5 彼女の遠い日々

 それからというもの、オレは暇を見つけては、あの元銀行の画廊へと出かけて行った。ただしロブには内緒だ。

 もっとも、ロブも以前より頻繁に外出するので、オレが何しようと奴に知れたものではないのだが。

 そんな時にオレは、洗濯をしようとして、先日の「あのパースフル夫人マリ・ブランシュさんのハンカチ」が出て来たことに気付いた。

 薄手のそれは、周囲の縁取りが手作業のようで、如何にも高級品だ、ということが判る。

 捨てろ、とあの時、ロブは言ったが、…そんな気にはなれなかった。

 そこで、返せるものなら返しに行きたいな、と思っていたのだ。

 しかし何と言っても、「パースフル夫人」ということは、「最高評議会議長夫人」なのである。そうそうオレなんかが会える相手ではない。

 そこでオレが思い出したのは、彼女が肖像画を頼んだ、ということだった。

 ということは、いつかそれをまたあの画廊に取りに来るはずなのだ。

 オレはその時を狙って、できるだけ毎日レイン通りへと出向いて行った。少し距離が無い訳ではないが、歩ける範囲であったことがありがたい。

 しかしさすがに、そう簡単に彼女が来る訳ではない。

 毎日毎日、画廊の前をうろうろしていると、さすがにそこでよく入り口の花壇に水撒きをしている受付嬢にも顔を覚えられてしまうのだ。


「ねえねえあんたさ、ここのところ、毎日来てるけど、絵を見たいのなら、入ればいいのに」


 二十歳くらいの彼女は、少し呆れた様子でそう言った。オレが黙って首を横に振ると、今度は笑った。


「ああ何も、あんたが買えるとは思っていないわよ。でも絵は買う人のためのものだけじゃないし、あんた確か、ロバートの弟分でしょ?」

「え」

「あのひとの弟は戦死した、ってうちのマスターが言ってたし。だったら本当の弟じゃあないのくらい、判るじゃない。まあそれでどういう関係か、はあえて聞かないけどね」


 ふふふ、と何やら意味ありげに彼女は笑った。

 オレはそれには肩をすくめるだけだったが、おかげで外をうろうろするだけではなく、中の絵や、「元銀行」の画廊全体を見ることで、退屈を埋めることもできた。

 受付の彼女はリエダ・ミンと言った。

 どちらかというとぽっちゃりめのタイプで、何となく肌の感じがマシュマロかコットン・キャンディーを思わせた。


「あたしはね、あんたくらいの時から、ここで働いてるの。あんたも別に学校とか行くんじゃないんなら、とっとと何処かで働きなさいよ」


と、客が居ない時間には、時々クッキーを一つ二つとオレの手に掴ませた。自分のつまみ食いのついでだ、と。

 ぽり、と口にするそのクッキーは手作りらしく、甘味が少し強かった。


「ロブは、ずっとここに絵を卸してるの?」

「そうねえ、あたしが来た時には、もうここだったわねえ」

「ふうん。でもここって、昔は銀行だったんでしょ」

「らしいわね。…って何であんたそんなこと知ってるのよ」

「こないだ、あのパースフルの奥さんに聞いたんだ」


 へえ、と彼女は感心したように目を大きく広げた。


「すごいじゃない」

「そう?」

「だってあのかた、結構あたしなんかからすると、近づきがたい、って感じあるんだもの」

「そうかなあ」

「そうよ。だって…ねえ。美人だし、財閥のお嬢様だった訳だし、で、今はほら、やっぱり一番偉いひとの奥様でしょ? …そんな、ねえ、もし気さくに話しかけられたとしても、ちょっと、ううん、かなり気後れしちゃうわよ」

