3 天使の力といわれても
最初の記憶は、デビアの宙港の鉄塔の上だった。
七年前の夜だった。だからたぶん、七つかそこらだろう。
星が綺麗な夜だった。
足元には、デビアの繁華街の光が、ひどく綺麗だった。
まだその頃は、街の真ん中の、ばかでかいホテルが建てられる前だから、鉄塔が一番高い所だったんだろう。真っ直ぐ前を見たオレの視線を遮るものは何も無かった。
足をぶらぶらさせて、空の星と地上の星の両方が、朝の光の中に消えて行くまでずっとずっと、見ていた。
寒かったのかもしれないけれど、あまりその記憶は無い。
明けた時に見えたのは、また違った光景だった。遠くには、朝焼けに染まる砂漠。
綺麗だった。風が心地よかった。
ホントにガキであるというのは凄いことだ、と思う。今だったらどうやって降りたらいいのか、とか色々考えて頭がパニックを起こすかもしれない。
ただその時は何も考えず、ただもう、遠くの光景に見とれていた気がする。
だけど、時間が経つにつれ、足元から何か重い、がちゃがちゃした空気が押し寄せて来た。
人の騒ぎ立てる声、「救助」しようとするパトロール・カーや消防車、宙港ビルを駆け上がってくる人々の足音、そんなものの中に、オレはきもちわるさを覚えた。
判るか? 何って言うだろう。頭の後ろから、首の後ろを通って、背中や二の腕の辺りまで、ざわざわと、細かい虫がはい回っているような気持ちが、唐突にやって来たんだ。
遠い下の方からは、足首をぐっ、とさすってくるような、掴まれるような、そんな感じもした。
だからオレはもがいた。
もがいた拍子に、座っていた場所からぐらり、とバランスを崩した。
後ろからやって来た奴らは慌てた。慌ててオレを掴まえた。その瞬間、オレは背筋がぞっとした。その掴まれた手から感じられたのは、痛みにも似た怒りだったのだ。
さしづめこんな言葉で表されるだろうか。
―――何やってんだこのガキ手こずらせやがって―――
ざくざくした感じが、突き刺さってきた。
オレがたまたまそういう奴に当たってしまったのが不運って言えば不運なんだけど。
中には居たかもしれない。とにかく助かって良かった、って全身で安堵してくれる奴も。
ただ、その時のオレには、たまたま当たらなかった。それだけのことだ。
一応、行方不明になっている子供は居ないか、とか、問い合わせはしたらしい。だが結局、何処の誰も引き取りに来てくれなかったオレは、施設送りになった。
当時はまだ戦争中だったから、引き取り手のない子供はその辺にごろごろして居た。施設送りになることも珍しくはなかった。
施設と言っても色々ある。
ぴかぴかの建物の中で、すくすくと育てられる「特別な」子供達のものもあれば、政府からぎりぎりの援助をもらっているだけの寄せ集めの所もある。
オレは別に「特別な」ガキには見えなかったらしいので、送られたのは、デビアの外れにぽつんと立っている、小さな教会だった。
ガキの数も多くない。出入りは時々あったが、まあ二十人そこそこだった。そこにシスターが三人。それだけだ。
ただオレにしてみれば、ひどくそこは「うるさい」所だったのだ。
何って言うんだろう? 人の気配がオレには感じられるのだ。
無論、誰にだってそういうものは少しはある、という。だけどその場合、だいたい意識的なものだ。何かを感じ取ろうとした時に、気持ちが敏感になってしまうのだろう。
だけどオレのはそういうのではない。気配の方が、勝手にオレの方にやって来てしまうのだ。
たとえば、後ろから近づいてくる奴の気配。
オレは背中をだんだん押される様な感じが「そのまま」した。
後ろを通り過ぎる時、通り過ぎる動きが、そのまま背中や腕を刺激した。そしてそのたび、オレはびく、と身体を動かした。
四六時中、くすぐられているようなもんだ、って言えば判るだろうか?
だからオレはまずとにかく、誰かに背中を向けることを嫌がった。嫌だろう? いつもいつもくすぐられるかもしれない、って考えるのは。
自然、いつも相手から後ずさりしている様な格好になる。
そうすると、今度はそれを見た相手が、怖い顔でにらむのだ。まあそりゃそうだろう。もしオレがそんなことされていたら、オレだってそんな奴、嫌いになる。
それにガキは単純で、そして残酷だ。
後になれば、それがオレに対する反感だ、と言葉で説明できるけれど、その時のオレにそんなこと判る訳がない。
ただそこにあったのは、何か知らないけれど苛立っている、向こうのもやもやとした「重い感じ」だった。オレに向けて、直接放つ、確実な嫌悪感。
そうしたら、背中を向けない代わりに、今度は胸がひどく押しつぶされるような感じがした。
きゅうっ、と締め付けられる様な感じがした。
息が苦しかった。本当に苦しくて、その場に座り込むと、回りの連中は、ここぞとばかりに、オレの後ろに回って、何やってるんだこいつ、とげらげら笑った。
背中やケツを蹴る奴も居た。立ち上がるオレを待ちかまえた様にゲンコツを用意してる奴もいた。
息ができない、とその時オレは本気で思った。
取り囲まれた連中の、単純で素直な悪意って奴が、オレを取り囲んで締め上げようとしていた。
だからオレは誰にともなく、心の中で叫んでいた。
助けて!
