4 恋は遠い何とやら

 洗濯が辛くない、と感じだしたら春になっていた。ロブのところに来てから、もう一年が経っていた。

 夏の頃には、水遊びよろしく、照りつける太陽の下、上半身裸で、すすぎの時には、水を洗濯物に掛けているのか自分に掛けているのか判らないくらいにぴしゃぴしゃと掛けまくって、非常に楽しくできるのだが、冬には辛い。手が凍りそうになる。

 そんな季節がようやく変わろうとしていた。

 オレ達の住んでいたアパートは、屋上が洗濯場になっていた。

 洗濯機を持っている人も居たが、居ないのが大半だった。

 だからオレは、他の部屋に住むおばさんやババア達とよくそこでかち合わせた。

 当初は、不規則な生活をしている画家の所に急に現れたガキ、ということで、怪訝そうな顔をしていた彼女達も、毎日毎日ごしごしと洗濯板と棒せっけんで洗濯をしているオレにだんだん話しかけてくれるようになった。

 まあ奴が「弟」とさりげなく喧伝していたこともあったんだろう。実際奴自身、弟が居たことは居たらしいし…

 とりあえず、オレは専ら彼女達に「大変でしょう」と言われる側だった。

 大変…と言えば大変だったかもしれない。

 実際、来たばかりの頃の洗濯に関しては、本当に大変だった。

 何せ、その頃のシーツやカバーときたらひどいものだった。うげっ、いい加減こいつの臭いが染み込んでいる、と思った。

 いつ洗ったんだろう、って感じの黄ばみ。何としても落としてやろう、とごしごしこすったら、何と、すり切れてしまった。仕方が無いから、乾いてから繕っていたら、奴に感心されてしまった。


「あんたなあ…こんなことくらい誰だってできるだろ」

「や、オレはできねえ」


 そんな堂々と言われたって。

 まあオレにしたところで、施設で覚えたから、なのだが。

 それにしても、この男の生活に関する無関心さというものは何とかして欲しい、というものだった。

 さすがにそれから、替えのシーツも何枚か購入した。

 そしてそれをごしごしと洗い、これだけは借りる脱水機に掛けてから、窓や、屋上中に張り巡らされたロープに掛ける。

 ばたばたと日の光に、シーツとカバーは白くはためく。空の青さが目に染みる。

 乾いたそれをベッドに持って行くと、お日様のにおいがした。

 だけど奴がそれに気付いていたかは、オレにも判らない。何せ奴は、例に漏れず、絵に熱中すると、いつ起きていつ寝るのか訳判らない生活だったのだ。

 そう、部屋の中心は絵だった。家主じゃあない。

 光がいつも均等に入るような位置に、カンバスだの対象にするものだのを置きたいんだ、と言っていた。

 だからオレは、どうせこいつは絵に夢中なんだし、とばかりに、当初はソファの方を示されていた様な気もするが、眠くなると、奴のベッドに勝手に潜り込んでいた。要は早い物勝ちなのだ。弱肉強食なのだ。

 で、朝気が付くと、奴は椅子の上でばてていることもあったし、カウチの上で死んでいることもあった。

 時にはオレの横に潜り込んでも来たけれど、それはごくごく希なことだった。

 でもそんな時、オレは妙にその温みが気持ち良くて、なかなか起きられない自分に驚いた。

 何だってまあ、こんな無防備な、馬鹿面さらして寝てるんだろう、と。

 口なんかぽかんと開けちゃって、よだれなんかもたらしていることもあった。

 よっぽど疲れているのか、オレが横に居ることも、そんな面見られてることも、たぶんこれで、もしオレが顔に落書きでもしても、全然気付かなかったんじゃないか、って思ったくらいだ。