「そう…かなあ」


 オレは別に、自分に敵意のある人間でなければ、そうそう気後れすることはない。夫人にはそれが全く感じられなかった。それだけなんだけど。


「あ、そういえば、ロブは最近来てるの?」

「ううん、全然。どうしたのかなあ、ってあたしも思うんだけど。何、最近出てるの?」


 そう言ってリエダもクッキーをぽり、とかじる。


「うん。何っか端末で呼び出されては、出てる。だからオレ暇で」

「やっだー」


 ばんばん、と彼女はオレの背を叩いた。


「そういうこと、露骨に口に出すんじゃないわよぉ」

「な、何を」

「そんなにロバートが居ないと退屈?」

「退屈? うん。まあオレ、あまり知り合い居ないし」

「ふふん。じゃあいいじゃない。時々はこっちへ遊びに来なさいよ」


 実に楽しげに、何かたくらんでいる様な顔でリエダは笑う。


「だってあんた、お仕事中だろ?」


 彼女はぐい、とカウンター越しに身を乗り出し、オレの耳もとに口を近づけ、声をひそめた。


「…画廊の受付なんてね、一日の大半は暇なの!」

「え、そうなの?」


 オレもまた、つられて声をひそめた。


「そうよ! だってここって、結構いい客が来るんだけど、そういう客って、滅多に来ないじゃない」


 それはそうだ、とオレは思った。


「だけど絵って、一枚当たりの値段が高いから、それで充分成り立つのよ」

「だけどあんた、受付だけやってる訳じゃあないんだろ? お掃除とか」

「そりゃあやってるわよ。だけどそれでも、下手に絵に手をつけてもまずいじゃない。あたしはそっちの方には、基本的には素人なんだから。だから、お手入れとかはマスターが一括管理しているし、お客が来れば、マスターを呼んで来るしかないじゃない」

「じゃあホントに、あんた『受付』だけなんだね」

「…そりゃあ、もっと、色々したい、とも思うんだけどさ」


 目を伏せ、少しふてくされたような口調になる。


「だけど何っか、ここのマスターって、あまりあたしを奥には入れたくないって感じがあるのよね」

「へ? そうなの?」

「そ」


 彼女は大きくうなづいた。少し膨れたその顔が余計にマシュマロに見える。


「だって入った当初は、あたしも張り切って、絵のこと覚えて、ちゃんと手入れもできるようにして~とか考えたの。だけどそういうことはいいから、とマスターはあたしをここ専門にしてるのよね。それこそほら、こんな風におしゃべりしていても、何も言わないし」