でも誰も、助けては、くれなかった。
それはそうだ。言葉にしない声なんて、「普通は」判らないのだ。ここに居る誰も、オレのように、自分に向けられる感情をそのまま皮膚で受け取る奴はいないのだ、と。
それが「普通」なのだ、と。
だから、その「普通」のフリをしなくてはいけないんだ、と。
オレがそれに気付くのに、ずいぶんかかったのだ。
それを教えてくれたのは、一つの事件だった。
その教会には三人のシスターが居た。
その中で、一番年長の、院長格の彼女はシスター・フランシスという名だった。
彼女には、不思議なくらい、他の奴ら―――若い二人のシスターも入れた、誰もがオレに抱く悪意が存在しなかった。
彼女の放つ気配は、ふんわりとして、暖かだったのだ。あれはそう、一度だけ「特別なご褒美」で都市から「招待」された、ホテルで眠ったベッドの、ふわふわとした羽根布団の、あの心地よさにも似ていた。
他のシスター達は違った。同じ格好はしていても、オレのことを気持ち悪がっているのは、露骨に判った。そして懐かない子供に対して、いくら女性だからって、皆が皆母性を持てるって訳じゃないだろう。
表面上は「公平に」「親切に」しても、その気配は、結局オレを仲間外れにする連中と同じものだったのだ。
だから余計に、オレはシスター・フランシスにばかり懐いた。懐きすぎて、他の連中に、疑われない様に気をつかうくらいに、彼女が好きだったのだ。
ところがある日、その彼女が大事にしていた金時計が無くなった。
何でも、亡くなった先代のシスターから受け継いだ、大事なものなのだ、という。
「誰か心当たりは無い?」
と彼女は皆を礼拝堂に集めて言った。
無論、皆黙り込んだ。彼女も別に言わせるつもりはないのだろう。彼女自身で、その時の皆の反応を見るつもりだったに違いない。
だけどそんな目論見など判らない当時のオレだ。つい「あ」と小さな声が漏れてしまった。
皆の視線がオレに集中した。困った様な顔で、シスター・フランシスはオレの方に近づいた。
「どうしたの?」
「あ、あの…」
すぐ近くから、緊張した気配が伝わってきたのだ。だからつい、それを口にしてしまった。
ぱっ、と斜め前に居た、背の高い、確か歳も三つばかり上の、Jと呼ばれている奴が、オレの方へさりげなく顔を向けた。
言ってはいけない。言ったら。
だけどシスターの優しい目が。
オレは消えそうな声でつぶやいた。
「Jが…」
シスターにだけ聞こえればいい、と思った。だがどうしてこういう時、人は地獄耳になってしまうんだろう。
「…てめ、オレが何だと!」
Jはシスターを押しのけ、ぐい、とオレの襟髪を掴んだ。
絡む視線。あ、という声がまたオレから漏れた。
その時、奴の噛みつく様な感情と共に、一つの映像がくっきりと見えたからだ。
「おい何か、言ってみろ!」
「やめなさい!」
シスターが止めにかかる。オレは彼女の気配にふっと気がゆるみ、ついこう口にしてしまった。
「…Jの…枕の中に…」
次の瞬間、オレは奴に思い切り窓へ向かって突き飛ばされていた。
がちゃん、と音が響き、きらきらとオレの目の前に、光のつぶの様にガラスの欠片が降ってきた。
「クロ!」
「こんのバカ! 何でたらめ言ってんだ!」
シスターはオレに駆け寄り、Jはそのまま礼拝堂から出て行った。
「…皆もいいです。お戻りなさい」
ため息と共に、彼女の中から、少しばかりちくちくとするものが伝わってきた。
「…ごめんなさい」
「クロが謝ることはないのよ。…後で彼には聞いてみましょうね。それより傷の手当をしなくては」
「あ…別に」
「え?」
「傷なんて…大丈夫だから…」
何を言っているの、と彼女は自室へとオレを連れて行った。
実際確かに、傷があってしかるべき状況だったのだ。あーあ、と言いながら後で二人の若いシスター達が、ガラスの破片の後片付けだけでなく、床に血が染み込んで大変だった、とか言っていたのだから。
だけど。
「…ほら、見せてごらんなさい」
「本当に…」
「何言ってるんですか、血が出てるでしょう」
「血はもう、止まってるから…」
「それでも」
彼女はてきぱきと消毒薬を出し、コットンに含ませた。
「ねえ、本当に水で流せば大丈夫だから」
「ちょっとお黙りなさい」
そう言いながら、彼女は椅子を回し、オレに背中を無理矢理向けさせた。そしてそうっと血塗れになった服をはぐ。季節は夏に近付いていたのか、薄いシャツ一枚だったので、余計ひどく見えたのかもしれない。