 まあさすがに、家主だからしなかったが。

 ただ一度、起き出そうとした時、ぐいっ、と身体を引き寄せられたことがある。

 何だ何だ、と思いつつ、その力が弱まるまで、驚き焦りつつじっとしていたことがあった。

 何とかそれでも、抜け出すことができたが、きっとこいつには、昔そういうひとが居たんだな、とオレは気付いた。

 だいたいガキの一人や二人、居てもおかしくない年齢なのだ。そういうことが無い方がおかしい。

 ただこいつは、見た感じだけだと年齢が時々判らなくなる。三十代とは言っていたが、絵を描いてる時には二十代後半と言ってもおかしくなかったし、だらけている時には、何だこのおっさん、と四十代にも見えることもあった。

 そう、つまり、絵を描いている時のこの男は、恐ろしく強いエネルギーみたいなものを発していたのだ。

 オレは時々、それにあてられそうになって困った。

 熱気の様な感触に近い。実際に熱があるとかそういうことではないのだが、気が付くと、こっちが熱くなっているような、そんな感じがするのだ。

 しかしその気合い満載の絵に関しては。


「さっぱりわかんねえ」


とオレは良く言ったものだった。


「わかんねえ?」


 奴は出来上がった絵を見せながら、思い切り顔を歪めた。

 オレも思い切り首を縦に振った。


「風景画なら判るけど」

「…やっぱりこっちは駄目か?」


 こいつの気合いの入るのは抽象画の方だった。そしてそれに対して、オレとしては、ばっさりと言い捨てるしかない。さすがにそういう時には、がっくりと奴も肩を落としてしまう。

 だって仕方ない。判らないものは判らないんだ。

 ちなみに、その「抽象画」は、何って言うんだろうか。

 オレからしてみれば、絵の具をぶちまけて筆でベタベタ練り付けただけにしか見えない。

 だいたいその色の調子がひどい。目にちかちかする。こんなのを壁に飾っておこう、という奴の気が知れなかった。


「…じゃあお前、こないだの風景画は良かったのか?」

「少なくとも、目には優しい」


 そうか、と奴はぼそ、とつぶやいた。実際は「気に入ってる」んだが、そのまんま口にするのは何となく、悔しい。

 「緑化地域」で写生した絵を元にしたり、近くの公園の緑や、通りで遊ぶ子供達。


「平和な光景、は注文が多いんだ」


 奴はそう言った。

 だからそれが、奴にとっての「平和な光景」なんだろう、とオレは思った。

 けど「平和」って何だろう。オレは時々思う。

 この惑星ソグレヤとファルハイトのある星系は、確かに今のところ小康状態にある。だけど、全銀河系的に見ると、やっぱり戦争中なのだ。

 戦争の無い状態を知っている奴なんて居るんだろうか?

 貧乏なくせに、ちゃんと毎日取っている新聞を見ても、遠くの星域のニュースが入ってくる。

 何処かの惑星なんか、丸ごと焼かれたとか、言ってるとこもある。


「丸ごとやってしまうなんて、…なあ」

「あん?」


 その頃には結構、オレも新聞を見る様になっていた。

 部屋の中が判りやすく整頓され、毎日の仕事が楽になって行けば行くだけ、暇な時間ができる。

 奴がスケッチで居ない時なんか、それこそどうしていいのか判らないくらいだ。

 外に出た所で、同年代で、格別遊ぶ様な奴も居ないし、…オレは、前の街での生活をもう一度繰り返したくはなかった。

 相変わらず、マフィア達は、無意味な抗争を続けている。もうさすがに、関わりたくない。

 そんな訳で、新聞を拾い読みすることは、オレのいい暇つぶしになっていた。

 正直、ここは居心地が良いのだ。この男の側は、オレを「クロ」ではなく「シャノ」と呼ぶこの男の側で暮らすことは。

 それだけに、オレは時々、不安になった。

 いつまで、ここにオレは居られるのだろう、と。

 確かにここでオレは「弟」として紹介されている。だけどそれはあくまで、この画家の気まぐれの結果だ。

 ある日いきなり、付き合ってる女性とか連れてくるかもしれない。


「今日からこのひとと暮らすし、家事もやってくれるから、お前はもうここに居る必要は無い」


 そんなこと言われたら?

