2 売れない画家と一つの賭け
「…おい、何してる?」
背後で声がした。
おそるおそる振り向くと、出かけていたはずの家主が、そこに立っていた。
ばさ、とクラフト紙の袋を冷蔵庫の上に下ろす。どうやら買い物に出てたらしい。
「お前が欲しいのはコレかよ?」
あ、とオレは家主がポケットから出した、奴のものらしい財布を指さした。
「や、その…」
「お前のはちゃーんと別のとこに預かってるさ。ついでに言うなら、持ってた物騒なモノは処分したぜ」
「は」
何?
まだ貧血は治ってなかったらしく、くらり、とその場にへたりこんだ。気が抜ける。
「…じゃ、オレの財布、返せよ」
「今のお前に渡したら何処に出てくか判らないだろ?」
「いいじゃねーか、オレの勝手だよ」
「あんだけ情けねえ顔して、助けて助けてって訴えてた奴が何言う」
かっ、と顔に血が上るのが判る。
「お、オレそんなこと言った覚えねーぞ」
「別に口に出して言った訳じゃねえけどよ、何っかなあ」
まさかオレと同じ体質? ってことはないよなあ。思わずオレは唇を噛む。
「おいおい、そんな、なあ…野良猫を拾ってきた訳じゃねーんだから。ちゃんと治って、辺りに危険が無いとか、そういうのが判ったら返してやるよ」
「…あ、あれもか」
「銃か」
あっさりと奴は言った。
「あんなもの、ガキが持つもんじゃねえ。金は後で返すが、アレは分解してゴミに出したぞ」
「…ゴミにって…」
はああああ。オレは思いっきりため息をついた。
「まだ数発、残ってたのに…」
「残ってたあ? 何処かで撃つつもりだったのかよ、お前」
「や、それは」
「そんなコト言うならな、なおのこと、捨てて正解だったぜ。撃たなくていいなら、撃たないにこしたこたねえんだ」
それは、そうだけど。
「それよりお前、もう身体はいいのか? 動いたりして」
「あ…身体は、大丈夫」
「嘘言え」
「嘘じゃないよ。…あんた、見たろ」
それにはこの男も黙り込む。
起きた時、一応巻いてあった包帯の下を見たら、綺麗に血が拭われていた。(あの時のコットンのアルコールだろう。においが残っていた)
「まあな。だけどケガ人には違いねえだろ」
「…もう大丈夫だってば」
「それで、とっとと金持っておさらばしようって思ったのか?」
ほれ、と冷蔵庫の上に置いていた新聞を奴は投げつける。
「…ごちゃごちゃして読めねえよ」
「バカか?」
「バカで悪かったなあ、学校行ってねえんだから、仕方ねえだろ」
「…あーあー悪かったな。じゃあちゃんと俺が要約してあげよう」
オレはぺたん、とクローゼットの前に膝を抱えて座り込む。
「つまり、だ、一昨日のお前の巻き込まれた爆発事故ってのがな、マフィアの内部抗争だって言うことでな」
「マフィアの…って」
「マフィアって言えば、デビアの専売特許だろう。まあシレジエにも、カストロバーニの息が掛かった奴も居るが、特産のマフィアはねえぜ?」
そうなのか。オレはてっきり、何処の街にもそれなりにマフィアの様な組織が存在すると思っていた。
「で、何かあそこで殺られたのは、こっちの地区幹部らしいな。…ミタナスも殺られたって言うし、…こりゃ、内部抗争が起こるんじゃねえかな」
「…」
それはまずい、と思う。
シレジエまで来てしまえば安全だと思ったのに、向こうで幹部を殺した(一味の)オレとしては非常に困る。
「ま、内部抗争も何でも、勝手に殺し合えばいいさ。それはともかく、お前、腹減って無いか?」
「腹?」
言われてみれば、何かひどく腹はぺたんこだし、…実際きゅーっと胃が悲鳴を上げているようだ。
「お前な、二日間眠りっぱなしだったんだぜ?」
「二日?」
「まあ、と言ってもな、うわごとで水水言った時には、水くらい飲んだがね」
「…記憶に無い…」
そんなこと、言ったのか。
「まあ病気してる時ってのは、そんなもんだろ。何か食うだろ?」
「…腹は…減ってる」
「じゃあ食うな? …と言っても…なあ」
