

 …戦争の頃…

 自分の買い物も忘れて、そのままオレはアパートに戻った。


「おやシャノちゃん、早かったねえ」

「うん、はい、肉。これでいい?」

「あー、結構おまけしてくれたねえ。ありがとうさんよ。あんた気に入られてるね、あの肉屋」

「そんなことないよ」


 彼女はそのずっしりとした手応えに、にっこりと笑う。口の横に大きくシワができた。


「そのありがとうついでで、悪いんだけど」


 オレは傘をさしたまま、窓にぐっと近寄っていた。


「ねえねえおばさん、うちの兄貴って、昔新聞に載ったことあるの?」

「ロバートさんかい? 何だねいきなり。…ああ、そういえば、そんなこともあったかもねえ。ねえちょっと、あんたぁ」


 奥から、何だ、と彼女の旦那の声が聞こえる。やっぱり雨で旦那の仕事も休みなのだろう。暇を持て余している様な声がのっそりと聞こえてくる。


「何だい、俺は眠いんだが」

「三階のロバートさんってさあ、昔、新聞に載ったことあるかって」

「何だい…おいっシャノ、何だい、お前の兄貴のことだろう」

「ほらうちの兄貴、照れ屋だから。オレにもあんまり言わないことってあるんだってばあ」


 少しわざとらしいくらいに、オレは上下に手を振る。


「あーあー、あのひとはそうかもしれんなあ」


 腕を組んで、旦那はうんうんと大きくうなづく。なるほどあんたにとって、ロブはそういう奴なのか。


「載った載った。このアパートの空き室に引っ越してきた時には、俺はびっくりしたものなあ」

「そんなに!?」

「おお。そん時の新聞があったら見せてやりてえくらいだ」


 ぽん、と悔しそうに旦那はひざを叩く。しかしさすがに新聞をそのまま残しておくような酔狂な奴はこのアパートには居ないだろう。


「ねえあんた、図書館だったら、残してあるんじゃないかい?」

「図書館は遠いだろ。いいじゃねえか、兄貴が帰ってきたら、聞いてみれば」

「ほら兄貴、照れ屋だから」


 同じ言葉を繰り返す。そうだ。絶対ロブはそんなことを言いはしないだろう。

 何かを奴は、オレに隠している。


「図書館って、何処だったかなあ」

「何だいシャノ坊、今から行くのかい?」

「内緒のことってのは、さっさと済ませておくのが一番だろ?」


 このひと達の好きそうな、子供っぽい笑いをにやりと見せる。ふうん、という顔をして、彼等はちょっとおいで、とオレを手招きした。


「ほら」


 休日の旦那は、扉の中にオレを呼び込むと、古い市内地図を広げて、今はここ、と指さした。


「で、図書館は、そう遠くはないが、おい、今日やってるか?」

「そんなこと、あたしらに聞いたって知りませんよ。使いやしないんだから」

「俺だってこのかた、使ったことなんてねえよ」

「今日だったらやってるわよ。先生があそこは火曜日がお休みだって言ってたもん」


 十歳くらいの子供の方が、オレンジの仕切り布の向こう側から顔を出した。


「おいお前、今日何曜日だ?」

「水曜日ですよ」


 それで決まりだった。地図借ります、とオレは言うと、再び外へ飛び出した。


 しかし図書館。

 何とか場所は探したが、たどりつく頃には、傘を差していたとしても雨の中、ズボンや上着の裾があちこち濡れていた。

 ちら、とそんなオレを見る受付嬢の視線が痛い。


「えーと…、あの、新聞を、見たいんですが」

「はい、そちらにありますけど」


 「新聞閲覧席」と区切られた一角に、確かに読みふける人々が居る。高い天井。斜め上の十字が入った丸い窓から降ってくる光。静かすぎる空間。…なのにざわざわとした意識。

 むずむずする。


「…えーと、今日のじゃなくて、五年くらい前の奴って…」

「だったら、そっちになりますね。縮刷版がありますから、捜してみて下さい」


 受付の女性は、硬い声でそう言った。伝わってくる気持ちも、これでもかとばかりに硬い。


「それと」


 はい? とオレは振り返った。


「傘はちゃんと、置いて行って下さいね」


 ここは紙ばかりなのですから、と少しだけふっ、とその空気が緩んだ。あ、はい、とオレも笑い返した。

 …しかし縮刷版! ただでさえ新聞を「細かい」と思っているオレには、頭がくらくらとしそうなシロモノだった。それでも全く普段から見ていない訳ではなくて、本当に良かった。