 想像するだけで、怖いのに、そうしてしまう。

 でもそこで、下手にご機嫌とりなんかしようとすると、この画家は、変な所で鋭いので、何やってるんだ、という顔になるのだ。

 だからオレは、せめて、奴が話す言葉を理解しようとつとめた。とりあえずは、新聞の話はできるくらいに。


「…何処の惑星が焼かれたって?」

「オクラナ、ってあるけど」

「ああ、あそこか」

「知ってるのか?」

「上等の軍旗作りで有名なところだな。一体何でまた。やったのは何処だって?」

「えーと」


 オレはでかい見出しの下の文字を追う。


「あ、また『天使種』の軍だ」

「…またか」


 絵を描いていた手が、止まる。

 まだスケッチを下絵にしている段階だったので、話しかけても良かった。

 これが絵の具を塗り込める段階になると、こっちが何言っても聞こえないことも多い。


「何かさ、やり方が凄いよね、あそこって。…丸ごとかあ」

「ああそれは、たぶんまた、報復処置だろうな。見せしめもあるだろうし」

「どういうこと?」


 問いかけると、説明してくれる気になったのか、奴はコーヒーを淹れてくれ、とオレに頼んだ。

 言われるままに、赤のほうろうのポットにコーヒーを淹れると、奴は「小休止!」と言ってソファに身体を投げ出した。結構肩や首が凝っていたようで、何度もぐりぐりと回している。