ふむ、と男は部屋の片隅の冷蔵庫を開ける。
オレは何となく気になって、足元に気を付けながら、そろそろとキッチンの方へと進んだ。
さすがに少し寝過ぎたか、ふらり、と世界が回る。途端、背中を大きな手が支えた。
「…っと、大丈夫か?」
「大丈夫。…って何だよ、この冷蔵庫」
…確かに迷うはずだ。さっきのクラフト紙の袋の中には、包帯だの傷薬だの。わざわざ買い物に出たというのに、そんなものばかりで。
まあ冷凍のピザはいい。
あとは…水とビールと卵と…少しの野菜とベーコン、そんなものくらいしかない。
「仕方ねえ、何か食いに行くか」
「行くか、って」
「無論お前も連れてくぜ。行きがかりだ」
「じゃなくて、なあ」
オレは今にもドアから出て行こうとする奴の袖を掴んだ。
「じゃなくて、何だ?」
「…これだけあれば充分じゃないか? オレ作るよ」
「ほー」
…三十分は経っていない、と思う。
まあできるものなんて、大したものではない。ぶっちゃけて言えば、野菜とベーコンのスープに、溶き卵を加えたものを作っただけだ。
二人分より少し多めになる様に、水を調整し、スープキューブなんてしゃれたものは無いので、ソイ・ソースや塩と、ベーコン自体の旨みで調整した。一応味見もした。悪くは無いと思う。悪いなんて言ったら殴ってやる。調味料をキープしておかない奴が悪いんだ。
ソースパン一杯にできたそれをとりあえずとろ火にかけておく。
その一方で、冷凍ピザを温め、薄いものだったので、わざと半分に折って、でかい皿に盛りつけた。
「…何か、いい匂いじゃねえか」
男はオレの背後に来ると、スープの様子をのぞきこんだ。
「もうできる。何処に置けばいいんだよ。この部屋、テーブルも無えじゃないか」
「あー…必要なかったしな」
男はそう言いながら、きょろきょろと辺りを見渡した。
「お、そう言えばこんなところにあったか」
大きな手が、部屋の隅に転がっていたブリキの大きな箱を、ソファの前にどん、と置いた。
そしてその上に、おそらくは絵の台に使うのだろう、厚手の板を乗せた。
「どーだ、これで一応テーブルだろ」
まあいい。オレはともかくソースパンの火を止め、ピザの皿を奴に渡した。
「スープ皿って、何処?」
「…何処だったかなあ…」
はいはい、探せってことね。
作りつけの戸棚のあちこちを開けてみる。何でこんなに紙ばっかり入っているのか判らないが、ともかく皿だ皿。…趣味悪い柄の、サイズも色も違う奴をかろうじて探しだし、オレはスープを注いだ。その調子でスプーンも探し出す。
「ほー」
並べられた皿に、奴は目を丸くした。
「いやあ、何か久しぶりだぜ。ピザはともかく、こうゆう熱いスープとかよ」
「…何で、ちゃんとキッチンも冷蔵庫もあるのに」
「忙しくてなあ」
何処がだ、とオレは内心悪態をつく。
「…そう言えば、あんた、画家なんだ…」
正解、ははは、と男は笑った。
「ただし、売れない画家、だがな」
「それは判る」
おい、と男はぽかり、とオレの頭を殴った。
「痛ってーっ!! 何するんだよーっ!」
「おお、そう言えば、忘れていた」
男はオレの抗議には耳も貸さず、ぐい、とシャツのボタンを一つ二つと外した。
「おい…何を」
そしてぐい、と右肩をあらわにする。
「ふむ。確かに治ってるなあ」
「…」
オレは思わずしかめ面をしてしまったに違いない。
離せよ、と奴の手を払った。
「便利でいいじゃないか」
「…特異体質なんだよ、放っといてくれ」
「いいじゃねえか。特異体質、大いに結構。この世知辛い世の中で、ケガしても大丈夫なんて、医者要らずで結構なことじゃねえか。薬も医者の治療費も高くてなあ」
男は腕を組んでうーん、と首を傾けた。
「そう…らしいな」
「ん? お前は用が無いんじゃないか?」
スープに口を運びながら、奴は問いかける。
「オレには用は無かったけど、用がある奴は居た」
「ふうん? で、そいつは?」