「ふうん。楽でいいね」


 それもまた。


「そりゃあ楽よ。だけど、ねえ」


 うーん、と彼女は首を傾げる。


「こんなことで、お給料もらっていていいのかしらって気になるのよ。だって結構、うちの給料って高いんですもの」


 彼女は更にこそ、と自分の時給の額をつぶやいた。


「えーっ」

「でしょ?」

「それだったら、オレがしたいくらいだ」

「だから、辞められないんでしょ。退屈ではあるけどね、いい職だもん。それに、そういう有名どころさんを見られるだけでも面白いし」

「でも、時々愚痴を言いたくなるんだ」

「そ」


 くふふふふ、とオレ達は笑い合った。


「…あのさ、色々言ってくれて嬉しいから、オレも言ってしまうんだけど」

「うんうん」


 彼女は身を乗り出してくる。


「オレ、この間倒れた時、あの夫人に、ハンカチ使わせてもらったんだ。返したいんだけど…いつ来るのか判るかなあ」

「ああ、それで毎日毎日、来てたんだ」


 うんうん、とリエダはうなづいた。


「そうねえ…」


 受付デスクの引き出しの中から、彼女はスケジュールノートを出した。手書きだ。

 そのアナログなあたりが何かこの建物と「画廊」という雰囲気によく合っていると思う。

 でも大きな取引が時々にしか無いのだったら、いっそそういう記録は、アナログであった方がいいのかもしれない。


「えーと、…ああ、この間の肖像画の件で、来週の月曜日の朝、いらっしゃるわ」

「来週の、月曜日の、朝」

「ええ。でもあんた、それだからって、それまでまるで来なくなるってのは無しよ」


 あたしの暇を何とかしてよ、とその目は訴えていた。

 そのくらいは構わない、とオレも思った。オレも暇だし、悪意の無いお喋りをする相手は欲しかったのだ。


 しかしそういう時に限って、夕方早めに、ロブは帰ってきた。


「あれ、今日は早いじゃん」

「お前こそ、今日はどっか行ってたの?」

「うん、まあ。ちょっとこないだの通りが面白かったから、いろいろウインドウショッピングでも、と思って」

「…買える程、金はねえぞ」


 ロブはそう言って苦笑した。

 しかし何となく見た目に違和感がある。夕食の支度をしながら、オレはちらちらと奴の方を見た。


「…あんたさあ、最近ひげ全く剃ってないんと違う?」

「ひげ?」

「それに髪! ただでさえあっちこっち向いてしてるんだから、ちゃんと櫛くらい入れろよ!」


 包丁持った手で、思わず指摘してしまう。


「あー…そのくらいいいだろ。最近忙しかったんだ」

「…ま、それはそうだろうけど」


 でもそれは絵で忙しかった訳じゃあない。画廊に奴は行っていないのだ。

 よく考えると、こいつの行動は、ちょくちょくそういうことがあった。ただ最近ほど頻繁じゃないので、オレが気付かなかっただけなのだが…


「今日のメシは何だ?」

「ポトフ! 少し冷え込んで来たから」

「お、それはいい」


 こういう会話をしている分には、何もいつもと変わらないというのに。


 翌週の月曜日、オレはロブが出かけるとすぐに、レイン通りへと飛び出した。


「あらおはよう」


 リエダがいつもの様に花に水をやっていた。だけど花らしいものがあるのは右半分だけだった。

 オレが不思議そうな顔をしているのを見て、彼女は気付いたのだろう。


「ほら見てよ、シャノ君。こっち側にはチューリップを植えたの。春には花が咲くわ」

「へえ。…でもチューリップって、どんな花?」

「やあだ、あんたそれも知らないの?」

「見れば判るかもしれないけどさあ、名前までいちいち覚えていねーよ。オレはデビアに居たし、あっちにはあまり花が無かったんだ」

「あらそうなの。デビアかあ。確かに向こうでは、花は育ちにくそうね」


 彼女は納得した様にうなづいた。


「向こうって、宇宙港にするための街だった訳じゃない。だから砂漠にそのまんま舗装したようなとこなんだよね。それで充分だったらしいし」


 言われてみれば、確かに花とか草とか木々とか、あまり見た覚えが無い。オレ達の「庭」はアスファルトとコンクリートのジャングルだった。

 そう言えば。


「…ねえリエダ、林檎の種とかって、埋めれば芽を出すのかなあ」