 やがて絵の具と油のにおいの中に、コーヒーの匂いが混ざる。ほい、とオレはマグカップを奴に渡した。


「報復措置、の意味は判るだろ?」

「うん。要するに復讐だろ?」

「やや違うがな」


 少し薄目のコーヒーに奴は砂糖だけ入れて呑む。オレは誰が何と言おうと、濃いめに入れた奴をミルクで割る。


「でもオクラナって惑星は、そんなひどいことをしたの?」

「や、そんな話は聞いていない。少なくとも、ここの新聞に載る程度の反撃ができる程の惑星じゃない。だいたいあの星は、貧乏だ」


 オレは眉を寄せる。


「貧乏だと、反撃はできないのか?」

「だってお前、武器が買えないと、戦争はできないんだぜ? だから兵器産業が儲かるんだろ」


 確かに。うんうん、とオレはうなづいた。


「そういう意味で、オクラナって惑星の政府には、あの『天使種』の軍勢に戦争仕掛けるだけの予算も国力も無い」

「じゃあ何で? 言いがかりじゃん、それじゃあ報復とか何とか言わずに、はじめっから攻撃して占領してしまえばいいじゃん」

「ところが向こうから言わせると、言いがかりではないことがあるんだな、これが」


 ますます判らなくなって、オレは首をひねった。ロブは伸ばした腕をソファの後ろに回す。


「ま、俺も最近気にするようになったんだけどな、あの連中は、人口が少ない、って前俺言っただろう?」

「うん」

「だから、あそこでは、同胞一人一人が非常に大切なんだよ」

「それは…何となく、判る」


 それでその一人一人が一騎当千の兵士なんだ、と。

 ここに居る間に、オレにもそんな知識がだんだんついてきた。無論、その程度だけど。


「だから、さ。もしそこに非武装状態の同胞が紛れ込んでいて、それを、大局も読めない連中が、感情的になってなぶり殺してしまったりしたら、どうする?」

「だけど『天使種』は撃たれても切られても死なないって」

「そうは言われているけど、…さすがに首とか切られれば死ぬんじゃないか?」


 う、とオレは口ごもった。そうかもしれない。


「それとか、爆弾抱え込まされて、一瞬にばらばらになったら、死なないも何もないと思わないか?」

「…うーん」


 さすがに想像するのもグロい光景だ。だけどそれなら、可能かもしれない。


「ま、これ以上はコーヒーがまずくなるから止そうぜ。ともかく、そういう奴がオクラナにちょうど居たんだろうな。何で判ったかは判らないけれど…」


 ふう、と奴はまだ熱いらしく、コーヒーを吹き冷ました。


「…怖いね」

「そう、怖いんだよ。ああいう連中は。だから強い。…だから、ああいうところには、用心に用心を重ねなくちゃいけないのさ」


 ふうん、とオレはうなづいた。


「お前も、また戦争状態になるのは嫌だろ?」

「そりゃそうだよ!」


 ふっと、あの空襲の記憶が浮かび上がる。一瞬の悪意。凍り付く自分。

 ―――シスターの声。


「…おい? 何だよ、お前泣いてるじゃないか」

「え?」


 ほい、と奴はタオルを投げた。


「…ごめん、条件反射。たぶん、また戦争が起きたら、とか考えたのかもしれない」

「条件反射、か。また難しい言葉も覚えたもんだな」

「新聞ちゃんと読んでるからね。…駄目なんだよ、オレ。空襲の時のこと、思い出すと」


 逃げなさい、と彼女は。


「でも過去だ」

「うん、それは判ってる」

「お前は、今生きてるんだぜ? 引きずられるなよ?」


 判ってる、とオレは黙ってうなづいた。だけどタオルにつけた目からは涙が止まらない。判ってるんだ。だけどあのひとに対して、涙が出るうちは。


「まあいいけどな」


 ぽん、と奴はオレの肩を叩く。


「お前も変な奴だよな。人の感情には気がつくのに、自分の感情には鈍感だ」

「鈍感で悪かったな」

「ばーか、別にけなしちゃいねえよ。人間なんだから、それでいいんだろ」

「人間だから?」


 バケモノじゃなく?