「死んだ」
「そうか」
その口調がひどくあっさりしていたことに、オレは少しばかりびっくりした。
たいがいこんなこと言うと、言われた奴からは、こいつ何やってきたんだ、という興味か、可哀想に、という憐憫の情のどっちかが伝わってくるのが普通だ。
Jはオレの特異体質を知ると、バケモノだと言った。
だがこの男からは、そのどちらも伝わって来なかった。
ただそこには、それが事実なんだな、という乾いた感触があるばかりだった。
何となく、気持ちが落ち着かない。間が保たなくなって、オレはとりあえず周囲を見渡す。
「…そういえばあんた、よくまあ、人間がここまで散らかせるなあ」
「悪いか。それでもちゃんと住めてはいるんだ」
「だけどもう少し…」
だって。オレは視線を床に這わす。
カーペットなんて一枚も無い。板張りの床の、かろうじて見えるあたりから観察するには、ワックスなんて掛けることなど全くなかったようなささくれ立った床。時々釘の頭も出ているようだ。
部屋の隅にはほこりが綿のかたまりになって寄せられている。
そしてその床の上には。
まず服が散乱していた。
まさかその一枚を着せたんじゃないよな、とオレは少し不安になる。そして、そのどのシャツにも絵の具がついている。
そして紙。
スケッチしたのだろう、濃い鉛筆で、自然の風景だの、店から見た人の通りだの、猫だの犬だの、そんなものが引きちぎられたスケッチブックの、クリーム色の紙に、無造作に描かれ、散乱していた。
…でもまあそれはいい。
問題は、何で、林檎の皮やら、洗っていないコーヒーカップやら、何度もパンを乗せたらしい皿やら、食ったきり捨てていないフィッシュ&チップスの包装紙やらまでがあるのか、ということだ。
「…おいあんた、この部屋って、ゴミ箱ねえの?」
「ああ、これだよこれ」
貧乏画家は、台にしているブリキ缶をがんがん、と叩いた。はあ、そうですか…
「…何やってるんだよ、食えよ」
あ、とオレはあっけに取られていた自分に気付く。そうだメシメシ。食える時に食え。それが鉄則なのだ。何とか料理しているうちに復活してきた食欲で、スープをすする。
ま、実際、あまり食っていない時だったから、スープというのは、我ながらいい選択だったと思う。ピザはさすがにあまり喉を通らない。
ずずず、と一気に流し込みながら、奴は言う。
「美味いじゃねえか。お前すごいな」
「すごいって…」
「ガキのくせによ」
「ガキガキ言うなよ、これでも十四だ」
「十四なら、楽勝でガキだろ」
「そういうあんたは幾つだよ、おっさん」
「おっさんたぁ何だ、俺は三十…えーと」
「三十路なんて、おっさんじゃねえか」
ふん、とオレは胸を張る。ちっ、と奴は舌打ちをする。
「…あー…ともかく、だ。お前がガキなのは確かで、そのガキがこんなにちゃんと料理ができることに対して、俺は敬意を表するぞ」
「敬意~?」
何だ、それは。
「したがって、一つ提案があるんだが」
「提案」
何となく、嫌な予感がする。奴はにやり、と笑う。
「お前、行くとこ無いんだろ? それに訳アリだ」
「う」
それは確かにそうだった。それに、マフィアのこともあって、危険なのも確かだった。
「で、だ。提案って言うのはだな」
オレは思わず身構える。
「ここに住み着いていいからよ、掃除と料理、してくれねえ?」
「へ?」
すると、奴の顔がへらりと歪んだ。
「やー、俺も貧乏画家なのに、外食ばかりじゃ食費がかさむかさむ。それにさすがにこの部屋の惨状には、俺もうんざりしてたんだが」
「…どこから手をつけていいのか、判んなくなってるんだろ」
「そう、その通り!」
ぱん、と奴は手を打った。
…まあそうだろう。そういうことには無縁そうな面構えをしている。
だいたい髪だって、伸ばしっぱなしを後ろで適当に結んでるだけの様に見えるぞ。櫛やブラシなんか入れてるのか? それとも天然パーマだからそう見えるのか? 寝癖か?