「…え」
ぱらぱら、とシャツと一緒にガラスの破片は落ちる。だが。
「ね?」
オレはちら、と首だけ彼女の方を向こうとした。ピンセットでコットンを持つ彼女の指が、白くなっている。
「傷、大丈夫だろ?」
確かにその時、もうオレ自身、痛みは殆ど消えていたのだ。一番大きな傷が、首の後ろに出来ていた様な気はする。まだ痛みが残っていたのはそこだけだった。
彼女は黙って、それでも血がまだついているだろう、背中をアルコールでぬぐった。捨てられたコットンを横目で見ると、真っ赤になっている。それを彼女は何度か繰り返していた。
「…大丈夫じゃ、ない? シスター・フランシス…」
「大丈夫よ。大丈夫…」
「…気持ち悪いの?」
「え? いいえ、驚いただけよ」
「驚いた? でも、シスターの気持ちが、ごちゃごちゃしてる」
「私の?」
オレは黙ってうなづいた。ああ、と彼女はまたため息をつき、ちくちくとしたものが伝わってきた。
「…苦しいの? シスター」
「苦しい? いいえ、違うわ。ちょっと…いえ、滅茶苦茶混乱しているのね、きっと私」
彼女はそう言うと、ふふ、と笑った。そしてひんやりとしたアルコールで、最後に首の後ろの傷を拭うと、そこに大きなばんそうこうをぱん、と貼った。
「はい終わり」
そう言って、彼女はまたくるり、と椅子を回した。
「何でばんそうこう? 大事なものでしょ?」
オレはその感触を確かめながら問いかけた。すると彼女は立ち上がり、ふっとオレを抱きしめた。
「いいから、貼っておきなさい」
「何で…」
「こんなこと、今まで良くあったの?」
「よく?」
ケガをしたことかな、とオレは思ってうなづいた。
オレが皆から苛められていたことは、彼女も良く知っていたはずだ。それに彼女が心を痛めていたことも、オレは知っていた。だけどどうにもならないことも。
「…そうよね。あなたに今までケガの一つもないことの方がおかしいくらいだったわ。気付かなくて、ごめんなさいね」
「どうしてシスターが、謝るの?」
「ねえクロ、…私もだけど、他のどんな子も…どんな人も、傷がこんな風に早く治ったりはしないのよ」
「え?」
「何のために、こんな救急箱があると、思っていたの?」
そう言えば、そうだ。
「それにさっき、あなたは私の心がごちゃごちゃしていると言ったわね」
「…うん」
怒られるのだろうか、とオレは少し小声になった。
「普通のひとは、自分以外の心を感じ取ることなんて、できないのよ」
「…」
「そうだったのね、それであなた、あんなにずっと、びくびくしていたのね。可哀想に」
ぎゅっ、と彼女がオレを抱く力が強まった。
ああ心地よい。オレは目を閉じた。羽根布団どころじゃあない。大きな鳥に、そのまま包み込まれている様な気持ちがした。
「気付かなかったの? 今まで」
「何となく…だけど、誰にも聞けなかったから」
「そうよね。…聞ける子達じゃあないわね」
また軽く、ちくちくと痛みが走った。オレは彼女の手をそっと押し出した。
「大丈夫だよシスター、オレは…」
「クロ…」
「だってどうしようも、ないんでしょ」
そうよね、と彼女はまたため息をついた。
「ねえでもクロ、それは神様があなたに与えてくれた、天使の力の様なものだ、と思えない?」
「天使の力?」
「ええそう。確かに今は、あなたはそれを持て余しているかもしれないけれど、いつか、きっとそれはあなたを救う力になるかもしれないわ」
「オレを?」
「天使様は、人をお救いになるために、力をお使いになるのよ。もしかしたら、あなたはその力をちょっとだけ分け与えられて生まれてきたのかもしれないのね」
そうだろうか、とオレは思った。そうなのかもしれない、と思った。思おうとした。
何より、シスターがそうオレに言ってくれている、その心は、いつもの通り、いや、いつも以上に優しいものだったのだから。
「このばんそうこうは当分外してはだめよ。そしてあなたの身体のことは、誰にも言っては駄目。約束しましょう」
「約束?」
「そう、約束よ」
真剣な眼差しに、オレは素直にうなづいていた。
だが。
シスターの部屋を出て、貼ってもらったばんそうこうを撫でながら、食堂へ続く廊下を歩いていた。そろそろそんな時間だったのだ。
ところが。
「!!!!!」