「人間だろう?」

「だってオレ、ケガしてもすぐに治るぜ?」

「で?」

「あんたの気持ちも気付いてしまうぜ?」

「それがどうした?」

「でもオレが人間だ、って言う?」

「おうそうだ。お前、自分がそれ以外の何だって言うんだよ」


 そう言ってまたぽんぽん、と奴は肩を叩いた。そんな動作の一つ一つが、オレをほっとさせる。

 優しい日々。

 いつかはオレも忘れてしまうかもしれない。その方がいいのだろう。いつかはそうするだろう。

 だからこそ、今だけは。

 奴はもう一杯、とコーヒーのポットを持って立ち上がった。温め直す気なのだろう。


「おーいシャノ、絵を持ってくけど、お前一緒に来ないか?」


 オレが窓からタオルを一気に干していると、奴は市場に行くのと同じ口調でそう言った。


「画廊?」

「そう。お前一度行ってみたいって言っていなかったっけ?」


 そう言えば言った気がする。

 市場にはよく一緒に行ったが、まだ奴の絵を買い取ってくれるという奇特な画廊には行ったことが無かった。

 いやそんなことを言ってはいけない。おかげ様で、少なくとも奴とオレは、こうやって生活していけるのだ。

 見ると、奴の手には梱包された三枚の絵を入れたでかい帆布バッグが既にあった。


「…あれあんた、三枚も描いてたっけ」

「前に描いてた奴もあっただろ」


 そうだったかなあ、とオレは首をひねる。

 この部屋の中は、だいたいこれでもかとばかりにオレは把握していた。

 何せこの男は、空間利用ってことをまるでしなかったから、上やら下やらのクローゼットや戸棚には、すき間が有り余っている。

 それでも絵ばかりは、外でほこりや光が当たるのを恐れたのか、クローゼットの中にしまいこんでいた。


「じゃあ、あの肖像画かなあ?」

「肖像画?」


 ふと、心臓が跳ねた。

 ん? でもそれはオレの感覚じゃない。奴の心臓が、跳ねたのだ。

 何か、あるのだろうか。何気ないふりをして、オレは聞いてみる。


「ほら、クローゼットの上の段に、一枚だけ寝かせた奴があったじゃん。ちょっと小さめの」

「ああ…あれは違う」

「違うのかよ」


 女性、だった。綺麗な。

 で、どうも動揺している。ざわざわしている奴の気持ちが、珍しく伝わってきた。


「あれは、学生の頃の奴だ」

「へえ…珍しいね」

「あれだけは、上手い出来だったから、残してあるんだ」


 なるほど、とオレはうなづいてみせる。

 それだけではない、と奴から発している「ざわざわ」は言っているのだけど。


「行くのか? 行かないのか?」

「行く行く。まだ掃除残ってるけど」

「後でいい。絵がちゃんと売れたら、久しぶりに外で食おうぜ」


 やった、とオレは手にしていたブラシを放り投げた。


 シレジエのメインストリートはレイン通りと言う。

 そこに大きな百貨店だの、最新モードの服屋だの、レストランだの本屋だの、目移りする様なものが並んでいる。

 いつも行く市場のあるあたりとは、やっぱりまるで雰囲気が違う。

 やがて目の前には、赤レンガの壁と白い柱や窓枠のコントラストが目に激しい、結構広めの三階建ての建物が現れた。

 ちょっとした銀行、と言われてもオレは見分けができないだろう。

 それに。


「…おいロブ、何か、でかい車が止まってるよ」


 そう、あの時の車を思い出す。奴と最初に会った日…


「車?」


 ん? 彼の気配が変わったのにオレは気付いた。視線は、その車に注がれている。


「どしたの?」


 つとめてさりげなくオレは問いかける。いや、と笑うと、奴は入ろう、とオレを押し出した。

 自動じゃない。重い扉を開けると、中には高い天井が広がっていた。

 ああ、三階分が吹き抜けになっているんだ、とオレはその時ようやく気付いた。


「シャノお前、ちょっとそっちで待ってろ」


 ロブはそう言って、入り口近くのソファを指さした。

 奴は受付で何か話しているが、内容は聞こえて来ない。まあだいたい聞こえる位置でも、きっと耳に入らなかったろう。

 オレはこの見たことのない空間に何となく、圧倒され、呆けたように眺め回していた。


「どうしたの? この建物が気に入った?」


 ふと、優しい、低めの声が耳に飛び込んできた。


「え」


 オレは思わず声の方をぱっ、と向いた。何となく、いい香りのする女性が、隣に腰を下ろして来たのだ。


「や、あの…気に入ったとかよく判らないけど、何か、すごいなあ、って」

「まあ、こういうつくりの所はそうそうないわね」


 くす、と彼女は笑う。何か馬鹿面を見られた様な気がして、まともに顔が上げられない。


「…奥様」

「ああちょっとお待ちなさい。もう少し、時間はあるでしょう?」


 奥様、か。

 やっぱりいいところの人なんだろうな。斜め前には、ボディガードらしい、黒服のでかい男が居た。


「…車を回す準備はさせておきなさい」

「は」


 そして少し離れていなさい、という手つきをした。ボディガードは彼女の視界に入らない位置まで移動したらしい。

 と、不意に彼女はオレの方を向いた。あれ?