 戦争は…十一年くらい前から、五年前くらいまで続いていたと思う。

 オレは無い頭を駆使して、とにかくページを繰った。きっとでかでかと出ているはずだ。そうでなくちゃ、そんな、肉屋のオヤジまで覚えているなんてことはないだろう。

 写真だ。写真を捜そう。

 ばらばらばら。

 …しかしさすがにオレの根気も、このもぞもぞした雰囲気の中では保たない。


「…あの、これって、貸し出しできますか?」

「市民証明カードをお持ちですか?」

「…い、いえ…」


 持っていない。デビアから移していないし…そもそもデビアでもちゃんと、その証明するものがあったかすら疑わしい。死んだことにされている可能性も高い。

 …待てよ。


『…そりゃあ今は暇だし、あたしはIDカード持ってるけどねえ』


 通信端末の向こうのリエダは少し怒った口調でまくし立てた。


「判ってる判ってるって。だけど、オレ、あんたしか頼める人がいなくて」

『…図書館ね。…レイン通りから遠かったら、幾らあんただって、頼まれてはやらないわよ』


 かちゃん、と通信を切ると、オレはため息をついた。

 一体何だって、こんな焦ってるんだ。

 無論その理由は判ってる。何か、不安なのだ。

 ロブが何食わぬ顔で、オレに言わないことがあるのが、不安なのだ。

 そりゃあ、奴だって秘密にしておきたいことの一つや二つあったって、おかしくはない。

 ただ奴は、自分のことを、大したことのない、ただ単に、時期が来たから徴兵されたように言っていた。そしてその時の気持ちに、まるで揺らぎが無かったから。

 嘘を言っている様に思えなかったから。

 逆にそれが、オレに徹底して隠したがっていることの様に、今更の様に感じられて。

 …オレは、急に不安になってしまったのだ。

 どんよりとした空の色が、いつもと違う風向きが、少し傘を外すと、染み込んでくる冷たい水が、オレを憂鬱にさせる。

 十分ほどして、ピンクの傘をさしたリエダがやってきた。


「全く! 罰として、用事、うちで済ませていきなさいよ!」


 そう言って彼女は三年分の縮刷版を借り出してくれた。そしてそれを濡れない様に大事に抱えると、レイン通りの画廊まで、二人で歩いた。


「一体全体、何でそんなもの、あんたが借り出したのよ」

「ロブの記事が載ってるって聞いて」

「あーあ、狙撃兵の頃のね」

「知ってるの?」


 足を止める。


「有名じゃない」

「有名なの…か」

「急ぎなさいよ、ちゃんと教えてあげる」


 彼女は足を早めた。


「はい紅茶。呑みなさいよ。クッキーも」


 縮刷版をデスクの上に置いて、彼女はトレイごとオレの前に置く。

 やっぱり今日も彼女は暇だったらしい。


「マスターは?」

「ここんとこ、マスターも来ないの。あたしはでも仕事だし、合い鍵持ってるから、毎日来てるんだけど、客も来ないし、暇で暇で仕方なくて」

「マスターが…?」


 会ったことは無い。だけどいつも、ロブはここのマスターから仕事をもらっているはずだ。


「三日空けるってことは、普段は無い訳?」

「うん。まあ一日二日はしょっちゅうだけどね。ほら、絵の買い付けとかで向こうの都市とか行ったりもするでしょ」

「ああ…」


 都市間の往復には、一番速いエア・トレインを使った所で、結構時間がかかる。


「あたしは来たことがちゃんと証明できれば、お給料もらえるしね。暇でも何でも、来ればいいの。で、何だっけ」


 彼女はいつもの指定席から、オレの前へと移動した。そして皿の上からクッキーを一つ取ると、ぽん、と口の中に放り込んだ。彼女の気配はいつもストレートで、言っていることとあまり変わりが無いから、気楽だ。