 オレはふと、ずっと前の「賭け」のことを思い出した。


「うーん、あれは運よね」


 リエダは首を傾ける。


「運?」

「埋めて、そこにちゃんと水やっておけば、芽くらいは出すかもしれないけれど、でも木になるか、はよっぽどのことが無いと無理じゃないかなあ」

「そういうもの?」

「これなんかはね」


と彼女はかがんで、チューリップを植えたあたりを指す。


「ちゃんと芽が出るような球根を買ってきて、それこそあたしが暇つぶしだろうが何だろうが、花が咲くように育てているじゃない。だけど、林檎を実が生るように種から育てるってのは、かなり大変よ」

「…そうなんだ」

「何、林檎の種、植えたの?」

「植えたって言うか…賭けをしてるんだ」

「賭け」

「オレは芽が出ない方に賭けたの。だけど相手は、出るって方に賭けてる」


 そしてその賭けに勝ったら。奴の言った内容を、思い出す。

 ふうん、と彼女は口元を上げた。


「それであんたは、芽が出て欲しいんだ」


 オレはうなづいた。そう、確かにそうなのだ。

 奴は何の根拠もなく、そんなことを言っている訳ではないと思う。

 そこまで馬鹿じゃない。先の先までたぶん見えている。

 それでも言うあたりに、何か、オレの中にくすぐったいものがあるのだ。


「じゃあまあ、信じるしかないんじゃない?」

「信じる?」

「そ。それこそ運とか天の配剤、とかそんなもの。そういうものは、別に意味も無く信じてしまった方が楽だと思うわよ」

「そうかな」

「そうよ」


 何となく、オレは自分の気持ちが軽くなるのを感じた。


「リエダって、時々いいこと言うね」

「あら、時々じゃないわよ…あ」


 車の音がした。


「いらっしゃったみたいよ。さああたしは受付受付」


 確かに、あの車だった。レイン通りの幅が決して狭くはないと言っても、目立つ様な。

 その中から、また先日の様に、ボディガード二人がまず現れ、続いて彼女が現れた。


「…あら君…」


 入り口に立っていたオレに、彼女はすぐに気付いた。途端、オレの中に、またあのふんわりとしたものが漂ってきた。


「…この間は、どうも、すみませんでした」


 ぺこん、とオレは頭を下げる。


「あらそんなこと…わざわざそれで?」

「…これを、お返ししたくて…」


 両手で、あの時のハンカチを差し出す。夫人は軽く首を傾けて、にっこりと笑う。


「別にもらってくれても良かったのよ」

「や、でも、持っていると」

「あのひとが、怒るから?」


 今度は逆方向に軽く首を傾けた。

 オレはどう言っていいのか、迷った。

 確かにそうなのだ。彼女の白い手がつまみ上げるそのハンカチを、オレはずっとロブの視界に入らないようにしてていた。洗う時にも、乾かす時にも、アイロンを掛ける時にも、奴の居ない時にこっそりとやっていた。


「…ねえあなた」

「シャノワール、です」

「黒猫くん? ああ、だからシャノ、だったのね。あなた今、お暇?」

「…え?」

「私はここで、絵を受け取ったら用事はおしまいなの。ちょっと私に付き合っていただける?」


 付き合って、って。

 オレはしばらく、その意味も判らないままに、ぼんやりと立ちつくしていた。

 一体何があったの、という目で受付に座るリエダはオレをまじまじと見ている。

 中ではオーナーが直接、絵の説明だの何だのしているらしい。

 結局オレは、約三十分、花壇の前でじっと彼女を待っていることになってしまった。


「お待たせ」


 そう言うと、彼女はオレを車に乗る様に促した。後部座席の、彼女の横だった。

 さすがに、彼女のボディガードからは露骨に嫌そうな空気が流れたが、主人の命令には絶対なのだろう。顔にはまるで表れていなかった。

 オレは、と言えば、広々とした車内の、すーっと流れるような動きに、驚いていた。何せ、いつ動き出したのかもまるで判らなかったのだ。

 オレが知っている車、と言えば、それこそポンコツすれすれのものばかりだった。だからクッションのウレタンが飛び出したものとか、緩衝装置が壊れていたりとか、…まず慣れてない者が乗ると、酔うこと間違いなし、というものだった。