「あら、どうしたの? びっくり目しちゃって」


 びっくり目って。いや、だって。


「…あの…どっかでお会いしたことないですか?」

「え?」


 ほほほ、と彼女は口に手を当てて笑った。


「まあ、そんな古典的な口説き文句、子供でも最近は使わないわよ」

「いや、そうじゃなくて…」


 かあっ、とオレは顔が赤くなるのを感じた。

 ただでさえ、彼女の香りに混じって、女性特有のふんわりとした「感じ」にやられているというのに、追い打ちをかけられては。

 でも本当に、何か、この女性、見覚えがあって。何だろう。

 歳の頃は…二十代じゃない。三十代。たぶん前半。体つきがそう言ってる。それに服も、落ち着いた感じだし…仕立てもいい。ボディガードが居て車…

 ってことは、あの車の持ち主! …げ、すげえ金持ちだ。

 よく見ると、耳のピアス…結構でかいサファイアだ。

 その間にも、彼女のふわふわした、春の陽炎のような雰囲気が、オレの頭をくらくらさせる。


「でもまあ、君、可愛いから許してあげるわ」


 そう言って、彼女はくしゃくしゃ、とオレの頭を撫でた。そういう子供扱いは無いだろう、と思ったが、何故かそれはそう悪い気持ちではなかった。


「ここはね、昔は銀行だったの」

「え、やっぱり」

「そう、何かこの吹き抜けが、そんな感じでしょ」


 じゃあオレのカンもそう外れていない、ってことだ。


「でも銀行ってのは、場所によって当たりはずれがあるらしくてね、私もこの場所は気に入っていたんだけど、父が手放してしまったの」

「え…ってことは、ここ、あなたの」

「むかぁし、ね。父の経営していた銀行だったの。でも別に倒産したとかじゃないのよ。単に、手を切っただけ」


 そういうことを、そういう表情で言うのか。少しだけオレはびっくりする。相変わらず彼女の表情は、にこにこと柔らかな笑みを浮かべていたし、漂ってくる気配は穏やかだ。


「…あの、でも今はここは画廊なのでしょう?」

「ええ。ちょっと肖像画を頼んで」

「へえ…」

「結婚十周年ってことでね。旦那様が描かせなさいって言うのよ。そんな、手間もかかるし、費用もかかるし、って言ったのだけどね」

「旦那さんがわざわざ…いいひとなんですね」

「いいひとなのかはどうか」


 くす、とまた彼女は笑う。どうにも読めない人だ。

 しかしやっぱり何処かで見たことが…


「おいシャノ、行くぞ」

「あ」


 ロブの声がしたので、オレは立ち上がった。と。

 その視線が、オレの方を向いていない。奴の視線は、隣に居た女性に向けられていた。


 ずきん。


 …何だろうこれは。

 オレは思わず、胸に手を当てた。

 胸が、痛い。

 小さな針を無数に突き刺されたかのような感覚が、その時オレの胸に、腕に、首筋に、走った。

 いきなり視界ががくん、と下がる。一体どうしたっていうんだ。


「…あ!? おいシャノ、大丈夫か?」


 慌てて奴が飛んでくる気配がする。

 その時ようやく、オレは自分がソファからずり落ち、床にべったりとひざを落としてしまっていること、呼吸困難すら起こしていたことに気付いた。


「だ、だいじょうぶ…」

「だいじょうぶじゃねえよ、お前、真っ青だ」


 そんなに?

 ゆっくりと顔を上げる。あ、駄目だ。頭がくらくらする。

 すっ、と冷たいものが額に当てられた。


「大丈夫? 横になった方がいいわ」


 さっきの女性の声がした。ロブはオレをもう一度ソファに掛けさせる。

 そっと額に手を当てると、それはハンカチの様だった。近くの水道でわざわざ濡らしてくれたのだろう。


「もう少し、休んでいるといいわ」


 ふっと、とハンカチが裏返される。オレはその白い手に、妙に安心するものを感じていた。

 ああ、この感じは。

 似ている、と思った。そう、あれは、シスター・フランシスの。

 ロブの放つ優しさとは、また何か違った…

 だからオレの口からも、ひどく素直にこんな言葉が出たのだ。


「…ありがとう」


 どういたしまして、と彼女は答えた。そしてオレの上では、こんな会話が展開していた。


「元気そうね」

「そちらこそ」

「絵を見たわ」

「こっちこそ。ダンナはいい羽振りの様だな」

「ええ、忙しいみたいね」


 …知り合い…だったのか?