「ロブがその、有名な狙撃兵だった、時の記事が見たいんだ」

「じゃあ、五、六年前よ。えーと…シャノ君、その頃あんた、何やってた?」

「オレは…オレの住んでた施設が空襲受けた頃」


 ぱっ、と彼女は大きく目を開く。


「そうなんだあ」

「うん。でも今はその話は後にしてよ」

「はいはい。でも後で聞きたいって言ったら、怒る?」

「別にいい。もう終わったことだし」


 嘘だ。

 口にしてから、自分につぶやく。今だってまだ、あの時、シスターを助けられなかった自分を悔やんでいる自分が居るのだ。


「ふうん。じゃあ。えーと」


 ばらばら、と彼女は縮刷版を繰る。本とか活字に慣れているのだろう。あっと言う間に、彼女はある一ページを開いた。


「ほら」


 ほら、と言われても。

 一面のど真ん中に、見覚えの無い顔が、あった。


「…これ…ロブ?」

「そうよ。ロバート・マクラビー」

「だって、髪が…ヒゲが…」

「あんたねえ、軍で、そんな正装させられてる時に、あのいつもの様子でぐちゃぐちゃしてたら叱られるわよ。その顔にいつもの髪とか想像してつけてごらんなさい」


 言われてみれば、そうだ。確かにその濃い顔には、見覚えがある。

 記事には、ファルハイトの士官や要人を次々と狙撃した英雄、という意味のことが書かれていた。


「あの頃あたしは、まだここに勤める前で、シニア・ハイの学生だったけどさ、結構皆でわーわー言ったものよ」

「ロブに?」

「って言うか、狙撃兵のマクラビー曹長、によ」

「曹長」

「ねえ知ってる? 戦場で一番怖いのは、曹長の立場にあるひとなんだって」

「何で」

「叩き上げで現場の前線に出るひとって、だいたいそれが一番上なのよね」

「士官は…そうじゃないの?」

「士官には士官学校ってのがあって、あーいうひと達は、もう別なの。はじめから。普通一般の男達が徴兵される場合は、それこそ二等兵から始めるからね。そこから曹長まで上がるっててのは、士官学校卒業の連中が佐官になるより大変よ。だいたい初めっから前線でこき使われるんだから」

「…詳しいね」

「常識よ」


 そうだろうか。それとも単にオレが、そういう常識とはかけ離れた世界に生きてきてしまったからだろうか。


「弟さんのことは、彼、言ってた?」

「戦死したって」

「そう。ほら、だからここ見てよ」


 彼女は普段の新聞より細かい字の記事を指さす。


「戦死した弟の分まで…って」

「やっぱり、亡くなってるんだ…でも詳しいね、ホント」

「だから、シニア・ハイの女の子にとってはね」


 なるほど、奴はもしかして、一種のヒーローだった訳か。


「…だから、ロバートが画家でここにやって来た時にはびっくりしたわよ。しかもそれが本業だ、みたいなこと言ってるしさあ。でも絵は綺麗だし。何か学生ん時にきゃーきゃー言ってたあたし達が馬鹿みたいに感じられて。ああでもシャノ君誤解しないでよ。単に、夢が壊れたってことだけで」