 しかしこれは。

 彼女は前のボディガードとの間に壁をさっと閉じた。


「これで、前には聞こえないわ」


 え、と思わず彼女の方を向く。


「こういう車には、色々と仕掛けがあるの。知らなかった?」


 何も言わず、オレはうなづく。


「極端な話、こんなところで、男の子を口説いて何かしらしていたとしても、絶対に外には漏れないようになっているのよ」

「…って…」

「冗談」


 くす、と彼女は笑った。

 無論それは判る。…情欲があれば、ちゃんとそれは伝わってくるものだ。彼女から来るのは、あくまであのふんわりとしたものだけだった。


「だけど、確かにあまり聞かれたくない話とか、あのひと達の背中を見ていたくない時だってあるでしょう?」


 一人になりたい時、ということだろうか。


「そういう時に、こういうものは便利なのよ」


 そうですか、とオレはうなづいた。


「…それで、どうしてオレを」

「あのひとは、元気?」


 あのひと? ああ、ロブのことか。


「元気…ですよ。でも最近、あまり家に居着かなくて」

「そう」

「何処行ってるのか、オレが聞きたいくらいです」

「そうなの…」


 言葉の端が少し寂しげになる。


「…パースフル夫人は」

「名前でいいわよ。あのひとの関係者には、あまりそっちの名前で呼ばれたくないわ」

「え…」

「私達、昔、付き合っていたのよ」


 オレは再び驚く。


「友達、とは聞いてましたけど」

「そうよね。彼なら今はそう言いそう。いくら父の言いつけとは言え、パースフルに嫁いだことを、未だ許していないんだわ」

「許してない、って…」

「彼、芸大に居た頃、平和活動をやっていたのよ」

「平和活動って」

「正確に言えば、平和主義活動。理想は平和だけど、そのためにには何でもする、っていう活動のことよ」

「…」

「判らないかしら?」


 すみません、とオレは頭を下げる。

 彼女の中で、少し無知に対する苛立ちを感じた。だけどさすがだ、表情にはそんなことはまるで表れていない。


「…でもオレに、そんなこと言って、いいんですか?」

「昔話として、聞いてね」


 はあ、とオレは答えた。

 それを今どうなのか、と考えるのは、オレの判断にゆだねられた、ということになる。実際彼女は、現在の奴に関しては、知らないのは確かな様だった。

「これも事実かどうかは、君の判断に任せるけれど、当時、パースフルはまだ資源開発委員長だったんだけど、マフィアと結びついている、って噂があったの」


「…マフィア!」


 懐かしくも恐ろしい言葉が、オレの中に走った。


「マフィアのことは、知ってる?」

「…オレ、デビアに住んでたんです」

「だったら、話が早いわ」


 口調が鋭くなる。デビアに住んでいる人間で、マフィアのトップの名を知らない訳がない。そう彼女は判断したのだろう。


「パースフルと、カストロバーニが癒着している、っていう情報が当時、流れていたのよ」

「って」

「だから、噂、よ」


 彼女はあくまでそう言う。


「それ以上は、判らないわ」


 あくまで、そう言うのだ。


「ただ、それを調べたり、信じたりする人たちは、学生の中には多かったのよ」


 なるほど、とオレは思う。

 確かに、あの連中なら、政府のお偉いさんとくっついていてもおかしくはない、と思う。実際、デビアでは警察権力さえ、あの連中の思いのままだったのだ。


「ロブは、じゃあそれで何か、…まずいこと、したんですか?」

「当時はまだ学生だったから、大したことなんかできないわ」


 当時は、か。


「私はただの音楽科でピアノ弾いている娘だったし、あのひとは、美術科でひたすら絵を描く学生だったわ。芸術大学ってのは、そういうためのところよ」


 今ではそうではない、ということか。オレは言葉の逆を取る。


「だから結局、何もできなかったわ」


 彼女はぽつり、と言った。


「平和どころじゃない。結局トレモロを巡って、戦争は起こってしまったわ」


 彼女は目を軽く細めた。


「学生が学校の中で、どれだけ戦争に反対を叫んだところで、結局学校の外には届かなかったのよ。皆悔しがったけど、どうしようもなかったわ」


 そしてきっと、その「皆」の中に、彼女もロブも居た、ということなのだろう。


「オレの居た施設も、空襲で焼かれました」


 彼女は弾かれた様にオレの方を向いた。

 その瞬間、少しだけ何か、今までに漂っていたふんわりした感情以外のものが見えた様な気がした。

 同じ「ふんわり」でも、それはリエダの姿の様なコットン・キャンディではなく、実はぶ厚い雲なのかもしれない。


「…そう…そうなのよね。結局戦争で一番傷つくのは、弱い者だというのにね」


 切れ間から、何か強い光の様なものが、感じられた。

 例えば、今にも雨が降りそうな分厚い雲。その合間から射す光は、それだけに強い光を放っている様に見える。


「まあ今は、トレモロの権利は半々、ということで協定が結ばれて、何とか直接的な戦争状態にはならないで済んでいるけれど、…あそこのレアメタルは、本当に売れ行きがいいから、どうしても欲しい、と思ってしまう連中が居るのよ」

「…兵器に、なるから?」

「ええ。それも、あのひとから?」

「まあ…」

「そうね。兵器になる。それも、この惑星が使うのではなく、もっと別の惑星が戦争に使うためにね。…確かにあれは売れるわ。でも、売れれば売れるだけ、被害も大きくなるのよ」

「…」


 このひとは一体、何を言いたいのだろう。言っていることがロブと良く似すぎている。

 雲間の光程度では、オレには彼女の気持ちは看破できない。


「低コストエネルギーとして利用するなら、私は開発にも賛成なのよ。例えば緑化地域…」


 それはまるで、オレに言っているというよりは、彼女自身のつぶやきのようだった。


「…ああ、ごめんなさい。ちょっと考えにはまりこんでしまったわ。…つまり彼が昔、平和運動に加わっていたのは、ご両親のこともあったからかしら」

「…両親…?」


 そう言えば、オレは奴の弟のことは聞いたけど、他の家族のことは聞いたことがない。


「今はどうだか。今のことだったら、君の方がよく判っているのではなくて?」

「オレは…オレだって、よく知りませんよ。ここ最近、よく出ているけれど、行き先だって言ってくれないし」

「相変わらず、放浪癖でもあるのかしら」


 くす、と彼女は笑う。


「放浪癖?」


 それは初耳だった。


「そう。しかも私と付き合っている時には、時々私まで連れだしたわ。おかげで一度、捜索願が出たこともあるくらい」


 くっくっ、と彼女は笑う。口の端をきゅっと上げて、彼女はこちらを向いた。


「出会ったのは…そうね、二回生の時だったかしら。大学の祭りの様なものがあってね。その時私はピアノを弾いて、あのひとは一番好きな類の絵を展示していたのだけど」

「…もしかして、それってあの抽象画、って奴ですか?」

「そう」


 彼女は指を一本立てた。あ、とオレは思った。


「で、もしかして、何か目がちかちかするような」

「あらやだ、まだそういう絵を今でも描いているの? そうそう、あれで目を白黒させていたら、『どうですか俺の絵、すごいでしょ』よ」

「…」


 何だそれは。絶句していると、彼女は笑った。


「でも、本当にそう言ったのよ。馬鹿じゃないの、って思ったんだけど、あまりにも熱心にその説明するもので、ついつい気が付いたら、模擬店のジュースパーラーまで連れていかれてしまったわ」


 ははは、と俺は乾いた笑いを浮かべた。


「今の『食うための絵』は、風景画とかなんですけど…オレはあっちの方が好きですけど」

「そうね、私もそっちの方が、好きだったわ」


 ふうっ、と彼女は軽く天井を向いた。


「あのひと、全然自分の資質ってものに気付いてなかったのよ。あのひとにとって、世界は綺麗なものなのよ。綺麗な世界をその目で受け取って、それをそのまま、より綺麗なものとして、キャンバスの中に再現できるの。そう、理想ね。そして見たひとも、その美しく綺麗な世界で幸せになれるっていうのに」

「オレも、そう思います」

「でしょう?」


 オレ達の視線が、絡まった。


「ロブの描く『平和』な風景ってのが、オレは好きです。オレ、絵のことは良く判らないけれど、ロブの描くその風景は、見ていて、ああ、いいなあって素直に思えます。だけど」