そのあたりは謎だが、少なくともハゲるタイプではなさそうだ。すげえ濃いもんなあ。髪、太そうだし。あ、ラテン系の血が濃いのかな。
オレも黒髪で黒目だけど、奴ほど濃い顔じゃあない、と思う。少なくともJは「小綺麗」と言ってたくらいだ。まあ奴の言葉なんか半分も信じてはいなかったが。
で、その髪と同じでヒゲも濃いんだよな。でもこっちは時々剃ってるかもしれない。でも絶対「時々」だ。無精ひげって感じだ。
シャツはその辺にある奴を適当に拾って着ている分だろうし、出会った時に着てた上着は、窓の側に置かれた椅子の背に掛けてある。
良く見てみると部屋の中には作りつけのクローゼットもあるらしいが…中に何が入っているのか、それとも何も入っていないのか、考えるのも恐ろしい。
ううむ。
オレは少し考える。
だってそうだ。こいつはオレの「訳アリ」の意味も知っている。
…そりゃあ、できればそういう奴とはなるべくおさらばしたいところだ。Jがいい例だ。オレの特異体質を知ると、奴はとにかくそれを利用しようとした。
けど。
オレはひどく、自分が困惑していることに気付いた。
どうもこの男からは、その「利用してやる」という感じがまるで感じられないのだ。
確かに、オレの特異体質を面白がっているふしも少しは見える。だがそれは、単に興味があるだけのようで、それ以上ではなさそうだった。
…何考えてるんだ、こいつ。逆にこっちが興味が湧いてしまうくらいだ。
「おいあんた、本当に、メシ作って、掃除するだけで、ここに居ていいのか?」
「ああ。狭い部屋だが」
狭くしているのは自分じゃねえか、とオレは内心つぶやく。 部屋なんてのは、ちゃんと整理整頓すれば、結構広くなるものだ。オレとJの住んでたとこだってそうだった。あいつもまた、片付けられない奴だったから、オレはもう、自分の居場所確保のためにも、根性で片付けまくったものだ。
「あー…ついでに洗濯もしてくれると嬉しいが」
天井を見上げながら付け足す。まあ…それはそうだろうな。
「寝るのは…ソファですまんが、俺が絵で貫徹する時にはベッド使っていいし」
「はあ」
たぶんその時のオレは、ひどく気の抜けた声を出していた、と思う。
「OK?」
聞いてくる声。やっぱり利用とは無縁の気持ちがこちらに向けられる。
「…OK」
オレはそう返していた。
「ああそう言えば、お前、何って名だ?」
「名?」
名、か。オレは少し迷った。名は…あることはある。だが何か、変だ変だ、といつも言われていた。
「クロ」
「クロ?」
「変な名だ、って言うんだろ? クロ・ネコ、ってオレは聞いてるけど」
「クロ・ネコ? 確かに妙な響きだな」
「…オレが見つかった時に、その名前を言ったんだって」
「見つかった」
「オレ、何か知らないけれど、宙港ビルの屋上だか鉄塔の上に小さいガキの頃、座ってたんだって。で大騒ぎになったとかならなかったとか」
「あーなるほど…でも何か、その音の響き、何処かで…」
ぽん、と手を叩くと、男は確かこのへんに、と食器棚の一つを開け、何か探し始めた。
「ああ、あったあった」
奴の手には大きな本があった。両手で抱え持って殴りつければ、人が殺せそうな厚さと大きさと重さを持っていそうだ。
その重そうな本を胡座をかいた膝にのせ、奴はぱらぱらと何かを捜している様だった。
「くくくく、ク・ロ・ネ・コ…クロ・ネコ…あー、黒猫、か」
「シャ・ノワール?」
何の本を見ているのだろう。
オレは学が無いから、奴が見ている文字だらけの本は、何だかもう、模様だか線の並んでいるものにしか見えない。
ぱたん、と音をさせて閉じると、奴は言った。
「昔むかし、失われた言葉でな、黒い猫、の意味なんだよ。だからそうだなあ…俺の両親の生まれ故郷で結構使われてた言葉では、シャ・ノワールって言うんだ」
「へえ…綺麗な響きじゃん。…うん決めた。オレその名前にする」
「するって…だけど、お前」