 起きあがって、問いただしたかった。

 だがオレは、寝そべったソファから身体を起こせなかった。この二人の間の空気が重くて重くて、オレの身体をきりきりと締め付けるかの様だった。


「今日はまた何で、こんな所に」

「あら、画廊に絵を頼みに来て、何が悪くて?」

「全くだ」


 はは、とロブは軽く笑い声を立てた。だけどその声はまるで笑っていない。


「あなたこそ、いつまでも売れない絵ばかり描いているのではないの?」

「大きなお世話だ」

「この惑星を離れた方が、あなたにはいい絵の環境があるのではないかしら?」

「あいにく、そんな金は今の俺には無くてね」

「そう」


 はああ、とオレは大きくため息をついた。この空気の中に居るのは耐えられない、と思った。


「奥様」


 ボディガードが声を掛けた。そう言えば車の用意を、と言ってから結構時間が経っている。


「そうね、そろそろ行かなくては。私忙しいの。もう会うこともないでしょうね」

「そうだな」


 お大事に、と彼女はオレの額に軽く手を触れた。

 あ、とオレは身体を起こそうとしたが、…やっぱりまだ駄目だった。くらくら、と眩暈がする。


「おい」


 慌ててロブが支えてくれる。

 その拍子に、額に置かれていたハンカチがふっ、と落ちた。


「あ…」


 車の音がした。彼女の気配が遠ざかって行く。オレはそのハンカチを拾って、ポケットに入れようとした。


「…捨てろ、そんなもの」


 え、と思わずオレは問い返した。重い気配はまだ続いていた。


「立てないか?」

「や、今はもう…」

「じゃ、行くぞ」


 そう言うと、ロブは背を向けた。

 オレはその隙をついて、彼女のハンカチをポケットに押し込んだ。薄手だけ

ど、濡れたままなので、少し何だったが…


「メシ食ってこうと思ったけど、お前、大丈夫か?」

「…や、ちょっとしんどい」

「そうだな、まだ顔色が悪い。…まあいい、何か買って家で食おうや」


 うん、とオレは小さな子供の様にうなづいた。ちくちく、とまだ何か微かに気配が残っている。それが奴のものであることはすぐに判った。


 アパートに帰る途中の店で、ピザを三人前テイクアウトして帰ることにした。食えなければ自分が食う、と奴はそう言って、デザートのアイスクリームまでつけた。


「絵、さあ、そんな高く売れた訳?」

「や、いつもの通りだね」

「それなのに、いい訳? 何かアイスクリームまで」

「お前なあ、アイスくらいで俺の財布が空になると思っていないか?」

「いやそこまでは」


 と言うか、何か変に優しいので不気味なのだ。

 実際、アパートの三階まで上るのにふうふう言っているオレに、肩まで貸してくれていた。

 そう言えば、と最初に会った頃を思い出す。あの頃よりは身長差は少なくなっていた。

 それでも一年少し経てば、オレだって少しは成長してるってことか。

 部屋にたどりつくと、もうソファに突進状態だった。


「食えるか?」

「そっちは大丈夫。何か頭の方にきてて…」

「そうか」

「…あんたさあ、あのひとと、仲悪いの?」


 がん、と流しのステンレスが大きな音を立てた。フォークか何か落としたのだろう。


「何でそう思う?」

「んー…当てられた」

「当てられた?」

「あんたと、あのひとの間の空気に」


 ああ、と奴は舌打ちをした。


「それは…すまなかったな」

「いや別に、それはいいけど…」


 オレが感じ取ってしまう、ということをロブは知っている。


「そんなに、ひどかったか?」

「って言うか、オレが今まで感じたことのない感覚だったから…」


 そう、確かにそうだった。

 例えばオレが、オレ個人に向けられる悪意とかだったら、それはもう慣れている。