「だけど?」

「あの『抽象画』の方は、何か…」


 何だろう。オレはあの目がちかちかする様な絵を見ていると、いつも得体の知れない不安に襲われていた。

 激しい筆遣い。勢いまかせの様なタッチ。そしてどぎつい色。

 ロブはそれをほとんど無意識のうちにやっているらしい。

 風景画の時なんかはそうじゃない。あれはきちんとスケッチをしてきたものを、キャンバスの上に綺麗に綺麗に乗せていって、ゆっくり丁寧に色を置いている。

 製作方法だけ見ても、同じ人物とは思えないくらいだ。


「…シャノ君、昔、彼はこう言ったのよ。自分の中にあるどうしようもない衝動みたいなものを表すには、『見たもの』というフィルターを通してなんかいられないって」

「…じゃああの『抽象画』は、ロブの気持ちってことなんですか?」

「今はどうでしょうね。今の彼については、私は判らないわ」

 そうは言っても、人間の内面なんて、そう簡単に変わるものではない。だからきっと、彼女は今もそうである、と思っているのだろう。また彼女の心には雲がかかってしまって、本当のところは判らないのだけど。

「…ところでシャノ君」

「はい?」

「彼は、いつもあの画廊に絵を売っているの?」

「…? いつも、かどうか判らないですけど…だいたいいつも、二、三枚持って、画廊に行ってますよ」

「そう…」


 そうだよな、とオレはあの部屋のクローゼットの中を思い浮かべる。


「あ!」

「ど、どうしたの」

「思い出した!」


 何事、と彼女は目を丸くする。


「オレ、あなたの顔、何処かで見たことがある、と思ったら…肖像画、だ」

「肖像画…って、私は今回初めて、頼んだのよ? 完成間近なものでも見たの?」


 いいや、とオレは首を横に振った。


「違うんだ、うちのクローゼットの中に、肖像画が一枚だけあるんだけど、…それ、あなたなんだ」

「私…?」

「今と髪型も違うし、…今の方がずっと落ち着いた格好してるから判らなかったんですけど」

「正直に、老けたから、と言いなさい」


 つん、と彼女はオレのおでこをつついた。


「…でも、綺麗なひとだなあ、って思って」

「ありがとう。…ああ、肖像画…あの時のもの、まだ持っていてくれたのね」

「あの時って」

「私達が付き合いだして、一番いい時、かしら。四回生の初めかしらね。それこそ私も彼と一緒に、何処でも行ってた頃だわ。自分は肖像画なんて、って言う彼に、無理矢理描かせたのよ」

「無理矢理、ですか」

「そう、無理矢理」


 くすくす、と彼女は笑う。


「彼の目から見た私、というものを見たかったの。彼の目に、私はどういう女に映っているのか…でも結局、それが完成する前に、私達は別れることになってしまったんだけどね」

「何故…」

「パーティが、あったのよ。四回生の真ん中くらいの休みに。私は嫌だ嫌だ、と思ったのだけど、父の命令だったから仕方なかったわ。私が出ないと、私付きの召使いの責任にもなるしね。そこで、今の夫と出会ったの」

「評議会議長の…」

「まだその頃は、資源開発委員長のね。仕事熱心な男であることは確かでね、結婚などしている暇もなかったんですって。何処まで本気だか判らないけれど。…まあ体のいい顔合わせ、というところかしら。もう既に、父と彼の間では、私をどうするか決めていたみたいでね」

「…嫌だった…の?」

「嫌って言うか。あなたにはよく判らないかもしれないけれど、私達のように、こんな車に乗れてしまうような階級の人間には、そういう自由が無いのよ」

 さっ、と雲行きが怪しくなる。

「だからロバートにも、私は事実を告げるしかなかったわ。私にはその結婚を断る訳にはいかなかった。既にもう、色んなことがお膳立てされていて、断ったら、様々な所で迷惑が掛かることが判っていたから。…私のこと、嫌な女だと、思う?」

「…判らない、です」

「いい答えだわ。ねえ、シャノ君、それでも彼、私に聞いたわ。どっちか選んで欲しいって。自分か、家か、って。彼も馬鹿じゃないから、私の立場くらい知ってたわ。それでも一緒に逃げて欲しい、くらいのこと言ったのよ」

「ロブが!」


 とても今の彼を知るオレとしては、想像がつかなかった。


「無論私は駄目だ、と言ったわ。無論言うのは辛かった。けど私には私で、考えた結果だから、彼を選ぶことはできなかった。彼もそれ以上何も言わなかった。理由も聞かなかった。それっきりよ。完成したら見せる、って言っていた肖像画は、結局見ることもなかったわ。ねえシャノ君、あなたの目から見て、あのひとの見た私は、どうだった?」