いきなりぐいっ、と襟首を掴まれ、背中から引きずられた。首が締め付けられる様で思い切りもがいたが、強い力に、オレは抵抗することはできなかった。
何が起こったのか、オレにはすぐには判らなかった。
ばん、と扉を開ける音がして、そのまま身体を反転させられた。
どすん、とオレは尻餅をつく。
ほこりっぽいにおい。階段下の物置だ、ということにその時ようやく気付いた。
扉を閉められ、ぱちん、と小さな灯りが点った時、オレの全身は一気に逆毛だった。
「…J」
「よぉ。やっぱりお前、バケモノだったんだなあ」
「…バケモノ…?」
「お前があれから余計なコト、言うんじゃねーかって思ってよ、フランシスん部屋の窓の下に居たらよ、いいこと聞いちまったぜ」
へへへ、と奴は笑った。そしてオレを引き寄せると、首筋のばんそうこうをべり、とはがした。
「…痛…」
勢いで、くっついていた髪の毛や体毛もいくらか抜けたかもしれない。ふふん、と奴が笑う声が聞こえる。引き寄せられている体勢なので、奴の気持ちも露骨に伝わって来ていた。
「本当に治ってやがる」
そう言いながら奴はばんそうこうをぽい、と床に投げ捨てた。
「前々からおかしいとは思ってたんだよなあ」
ぞく、とオレは震えた。今までに皆から感じた悪意と、何処か違う。
「天使だって? ふん、冗談じゃねーよ。お前みたいのは、バケモノって言うんだよ、バ・ケ・モ・ノ!」
「…違う…」
「何処が違うって言うんだよ! てめえ勝手に人の心読みやがってよ、それで勝手に逃げ回ってよ、そんな奴が天使の力なんか持つ訳ねーだろ。てめえみたいな奴がさ」
…ああそうだ、と何処かで納得する自分が居た。本当に綺麗な力だったら、誰かに嫌われることなんか、無いよね…
「…と言う訳で、だ」
くく、と奴は笑った。
「お前の様なバケモノの力でも、オレは使ってやるよ。ありがたく思いな」
「…使う、って…」
「色んなことさ」
そして不意に手は離れた。オレの身体はがたがた、と物置の中の掃除道具にぶつかって倒れたが、奴は構わずにそのまま出て行ってしまった。
食堂に遅れて来たオレが、ばんそうこうを貼っていず、また替えてきたばかりの服を汚していたことに、彼女は気付いていたと思う。
ただオレは、そんな彼女からの視線を避けていた。そして、彼女がオレに話しかけようとするスキを見せなかった。
要するに、彼女から逃げ回っていたのだ。
彼女の言う「天使の力」ということを信じたかった。だけど心の何処かで、Jが言った「バケモノ」を納得している自分も居るのだ。
オレは目先の辛さを回避すべく、それからというもの、Jの腰巾着よろしく、ついて回り、奴のすることなすことに利用され続けた。
それは結局、奴が死ぬまで続いたのだ。オレを「バケモノ」とののしる奴のもとで。
だけどオレは聞きたかった。
こんな力を持ったオレは一体どうすればいいのか。それを彼女に聞きたかったのだ。
だがそれを聞くことは、とうとうできなかった。
戦争中だ、ということはオレも知っていた。
ただやはりガキだったので、その敵の名が「ファルハイト」という惑星の軍だ、ということしか判らなかった。
オレ達の住むデビアは、その宙港都市である、という機能面から狙われることも多かったらしい。たびたび空襲警報が鳴り響いた。
何度聞いても、あの警報は気持ち悪い。
ただのサイレンじゃねえか、とJは避難場所へ行って、何も無かったと帰るたびに、震えるオレにそう悪態をついたが、怖いものは怖いのだ。
十秒鳴って、三秒停止する。それが五回繰り返されるのが、空襲警報。
あの音が怖いだけではない。あの音が響くたびに、皆の気持ちが不安で一杯になるのが気持ち悪かったのだ。
ところがその晩は、警報が鳴らなかった。
時期は冬。できれば外に避難することなく、暖かい部屋の中に居たい、と思う時期だ。
今日はもう大丈夫なようね、と夜の礼拝を済ませて、皆部屋に入った時だった。
オレの背中を、一気に通り過ぎたものがあった。
「おいクロ? 何凍ってるんだよ」
Jが引きずる様に部屋へと連れて行こうとした。
「…駄目だ…」
オレは掴まれているのが奴であることも忘れて、そうつぶやいていた。
「何だと?」
「逃げて…! 逃げて!」
はっ、とその声に、シスター・フランシスとJは反応した。
「クロ! 何か来るの!」
オレは何が来る、とも言えなかった。ただもう、身体を突き抜けた、冷たい冷たい悪意に、どうしようもなく、身動きができない状態だったのだ。