「判ってるよ、今のロブはロブで、別にあんた嫌いじゃないんだろ」

「そりゃあね」


 そしてオレはようやく紅茶に手を出した。さすがにもうぬるくなってしまっていた。


「でも何で、わざわざ図書館なんかで調べるのよ。本人はどうしたの本人は」


 答える代わりにクッキーを三つほど一度に口に入れ、がしがしと噛みつぶす。何か、嫌な感じがする。


「そんなぞんざいに食べないでよ。これでも一応ちゃんと焼いてるんだからね」

「うん」


 言いながらもがしがしと食いたくなってくるのだ。そう、またあの不安が顔をもたげてくるのだ。

 何かが、噛み合わないのだ。なのに、その何かが掴めなくて、オレは苛立っている。そう、苛立っているのだ。

 奴が帰ったら、もっと色々なことを、聞きたい。

 オレは本気でその時そう思った。

 今のこと、昔のこと、そしてこれからのこと、ちゃんと奴から聞いてみたい、と。

 だからってオレに何ができるという訳でもない。聞いてどうする? と奴なら問い返すかもしれない。これはあくまでオレの好奇心かもしれない。

 …いやそれだけではなく。

 ふと見ると、彼女はデスクの中から袋を取り出し、オレの手の上に乗せた。


「ほら」


 顔を上げる。


「クッキーよ。持っていきなさいよ」

「え」

「本も、返しておいてあげる。あんた、何か、すごい顔してるわよ?」

「すごい顔?」

「って言うか、嫌ーな雰囲気。一緒に居るあたしまで暗くなりそうじゃない」


 またずけずけと。でもその言葉には嘘が無い。


「だからそういう時には、昼だろうが朝だろうが、とっとと帰って、美味しいもの食べて、とっとと寝てしまった方がいいのよ」

「だってオレ病気じゃないぜ」

「気持ちが風邪引いてるかもしれないでしょ」


 気持ちが。オレはふっ、と胸に手を当てる。ああ、そうかもしれない。


「雨、しばらく降り続くかもしれないし…やーねえ。さっさと晴れて欲しいなあ」


 ありがとう、と言って、オレは本を置いて、クッキーを手にアパートへと向かった。


 何か判ったかい、という声にまあまあだね、と返して、三階まで重い足を引きずって行った。

 判ったことは、幾つかある。でも結局それは、一つのことに他ならない。奴には奴の、過去があって、それをオレに言う気はなかった、ということ。

 それがオレの憂鬱を大きくしている。

 ばたん、と扉を開けると、雨のせいで遅れた新聞が落ちてきた。


「…何だよ、遅いよなあ」


 拾い上げると、でかい見出しが、そこにはあった。


『デビアでキリウル産業の工場が爆発』


 キリウル産業、なんて知らないけれど、…こんな風に、シレジエの新聞でも出るってことは、ずいぶんでかい工場なんだろうな。

 そう思いながら、オレはベッドの上にばさ、とそれを広げる。デビア市内の地図が簡単に示されていて、郊外にある工場の位置に印がつけられて…

 ちょっと待て。

 ふと、自分の記憶を掘り起こす。

 デビアに居た頃、確か、あの郊外の工業団地にあるのは、全部、カストロバーニの直営の工場って聞いていなかったか?

 だったら確かに、こんな一面にどん、と写真入りで大きく載っているはずだ。オレは目を皿の様にして記事をたどった。だがそこに書かれているのは、ごくごく平面的な事実に過ぎない。何月何日何時何分に、どの地区から爆発音が起こって、それに駆けつけた消防隊員が逃げ遅れて…エトセトラエトセトラ。

 オレは妙に空っぽな気分で、その記事をたどっていた。

 どのくらい経っただろう。記事に集中していた気持ちを逸らせたのは、通信端末のコール音だった。

 オレが一人の時に鳴ることは、まず無かった。オレが出ていいんだろうか、という気もしたが、出ない訳にもいかない。


「…はい?」

『…お前、ロバートのところのガキか?』

「え? はい?」

『いいか、今から十分以内にそこを出ろ。十分だったら足止めができる』

「は?」

『いいか、十分だぞ!』


 鋭い声だった。何処かでその声を聞いたことがあるような気がしつつ、オレは、一方的に切れた通信に頭をひねった。

 だけど、確かに、ロバートのところのガキ、と言った。ロブを知ってして、なおかつオレという同居人の存在を知ってる奴だ。

 だけど雨はまだ降っている。ざあああああ、と音が聞こえる。強くなっているのかもしれない。

 !

 ふと、その音に混じって、パトロール・カーのサイレンが聞こえた様な気がした。しかも、それが近づいてくる。

 まさか。

 その直後、どん、と振動が伝わった。サイレンの位置が止まる。…足止め、ってまさか…

 オレは慌てた。出ろ、と言われても。

 その時、ふと、「何かあったら」と言った彼女の姿がふっと頭をよぎった。何か―――大ありじゃないか!