「綺麗でした」

「本当に?」

「ええ。ただ綺麗なだけでなくて、熱かったです」


 彼女は少しだけ、黙った。


「…ありがとう」

「…あ、そう言えば、オレ、ハンカチを」

「ちょっと貸して」


 取り出したハンカチに、彼女はバッグからペンを出すと、名前と住所を書き付けた。


「はい」

「…これはあなたに返すために…」

「持っていて欲しいの、シャノ君」


 オレはよほど怪訝そうな顔をしていたのだろう。彼女はにっこりと笑った。


「何かあるとは思えないけれど…もしも、彼がまた危ないことをやらかしてしまった時、…私で力になれることがあったら、ここへいらっしゃい」


 彼女のほっそりとした指が、住所を指す。それは、シレジエの郊外を示していた。確か、お屋敷街、といった所だったと思う。結構遠い。徒歩ではなかなか行けないあたりだ。


「それと…これを見せれば、私に直接会えるわ」


 彼女はバッグから、一枚のカードを出した。


「何ですか?」

「うちは変に厳しくってね」


 なるほど、通行証みたいなものか。オレは黙ってうなづいた。

 そして彼女はもういい、とばかりに前のボディガード達に合図を送った。ういん、と音をさせて、前後の仕切りが開いた。


「…ここは」

「シレジエを一周させていたの。もう少しで、元の画廊まで着くから、そこで降ろすけれど、いいかしら?」


「…結構長い時間のドライブだったじゃない」


 リエダは呆れた様な顔で言った。


「うん…長かった…みたいだね」

「みたい、じゃなくて、長かったの!」


 確かに時計の針は、それを露骨に示していた。


「…ねえリエダ、オレがあのひとと話してたことは、ロブには言わないでよ」

「別にそれはいいけど。でもあたし口が軽いから、あんた先に言ってしまった方がいいわよ」


 判ってる、とオレは答えた。


 その夜、久しぶりにオレはうなされた。

 大丈夫か、と起き出した奴から、もらったコップをつるりと落としてしまうくらいに、手が汗ばんでいた。


「悪い夢でも、見たのか?」

「…たぶん」


 思い出せないのだけど。

 奴は割れたコップを片付けて、あらためてもう一杯の水をオレに手渡した。


「…何か、久しぶりだな、お前がうなされるのって」

「…そう?」


 そう言えば、とオレは思った。この画家は、夜も昼もなく起きていることが多いから、オレがうなされているのも判っているのだ。


「久しぶり、なんだ…」

「来た頃は、ひどかったぜ?」

「…ああ」


 そうかもしれない。ずっと「平和」だったから、オレは忘れていたんだ。ずっと。

 何が、それを開いてしまったのだろう?