二十人足らずの子供達や、二人のシスターは、意味も判らずに、変な顔をしてオレを見ていたに違いない。だがシスター・フランシスはすぐに、出なさい、と皆に号令を発した。
「おい、お前も逃げるんだぜ!」
言われはしたが、身体が動かないのだ。ちっ、と舌打ちをすると、Jはオレの身体を抱え上げて、外へと走り出した。
「あなた方も早く、お逃げなさい!」
「何が…院長は何処へ!」
「すぐに行きます!」
そう言いながら、彼女は奥の自分の部屋へと引き返して行った。おそらくは、孤児院の存続のための重要書類とか、先代から引き継いだもの等あったのだろう。
尻から抱え上げられていたオレは、シスターの後ろ姿を見た時、ようやく氷が溶けた気がした。
「シスター!」
「行きなさい! 私もすぐに…」
声はそこまでしか、聞こえなかった。
きゅーん、という音が、数歩外に出た、オレと奴の耳に届いた。
次の瞬間、爆風で、オレ達は、飛ばされていた。
爆弾が、教会を直撃したのだ。
燃え落ちた教会の前で、残されたオレ達は、しばらく立ちすくんでいた。
結局生き残ったのは、オレとJと、数名の子供達、一人のシスターだけだった。
生き残った子供達は皆オレより小さかったので、残った若いシスターが都市の役所に連れて行くことになった。
「だけどあんた達は大きいし…」
言い渋る彼女からは、オレ達を「お荷物」としか思っていないことがありありと感じられた。
「あー別にいいぜ。オレ達はオレ達で勝手にやってくからな」
Jは若いシスターにそう言い捨てると、オレを連れて、デビアの街へと飛び込んで行った。
行くぜ、とJは言った。
奴が何処に行くつもりなのか、オレには判らなかった。その時の奴にも、きっと判らなかったんだと思う。
とにかくその時のオレ達がするべきことは、一つしかなかった。
靴と服と朝メシをかっぱらうことだ。
数え切れない程の服や靴やメシをかっぱらった末に、オレ達は要は金が手に入ればいいんだ、ということにお互い気付いた。
だから次にオレ達がやったのは、金を奪うことだった。
その時に奴がオレに命じたのは、金のありそうな奴を捜すことだった。
「お前だったらそういう感じ、が判るだろ」
…確かに判った。
それが一見そう見えない相手だろうが、実際に金をその懐に入れている奴と、そうでない奴とではまるでその周囲の空気が違うのだ。
オレはその持ってる奴をJに伝える。そしてオレがそいつの気を引きつけているうちに、奴が財布をする。
そんな具合で、オレ達は、あちこちで、成功率の高いスリを続けていた。考えている余裕なんて、十かそこらのオレには無かった。
俺達は、そうやって、デビアの街で、ストリート・ギャングの仲間入りをしたのだ。
…もう少し、ものを考える余裕があったら?
…もう少し、誰かを…
「いい加減に認めろよな」
何ヶ月か経った時に、Jはオレに言った。
「いつまでも引きずってるんじゃねーって言うの」
「…何をオレが引きずって…」
「お前まだ、あのシスターの言ったこと、気にしてるんじゃねえのかよ?」
…図星だった。
街に出てきたばかりの頃は、無我夢中で、何も考えずに、Jの言う通りに、オレは自分の力を使っていた。
だが、さすがにそれに慣れて来ると、気持ちにある程度の余裕が出てくる。
そこで、オレは思い出してしまったのだ。彼女の言った言葉を。あきらめたはずの言葉を。
「天使の力」は人を救うためのものだ、という。
それがオレの「お仕事」に歯止めをかけ始めた。
結局、使うオレの気乗りがしなければ、仕事もできない。そこでJはオレを説得していたのだ。
「認めちまえよな。お前はバケモノなんだって。そうすれば楽になるぜえ?」
天使の力だったら、人を傷つけたり、人を困らせたりすることはできない。オレの葛藤をこの三つ年上の奴は気付いていた。
「お前はバケモノなんだ。だからこうゆうことに、力はどんどん利用していいんだよ」
「だけど…」
「おい!」
だん、と壁に押しつけられた。
「だいたいよぉ、お前のその力が人を救えるんだったらよ、どうしてあん時、お前の大事な大事なシスターさまさまを、救えなかったんだよ!」
ぐっ、とオレは息を呑んだ。
「えぇ?」
「それは…」
そんなこと言われたって。
空襲の時に感じたのは、冷たい悪意だった。それまでに味わったことのない、無作為なそれに、オレはどう反応していいのか、全身で困っていたのだ。