 どんなにひどい敵意だろうが、嫌悪感だろうが、それはオレにはわかりやすいものだった。

 だけど。


「何だろ…何か、単に嫌いあってる、って感じじゃなくてさ、ちょっとオレ、混乱しちゃったらしい」

「なるほどな」


 ゴミ箱テーブルの上に、奴はピザの箱を置く。


「あ、紅茶でも」

「いい、俺が淹れる」

「でも」

「もう少し、じっとしてろ」


 そう言われるなら。

 確かにまだ眩暈の様なものは続いていたのだ。眩暈はたぶん、ロブのせいでもあるのかもしれなかった。

 彼自身がまだ、何処か混乱した感情を持っているのかもしれない、とオレはその時思ったのだ。


「ほらよ、紅茶だな」

「うん」


 オレはようやく身体を起こした。目の前のピザを見たら、それなりに食欲も戻ってくる。それにアイスクリームはオレの好きなキャラメルナッツ入りだ。


「…学生の頃の、友達だ」

「学生の頃の?」


 座りながら、不意に奴は切り出した。


「遠い昔、じゃない?」

「遠い昔さ」


 普段、歳のことを言われると怒るくせに。


「十年以上前のことだ。遠い昔だろうさ」

「ふうん。じゃああのひとも、絵を?」

「いや、あの女は…」


 シーフードがてんこ盛りのピザに口をつけながら、奴は言葉を捜す。


「…お前、最近新聞読んでいるから、星間外交委員長の名くらいは知ってるよな?」

「…えーと、確か、アルヴィン・ラッセルとか…」

「あいつはそいつの娘でな、マリ・ブランシュって言うんだ」

「え」


 星間外交委員長の…ってことは。


「あの、もしかして、ラッセル財閥の」

「そうだ。確か次女だ、と言っていたな。今は結婚して、パースフル夫人だ」

「ん?」


 また何処かで聞いた名前だった。


「パースフルって…まさか」

「おお、だんだん覚えてきたじゃないか。このソグレヤの最高評議会議長だよ」

「ええーっ、でも議長ってもう五十越えたじーさんじゃ」

「…まあ確かにお前からみたら下手するとじーさんだろなあ…」


 呆れた様に奴はうなづいた。


「だけどな、名家の結婚ってのは、そういうことも多いんだぜ。議長はずっと結婚せずに、四十越えるまで政務に取り組んできたんだが、学校を卒業したあいつが社交界にデビューした時に、見初めたんだと。…まあどっちかというと、親父のラッセルの歳に近い訳だが」

「結婚で、つながりが深くなる」

「そう、お前もだんだん賢くなってきたな」


 ははは、とロブはピザに食いつきながら笑った。だけど目は笑っていない。


「…綺麗なひとだよね、マリ・ブランシュさん」


 それはオレの彼女に対する素直な感想でもあった。


「…まあそれだけじゃあ、なかったがな」

「そうなのか?」

「ああ。あれは棘を隠した薔薇の様なものさ」

「気障…」


 思わずつぶやいたら、ぱん、と軽く頭をはたかれた。ようやく少しいつもの調子が戻ってきたらしい。


「あいつは絵の専攻じゃない。音楽だったんだ。芸術系の大学で俺は絵を描いていて、あいつはピアノを弾いていた。だがまあ、ピアノと言っても、そっちの方にはそんなに興味は無かったらしいな」

「…変なの。せっかく学校に行ったのに?」

「まあ『名家』だからなあ。女には下手に頭使わせるよりも、音楽をやらせて綺麗な花のままでいさせよう、と思ったんじゃねえかな」

「そこで知り合ったの?」

「まあな」

「でも」

「ま、あの女のことはどうでもいいさ。この先会うことなんてまずないだろうよ。それよりお前全然食ってねえじゃないか。ピザが駄目ならアイスだけでも食え」

「食ってるよ」

「そおかぁ?」


 オレは苦笑いすると、少し端が溶けかかったアイスにスプーンを入れた。

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