「もう決めたよ。だってさあ、オレ、あんまりあの名前好きじゃなかったからさ。戸籍だってどうなってるかなんて知らねーし」
と言うより、クロクロとあの名前を呼ぶ時の、誰かしらから伝わってくる、馬鹿にした様な気持ちが、オレは嫌だった。
「うーん…でもそのまんまじゃ、露骨に意味が丸判りだぜ」
「いいじゃん。適当にそのへんは、あんた、アレンジして呼んでよ。とにかくオレはシャノワールね。いいだろ?」
「まあお前がそう言うなら。…シャノ、か。俺はロバート・マクラビー。名前は呼びたい様に呼べばいい」
「ロバートか。じゃあロブ」
「よしシャノ、よろしくな」
男はでかい手をオレに突き出した。何だ? と目を見開いていると、呆れた顔で言う。
「握手だよ握手。これからの同居人としてな」
「ああ…」
ぐっ、と暖かい、乾いた手がオレの手を握った。ぶるんぶるん、と上下に大きく振り回す。
「…お、おい、あんた力入れすぎ…」
「お、すまんすまん」
ぱっ、と手を離すと、ははは、と今度は大声で笑った。
…何で絵描きにそんな筋肉があるのか、と思った。だけどその時のオレには、よく判らなかった。
やがて、ロブが言ったように、マフィアの内部抗争は、だんだん激しくなっていった。
しかしまあ、オレにとっては、それからの日々というものは、「平和」そのものだった。
と言うか、「平和」というのがどういうものなのか、オレはそこで初めて知ったと言ってもいい。
それは、ごく他愛ないものだ。
オレが住み着いて、半年くらいが経っていたある日のこと。
「おーい、なあシャノ、買いだし行こうぜっ買いだし」
扉の開く音がしたかと思うと、ロブの嬉しそうな声が飛んできた。
確か奴は今朝、画廊に行って来る、と出かけていた。
ということは、売れたのか。それは良かった。
しかしその時のオレは、今まさに、床にブラシをかけている時だった。
「えーっ? だってオレ、今さっき、掃除始めたばかりだぜ? あんた一人で行って来いよ」
オレは小さな抵抗を試みた。だが。
「…おいおいシャノ、買い物に一人で行ってもつまらないじゃねえか。な、いいだろ?」
そこで、そういう顔をするかなあ。はあ、とオレは内心ため息をつく。
大の大人がさ、数枚の札が入った封筒握りしめて、顔全部で本当に嬉しそうに、へらへら笑ってるっていうのは、何と言うか。
しかし奴は、そのオレのため息を了解と取ったらしい。
「よし決まりだ」
問答無用で、奴は首に手を回した。ほとんどこれじゃあ拉致だ。
オレも負けじと、モップを抱えて応戦する。
「…やなこった。だいたいあんたがまた昨日、解き油の缶こぼすから、オレ大変だったんだぜ?」
「あーごめんごめん。じゃあ市場でチョコレートを買ってやるからさ」
ずるずる。
…結局オレを拉致した腕、解く気はない訳ね。はあ。
いや、行くのは嫌いじゃない。
ただ、ロブときたら、行ったら行ったで、ガキのオレよりガキの様に、あちこちでこれがいいあれがいい、って金に限度があること忘れた様に買い込もうとする。さすがにそれに付き合っているのは気が気ではない。
「すみません、これ…」
げげ。オレはいつの間にか横に居ない奴に慌てて振り返る。ちょっと目を離したらこれだ。
何か、如何にも高価そうな果物を手にしている奴が目に入る。この星系にはない、濃い色の、甘い甘い匂いのする、中身も甘いらしい果物。
「あー、もう、だめだめだめだめ」
オレは慌てて、林檎の山の方に手を伸ばした。
「おっさん、そっちは駄目! こっちね、こっち」
そう言って、オレはぎっ、と奴をにらみつけた。
八百屋のおっさんも、高い果物一個や二個と、林檎一袋ならまあいいか、という顔をして、クラフト袋にぎっしり詰め込んだ。
林檎は量り売りだ。でかい玉がごろごろと中で押し合いへし合いしている。
「…あーあ、やっぱり付いてきて良かったよ」
オレは頭を抱えた。
「へへへ、そうだろ?」
「そうだろじゃ、ねえってえの! …ったく、あんた一人で行かせたら、今月の生活費が、全部今日だけで飛んじまうじゃねえの!」