 彼女からもらったIDカードもハンカチも、ずっと服のポケットの中にあった。

 何が何だか判らない。だけど、オレがもし逃げなくちゃならない立場になっているとすれば、彼女のところは、むしろ安全中の安全じゃないか?

 そう思った。十分。足止めをしてくれているというのが誰なのかもさっぱり判らないが、とにかく、オレはここを出なくてはならないらしい。

 そしてふと思い付いて、クローゼットの中の、彼女の肖像画を取り出した。だけどそのままではずぶ濡れになる。何か濡れない様にくるむものは無いだろうか。あった。クローゼットの奥の方に、大きなビニール製のバッグがあった。

 だがそのままでは手が届かない。思い切って、中にそのまま足を踏み出した。と。

 べり、と床が抜けた。


「何だよ!」


 思わず声を上げた。何だって、こんな薄い…

 はまりこんだ足をあげかけて、オレは目を丸くした。


「…何…」


 踏み抜いた床は、二重になっていた。薄いベニヤ板を、オレは思いっきり力を入れて剥がす。めきめきめき、と音を立てて、板は外れた。


「!」


 そこには、数種類の銃と弾丸が入っていた。

 長い銃身、その弾丸は、確かに狙撃仕様のものだ。

 ロブはかつて、狙撃兵だった。

 ぱん、と何かが頭の中で弾ける。

 だがすぐにぶるん、と頭を振る。ここで立ち止まっている訳にはいかないのだ。

 銃に関しては、放っておくしかない、と思い、絵をとにかくバッグに入れようとした。と、ふとその視界に、何処かで見たものもあった。


「…これ…」


 あんな物騒なもの、捨てたって言ったのに。

 オレがここに来た時、持ち出してきた、あの小さな銃だ。

 Jの遺体から、ひっぱがすようにして持ってきた、あの銃が、長い銃の中に、ちょこんと置かれていた。


「…捨てなかったんだ…」


 記憶によると、あと二発は残っていた。

 オレはそれもバッグの中に放り込むと、クローゼットを勢い良く閉めて、飛び出した。

 鍵を掛けてから、ああ習慣って怖いなあ、とオレは苦笑いした。でもまあいい。鍵が掛かっていたなら、その分時間稼ぎはできる。

 アパートの、裏口からオレは飛び出した。傘は持たない。絵と銃の入ったビニールバッグを抱え込む様にして、オレは走り出した。

 少し走ったあたりで、アパートの辺りにサイレンがわんわんと集結しているのに気付いた。そして人のごちゃごちゃした気持ちが押し寄せてくる。ああうるさい!

 無駄だと思いつつ、オレはそう内心、叫んでいた。

 そう言えば、とポケットを探ると、さっき借りた地図をまだ返していなかったらしい。現在地点を確認し、そこから彼女の邸宅に一番近く行ける道を捜す。

 何が何だか判らない。ただもう、今は、確実に自分の身柄を守ってくれそうな人のところへと走るしかないのだ、とオレは思った。


「…ここ…かな」


 結局迷い迷いつつ、人目につかないように細い裏道を次々に通って、何とか「お屋敷街」の方へとたどり着くことができた。

 さすがにこの地域は閑散としている。だけど気配だけは張り詰めていて濃厚だ。

 さてどうする。オレは自分に問いかける。とにかく彼女の所へと入るしかない。

 シレジエで彼女が住んでいるのは、議長の別宅らしい。地図にはそう書いてあった。よく考えてみればそうだ。議長は首都に本宅があるはずなのだ。首都が政治の街である以上、一番偉いひと、はそこに住まなくてはならないだろう。