「あ、まだ落ちてる」


 ふと足元を見ると、コップの破片がまだ落ちていた。


「痛」

「おい」

「大丈夫」


 そう確かに大丈夫。


「ほら、破片は吸い出したし、もう傷も治ったろ?」

「…ああ」


 スタンドライトの弱い光の中、奴の表情は見えなかった。

 だけど。


「…ざわざわしてる」


 え? と奴はオレの顔をのぞき込んだ。


「あんたの心が、ざわざわしてる。何か、気になることがあるのか?」

「そう…感じたのか?」


 オレはうなづいた。そして奴は、何も言わなかった。

 その奴の沈黙が、オレに口を開かせた。


「あのさ」


 何だ、と破片を拾いながら奴は問い返した。


「こないだ、あのひとに会ったよ」


 奴の背中がびく、と震えた。


「そうか」

「怒らないんだな」

「怒っても、どうにもならないだろう? もう起こってしまったことだ」

「…捨てろ、って言ったくせに」


 ざわつきが、激しくなる。くるり、と奴は振り向いた。


「ただ、ハンカチを返しに行っただけだよ。捨ててしまうなんて、可哀想じゃないか。あんな綺麗なもの」

「…」

「それとも、あのひとのことを、もうあんたは思い出したくもなかったんだ?」

「やめろ…」

「違うよ。あんたはまだ―――」

「やめろと言ってるだろう!」


 ばん、と奴はオレの前に手を振り上げた。


「…殴る?」


 オレは奴をじっと見据えた。それまでに見たことのない程の、凶悪な顔をしていた。

 なのに、伝わってくる気持ちは、―――泣いているかのようだった。奴はやがて手をゆっくりと下ろした。


「殴ら、ないの?」


 そしてゆっくりと、次第に、奴の心も静まって行くのが判った。


「…あんたのこと、聞いてたよ、あのひと。ブランシュさん」


「そうか」

「でも、すごいひとだと、思う。オレ、あのひとの気持ち、まるで判らなかった」

「お前がか?」


 うん、とオレはうなづいた。


「あのひとの心は、すごいぶ厚い雲の様なもので覆われていて、よっぽどのことが無いと、その動きも中ものぞけやしない。…強いひと、なんだね」

「ああ」


 吐き出す様な口調で、奴は言った。


「あいつは、強い女だ」

「でも一瞬だけ、光が射したんだ」

「光?」

「うん。オレが、戦争で施設を焼かれたんだ、って言った時。…戦争で傷つくのは、一番弱い者だ、ってあのひとは、言ってた」


 困惑した様な感覚が、伝わってくる。だから、オレは、奴に変わって、その疑問を口にした。


「…なのにどうして、あのひとは、今の議長と結婚したんだろう?」

「言われなかったか? 断ることはできなかった、って」

「それは言われたよ。だけど」

「だけど?」

「あのひとの感じは…シスターに似てるんだ…」


 何となく、彼女の行動には疑問がある。奴でなくても、オレでもそう思えた。彼女の気持ちは、平和に向かっている。なのにどうして、今の議長―――おそらくは、カストロバーニと癒着しているだろう権力者と、結婚までする気になったのだろう。


「あんたは、どうして彼女をその時に説得できなかったの? 結婚するな、俺と一緒に来いって」


 奴は首を横に振る。


「でもあの肖像画、あのひとなんだろ?」


 奴は顔を上げた。


「すごく綺麗じゃない。あんたの気持ちが、そのまま入ってるんだ。オレはあんたの描く世界が好きだよ。綺麗な、あの風景が」

「あれは…現実の世界じゃないさ。俺が勝手に空想している、『平和』な世界だ。ここにはない、でもそうなって欲しいって、俺が勝手に思っている世界だ」

「そうだよ、オレはだから、その世界が大好きだ。綺麗な世界だ。見てるだけで、楽しくなる。あのひともそう言ってた。何でそういう世界を描くことを、わざわざ、『金のため』とか言うんだよ、あんただって、『抽象画』を描く時より、そっちの方が楽しそうじゃないか」


 すると奴は、ゆっくりと手を解いた。


「…だけどな、シャノ、それだけじゃあ、実際の、現実の平和は手に入らないんだよ」


 実際の、現実の、平和。


「…当時、俺の親父とお袋は、トレモロの採掘現場の研究所に居た。政府の資源開発局に雇われた理学者でな」

「!」

「そこで、『キール』の平和利用法について研究していた。研究熱心で、勝手な親だったからな、俺等には、自由に勉強しろって言って、送金だけして放っておいてくれた。俺等はそれをいいことに、好き勝手に勉強したり活動したりしてたんだ。けど」

「けど?」


 オレは奴の顔をのぞきこんだ。薄暗くて、よく見えない。でも、その気持ちの中には、両親に対する暖かな気持ちが混じっていた。


「ある日、二人が事故に遭った、って知らせが入った。実験中の事故で死んだ、って。だけど違った。弟と二人、遺体を引き取りに行ったんだが、それは渡してもらえなかった。高エネルギーのせいで骨も残らなかったと、俺等は遺留品だけ、まとめて箱に詰められて、さっさと行ってくれとばかりに追い出された」

「ひどい…」

「…いや、それは結構親切な方だったさ」


 奴は皮肉気に笑った。


「向こうの研究員達は、あの二人が消された時、慌てて遺留品をかき集めてくれたんだ。その後にやってくる奴らに取られない様にな」

「ってことは」

「そう、俺の両親は、殺されたんだ。マフィアに」


 オレは息を呑んだ。


「遺留品の中には、俺や弟には、すぐには判らないかもしれないけれど、連中にとってまずいものが入っていた。それを知っていた局員達は、そんな間接的な方法で、俺や弟に、本当のことを教えたんだ」

「でも、何で…」

「平和利用だとか緑化推進なんかに使うより、兵器として売ってしまった方がいい、と考える奴が居たからだろう?」

「それがカストロバーニや…」

「今の議長、だ」

「あのひとは、そのことを知ってる?」

「…」


 ロブは黙った。だがその沈黙の中には、明らかに肯定の意志があった。


「…だったら、あのひとと、どうして」


 奴は、何も言わないで、顔を歪めた。そしてオレの頭をぽんぽん、と叩いた。


「ガキには判らない事情、ってのがあるんだよ」

「オレもうガキじゃないぜ!」

「ガキだよ。夢にうなされて、泣いてるなんていうのはな」


 うっ、とオレは言葉に詰まった。泣いても、いたのか。


「まあいいさ。ガキがガキで居られる世界、っていうのがオレは平和だ、と思うんだよ。…お前みたいのが、ガキで居ても構わない世界ってのがな」

「だからそうガキ扱いするなって!」

「うるさい。ああそれから、肖像画だがな」

 いきなり奴の気持ちの扉がぴしゃん、と閉まった様な気がした。

「お前に任せる」

「…って」

「俺が持っていても、仕方ないだろう?」

「あんたは―――」


 オレはその次の言葉を聞こうとした。

 だが、それを口にすることはできなかった。


 あんたは、あのひとを、まだ、愛してるんだろ?

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