「それにあの時、オレが助けなかったら、お前だって死んでたんじゃねえのか? いくらバケモノだって、爆弾の直撃で生きられるとは思えねえぜ?」
「…生かしてくれ、なんて言った覚えない…」
「はあ?」
ばし、と頬を打たれる。
「いっちょ前に、オレに口答えする気かぁ?」
「…」
「そうだよお前なんか、別に生かそうって気じゃあねえさ。ただ便利だから、生かしておこうって思っただけだ。だが殺すのも何だしな。どうせ生きるんだったら、せいぜい役に立てよ!」
うっ、と腹に蹴りが入るのが判った。げほ、とオレは咳き込んだ。
「オレ以外の誰が、お前なんか構うと思ってる? お前のようなバケモノを」
ぐい、と顔を上げさせる。
「あー全く。殴り甲斐がねえんだよなあ。傷の一つもつかねえってのはよ」
そして何度かまた殴られて、放り出される。唾の一つも吐き捨てて。
遠くで、工事の音が鳴り響いていた。戦争が終わったから、ばかでかいホテルが建つんだってさ、と誰かの噂をその時奇妙に思い出していた。
大人達はいいよなあ…仕事があってさ…今なら絶対仕事にありつけるしよ…結構長い工事らしいしさ…
身体が痛い時には、何か他のことを考えることにしていた。痛みなんて、通り過ぎれば、それだけなんだから…
そう、それだけ…
「…おい!」
大きな手が、オレを揺り動かした。
「…あれ、ロブ…いつの間に…」
ぞく、と背中が震える。ああ、暇すぎて、眠ってしまっていたんだ…
「ここは俺の部屋だぜ? いつの間にも何もないだろ」
「ああ、そうだっけ…」
そうだっけ、じゃねえよ、と奴は笑ってスケッチブックをソファに放り出した。
オレはぐったりとソファに座ると、それを勝手にぺらぺらとめくる。
「…今度は何処、行って来たのさ」
「あん? 勝手に見るなって言ってるだろ、いつも」
「いいじゃんかよー。オレ、あんたのスケッチ、好きだぜ」
「…」
そう言うと、画家は黙り込むのだ。どうやらこういうストレートな賛辞には弱いらしい。しばらくして、照れ隠しのような声が飛んでくる。
「止せよ。だいたいオレの専門は、抽象画だ」
「あのぐちゃぐちゃして目がチカチカする奴? ホントかよ? いつも描いてるのは風景画だったりするのによ」
「あれは注文があるからだ!」
「抽象画には無い訳?」
「…無い」
やっぱりー、とオレは笑う。そうしながらも、スケッチブックのページを繰ることは忘れない。
「へー…森とか小川って、こっちにはあるんだあ…」
「何、お前見たこと無いの?」
「デビアにあると思う?」
「や、確かにデビアには…ねえだろうなあ」
少し考え込むが、やっぱり思い付かないらしい。
「でも、いいよな、こうゆう綺麗な景色って。あ、林檎の木もあるじゃん。へー、こーやって生るんだあ」
オレは夢中でページを繰って行った。そこにあるのは、この男が描いたとは思えない程、優しい光景だった。
「今度はこれを元にして、絵を描く訳?」
「まあな」
「いいなあ」
「何が、いいなあ、だ?」
「って言うか…」
オレは少し考え込む。
「こういう場所で、暮らせたらいいよなあ、って思ったんだよ」
「おいおい、それはこのソグレヤじゃあまず無理だぜ?」
「何でだよ」
ぱたん、とオレはスケッチブックを閉じた。
「俺だってそれは、わざわざ実験地区まで行って描いてきたんだからな」
「実験地区?」
「緑化推進地区ってのがあるんだよ。…だからまあ、確かに『絵に描いた様な綺麗な』景色なのは仕方ないだろうがなあ」
ふうん、とオレはうなづいた。
「じゃあ今は、無理なんだ」
「今はな。でも未来はどうなるか判らないぞ?」
「未来?」
「今はエネルギーも不足しているから、緑化推進もなかなか上手く行ってないが、これが決着つけばな…」
「でも今は戦争も終わってるんだし、やろうと思えば…」
「そこんとこがなあ…」
ははは、と奴は乾いた笑いを浮かべた。オレの中には疑問符が飛んだ。奴にしては、それは妙に複雑な感情を伴っていたからだ。
「新聞、見たか?」
「え?」
「また、ファルハイトとの平和協定がやばくなっていきそうなんだよ」
戦争は、「今は」遠い場所のものだ、と思っていた。
一応、四、五年前に、当時直接戦っていた惑星「ファルハイト」との平和協定が結ばれていたはずだ。
「あー…何処から話そうかな」
そのことを聞いた時、まず奴はそう言った。
「シャノお前、今が戦争状態だ、ってのは判ってるだろうな?」