 だけど彼女はそうではない。

 身長の倍近い高さの門へとオレは近づいて行く。無論そこにはレインコートを着た門番が居た。詰め所まで存在している。さすがだ。


「あの…」


 濡れ鼠のオレを、じろじろと門番は嫌そうな目で見た。


「ここの奥さんに、オレ、用があるんだけど…」

「お前がか?」

「ちゃんと、IDカードもらってるし、ほら、あのひとの書いてくれたハンカチもあるし…」


 こういう時には惜しげもなく出さなくてはならない。

 門番はカードを取り、詰め所の機械に通す。確かに本物だ、とそれで確認しただろう。ハンカチの方はそれだけでは彼には確認できないのかもしれない。彼は端末を手に取った。


「…はい…という少年が、…はっ」


 息を呑む音がする。門番の男の気持ちが一気にざわつく。しまった困ったどうしよう、という類だ。何って判りやすい。

 ちん、と音をさせて端末の受話器を置いた彼は、疑ってすまない、と素直に頭を下げた。そして門を開けた。


「奥様がお待ちだ。この道を真っ直ぐ行けば、屋敷の正面玄関に着く。もう一人居れば、送ってあげられるんだが…何か今日は物騒なことが起きたからと…ああ…ちょっと待って」


 すぐに走り出そうとするオレに、門番は待つ様に言って詰め所に入る。出てきた彼の手には、黒い傘が握られていた。


「今更、と思うかもしれないけれど、濡れないにこしたことはない」

「…ありがとう」

「本当に、悪かったな」


 オレはぺこん、と頭を下げた。立場はともかく、途中から変わった気持ちは善意だった。オレは一本道を駆け出した。

 近づくにつれて、「正面玄関」がどんどん視界に広がってくる。

 「玄関」って言葉の意味をオレは確実に疑った。それだけで一つの建物みたいじゃないか!

 ようやく屋根のついた所に立ち、傘を閉じる。今更ながら、オレの髪からひっきり無しに水が滴り落ちている。だけど絵は大丈夫…だと思う。そのためのビニールだ。破れていなければいいけど。

 だけど何か、さっきからその絵の手触りが変だな、とオレは思っていた。時々何かが手に引っ掛かるのだ。

 呼び鈴を鳴らすと、勢い良く扉が開いた。パースフル夫人のマリ・ブランシュさん自身が、既に待ち構えていたらしい。


「…シャノ君…どうしたの一体」

「判らないんです…ただ、オレのとこに、今すぐ逃げろ、って通信が入って」

「…とにかくすぐに入って。ばあや! 大きなタオルと、着替えを出してやってちょうだい! お風呂の支度もね!」

「風呂…?」

「冷え切っているじゃない!」


 そう言って、彼女はぎゅっ、とオレを抱きしめた。途端に、あのふんわりとした感覚がオレを包み込んだ。


「…あ、あの、濡れます」

「うちには腐る程服なんてあるからいいのよ。それより…それは?」

「あ」


 オレは袋の中から絵を取り出し、彼女に手渡した。


「これ…」

「オレが見つけた、あなたの肖像画」

「これが…」


 彼女は両手で大事そうにそれを持つと、少し離して目を細める。


「…そう…あのひと、私のこと、こんな風に…」


 そして愛おしそうに、絵の表面を指で撫でる。それ自体が描いた本人であるかの様に。

 と。

 その指がぴた、と止まった。


「…シャノ君、何か、彼、この絵について、君に言っていなかった?」

「や…どうするかは、オレに任せるって言っただけで…」


 彼女は絵をテーブルの上に置くと、棚からナイフを取り出した。


「何を…」

「…ごめんなさい、だけど横だから…」


 そう言いながら、彼女は絵を貼ってある木枠に沿って、絵自体に掛からないように、そのカンバス地を切った。そしてその裂け目から、指を潜り込ませる。


「…あったわ」


 え、とオレは目を丸くした。彼女の白い二本の指に挟まれていたのは、少し厚めの封筒だった。それで何か、違和感があったのか、と今更の様に思い返す。


「奥様、お風呂の支度ができました」

「シャノ君ちょっと入ってらっしゃい。私少し、これを一人で読みたいの」

「…はい」


 オレはまだ銃が入ったままのビニールバッグをそっとテーブルの下に置き、「ばあや」さんに付き添われる様にして、浴室へと入って行った。

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