「ん? 今は違うんじゃねえの?」
「や、直接はしていないけど、全体的にはしているんだよ。広い宇宙の、銀河系で人間が住み着いているところ全体、ではな」
それは初耳だった。
だいたい目先のことで手一杯のオレ達にとって、星系どころか自分達の都市以外のことなどそうそう知ることなどなかったのだ。
「じゃ、『今は』の前は?」
「えーと、確かファルハイト、だったよな」
「それは正解」
よく判ったな、と額をぴん、と弾かれたので、やったな、とオレは反撃に出る。
「で、今はしてないって訳? 何か平和協定、とかいう奴を結んだとは聞いてるけど」
奴の上にのしかかりながら、オレは問いかけた。
「そ」
どけどけ重い、と言いながら、奴はオレを押しのけた。やはりまだガキのオレと、大人な奴との体格差は辛い。
オレはやっと十五になったばかりで、小さい頃の栄養があまり良く無かったせいか、他の同じ歳のガキより、何っか華奢に見えるらしい。
ああでも、体力はあるはずだ。連中なんかより、毎日毎日、動き回っているからな。
でもこうやって奴と近づくと、肩幅なんか、全然違う。
胸の厚さも違う。ちゃんとオレ、大人の身体になるんだろうか、と少しばかり心配にもなってしまうくらいだ。
そんなオレの心配などよそに、奴は政治の話を続けていた。
「だからまあ、今は一応、平和協定中。つまり、今のところは、仲良くしてましょう、でもいつかは判らないぞ、ってとこか」
「今のところは、か。でも何で? そもそも何で戦争やってる―――やってたのさ」
ふうむ、と奴は顎に指を立てた。
「ファルハイトとは、まあ単純に、資源の取り合い。まずですな、俺等のソグレヤと、向こうファルハイトとの星間ライン上に、小惑星群があります」
まるで教師の口調だ、とオレは思った。
「うん」
「で、その位置が、実に微妙で、うちからも向こうからも、そう変わりません。だいたいああいうのの所有権は、距離で決まるからな」
「…うん」
「ところが、その中で一番大きな小惑星―――それがトレモロって言うんだけど、そこにレアメタルの『キール』の鉱床があった訳だ。ただその『キール』ってのが、何って言うかな…ほんっとうに、レアだったんだよ」
「本当にレア?」
「そう。珍しいんだ。高エネルギー物質でな…うーん…」
奴はオレに判りやすい言葉をひたすら捜しているようだった。
「最初に見つけたのは、こっち。ソグレヤだったんだ」
「うん」
「だけど、その研究がずいぶんともたもたしてなあ…そんなこんなしているうちに、向こうさんの方が、かぎつけたって訳だ」
「へえ…」
「こっちは先に見つけた、あっちは国力が大きい、ってな訳で、結局まあ真ん中にライン引いて、今のとこはこれで勘弁、ということになったけど、…戦争ってのは嫌だよなあ」
「うん」
オレはしみじみうなづいた。あの時施設を焼いたのは、ファルハイトの空襲だった。
「俺まで徴兵されたんだから、こっちの国力の無さってのも判るだろ?」
「あんたも戦場に出たのかよ!」
「まーな。五体満足で生き残れたのが御の字ってとこかな」
確かに、と思った。ロブの気持ちも何となくどんよりとしている。
「弟はその時戦死したしよ。まったく、兵器のために戦争して死ぬなんて、馬鹿馬鹿しいったらありゃしねえ」
「それさあ、兵器にすると、そんな凄いの?」
「らしいぜ。あー確か、デビア郊外の兵器工場で、実験とかやってたらしいがな」
…デビア郊外の工場と言えば、カストロバーニの持っていた奴だ。
「あれって、兵器工場だったのか…」
「何お前、知ってんの?」
「だってデビアにある工場って、だいたいあいつのじゃん。そりゃあ、だいたいの工場に奴の息が掛かってんのは知ってたけどさあ、兵器もかあ…」
「おいおい、マフィアが兵器持ってなくてどうするよ。それにな、お前が前に当たったあの爆破事件」
「え」
って言うと、ここに来る原因となったアレか。
「あれもな、あの『キール』入りの弾丸だったって言うぜ?」
「えーっ! 弾丸?! …すごい威力じゃん」
「だろ? となれば、自分達が兵器として使うだけでなく、兵器として売り出すってのもありだよな」
うん、とオレはうなづいた。
「はいそこで、銀河系中で、現在色んな星が戦争中だ、ということにつながります」
また教師口調だ。
「あのなシャノ、その戦争自体が始まったのは、凄い昔なんだ」
「え、そうなの?」
「そう。お前は聞いたことない?」
考えてみる。
聞いたことはある。ここだけでなく、遠くで戦争が起きている、とは。
シスター・フランシスは、何処の戦争も早く終わって、平和が来て欲しい、と言っていた。
ストリート・ギャング時代、ファルハイトの攻撃はもう無くなっていたけど、大人の話に耳を傾けていた時、それはそれで、何かややこしい話をしていた様な気がする。
でもそれは、あくまで切れ切れの話で、オレの中ではつながらず、現実感の無いものだった。
遠い何処かで、戦争が起こってる。そんな感じで。
「始まったのは、もう何百年も昔だぜ」
「何百年も!」
「それも、何がきっかけだったかも、今じゃ判らない。ただ、それがどんどん飛び火して、何となく、全部の星系が、そういうムードになってしまったんだ」
「そういうもの? …戦争ってムードでやるものかよ」
オレにはさっぱり想像がつかなかった。
「…たった、数百年ってとこなのにな。人間が最初の惑星を捨ててから…」
奴はつぶやいた。
「ただ、その中で、何か最近、無茶苦茶強い軍があるらしい」
「無茶苦茶…強い?」
「そう。ま、俺も新聞や、ニュースや…まあそんなとこからしか聞かないし、実際どうなのかは知らないけどな。凄く少ない人数なのに、滅茶苦茶強くて、あちこちの星系を手に納めている軍があるらしい」
「嘘だろ! だって、前オレ、デビアで色々やってた時さあ、まずケンカに勝ちたかったら、ヘイタイを揃えろ、って言われたぜ? ヘイタイと、武器。まず数だって」
「ああ、それは正しい。それは正攻法」
ロブはぴっ、と人差し指を立てる。画家なのに、そんなことにも真面目に答えた。何でそんなことに真面目に答えるのか、ちょっと不思議な気はしたが、その時のオレは、深く考えはしなかった。
「少ない、強い軍が大兵力の軍を倒していくってのは、結構痛快なものがあるがな。だがそんなこと、まず普通はある訳ない。だから、もしかしたら、何処かの宣伝作戦かもしれないし…」
「…何かよく判らないよ」
すまんすまん、と奴は笑った。
「ついつい、お前相手ってこと忘れそうになる」
「どーせオレじゃ、話にならないよ。でもさ、その強い連中って、何って星系の何って奴等なんだ?」
オレは訊ねた。あくまでそれは、ただの興味だった。
「何っていう星系の出身かは忘れたがな…そうそう、『天使種』って呼ばれているらしい」
「…『天使種』? すげえそれって、皮肉な名前じゃねえの?」
「ああ? そんなことないぜ。昔の宗教では、戦う天使だってちゃんと存在した」
また雑学王は、そんなことまで。
「…でもシスターは、天使サマって言うのは、人を助けるもんだ、って言ってたけど?」
「うん、だけど、助けるために戦う、っていうのもあるんだぜ。あと裁くためと」
「ふーん」
何となく、釈然としなかったが、とりあえずその時、オレはそう答えた。
「で、何でそいつら、そんな強い訳?」
「あー…何でも、撃たれても切られても死なない、とか言ってたなあ。あと、歳を取らないとか何とか、…何かここまで来ると、冗談としか思えないけどな」
「…へえ」
撃たれても、切られても、死なない…
「気になるか?」
「まさか」
ならいい、と奴はオレの背中をぽん、と叩いた。
「で、その強い強い『天使種』の軍に対抗するためには、やっぱり正攻法的には、強い兵器が必要ってことになるだろ。そうすると、『キール』の需要も高くなるって訳だ」
「なるほど」
強い敵には強い武器。それは判る。
「…だけど、そうすると、今度はトレモロのラインが今、問題になっていたりするんだよ」
「ラインが?」
「ああ。今は単に場所的に半々でラインを引いてるんだがな、埋蔵量的にそれはどうか、ということで問題を起こそうとしているらしいんだ」
「…馬鹿馬鹿しい…それで、戦争?」
思わずオレはひざを抱えた。
「ああ、馬鹿馬鹿しいよな。全く」
奴はそういうオレの頭をぽん、と叩く。
「ま、喋りすぎて喉も乾いたし、茶でも入れてくれよ。あ、そう言えば、冷蔵庫の上に、買ってきたクッキーがあるぜ? お前の好きな、チョコチップ」
「え、本当?」
慌ててオレは立ち上がる。今のオレには、遠い問題よりは、目先のお茶と、奴との時間の方が大切だった。
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