「そんなことは無いって」
「そんなことあるって!」
現にさっきだって。
だいたいオレが住んでるだけで、食費は以前よりずっと、かかってるはずなんだ。
だからそのあたりはきっちり締めなくてはならない。それはもう、オレにとってほとんど使命感に近かった。
「あ、そう言えば、チョコレートチョコレート」
「…いいよ」
「まあガキは遠慮せずに」
「おい、変なところでガキ扱いすんなよ!」
ぐい、とまた奴はオレの手を引いた。何だって画家がこんな力が強いんだよ。本当にこういう時、奴は強引だった。
市場の菓子屋もまた量り売りだった。オレは迷わず、割れ板チョコを何グラム、という具合にそこの店主に頼んだ。
「カラフルな奴とかもあるぜ?」
「そういうのはお子様かおじょーちゃんに言えよ…味が良ければ、オレは何だっていいの」
「おいおい、それを言われちゃなあ」
あははは、と菓子屋のオヤジは笑った。
「お菓子ってのは、腹を満たすって言うよりは、心を満たすもんだからねえ」
「んなこと、言ったって」
「だってよ、ぼーず、お前んとこの兄さんは、画家だろう?」
うん、とオレはうなづいた。
一応オレ達は、この界隈では、長いこと離れて暮らしてきた兄弟だ、ということにしていた。
この下町は、そのあたりを適当な和やかさでくるんでくれている様だった。
「絵なんて、それこそ腹なんかまるでふくれないじゃないか」
「ま、それはそうだよなあ」
菓子屋のオヤジもうなづく。おい、と後頭部をはたかれる感触があったが、気にしてたまるか。
「だけどな、ぼーず、それが欲しくて買ってく奴だって居るんだ。何でだと思う?」
「何でさ」
オレはすぐに切り返した。
実際、オレ達が毎日のおまんまを食えるのは、こいつの描く絵のおかげってことは判ってるけど、何でそんな絵を金を払って買う奴が居るのかってことが、オレにはさっぱり判らない。
「ここさ」
菓子屋のオヤジはぽん、と胸を叩いた。
「胸?」
「ハートさ」
「…うっわ、気障っちぃ…」
「気障かい」
がははは、とオヤジは笑った。
「でもなぼーず、それが何より大切ってこともあるんだぜ」
「そぉかぁ?」
「そうさ。まあ、ガキには判らないだろうがな」
そしてまた、がははは、とオヤジは笑った。
オレはその時、言っていることの訳は上手く判らなかったが、おまけだ、と割れ板チョコを二十グラムほど多く入れてくれたので、このオヤジはいい奴だ、と思うことにした。
買い物はそんな感じで、あちこちで目移りする奴と、それを引き留めるオレの応酬で、結局、結構時間が掛かってしまった。
帰る頃には、午後の日差しも落ちかかっていて、さわさわと風が公園近くの並木道を通り過ぎていた。
「けどさー、また林檎の値段上がったよねえ」
オレは頭の後ろで腕を組んで、少し愚痴を吐いた。
ちなみに、その林檎の袋を手にしているのは奴の方だった。オレが持っていたのは、買ってもらったチョコだの、切らしていた貼り薬だの、消毒薬だのを入れた紙袋だけだった。
薬局で手提げのついた袋に入れてくれたので、オレはそれを肩から下げていた。どういう訳か、こいつは薬局とお友達らしく、別にケガなぞしている所を見たことは無いのに、よく買い物はしているらしい。
そう言えば、オレに最初に会った時も、救急箱はすぐに出してきた。必要な本は探したくせに。
ついでに途中でパン屋に寄って、バゲットも買って、その中に突っ込んだ。
店の主人に、薬と一緒に? なんて顔されたけど、片方の手が空かないのはどうも落ち着かないので、そのあたりは無視した。
「…まあそれは、仕方ないさ。物資が不足してるのは、何処も同じだ」
「確かにそうだけどさあ。あんたはいつもそうだよ、そーやって、笑ってさあ」
「だって、そうだろ?」
ほれ、と画家は持っていたクラフト紙の紙袋の中から林檎を一つ放る。
「おいロブ、いきなり投げるなよ」
「だってお前、ちゃんと取るじゃねえか」
「オレだって、取り損なうことだってあるよ!」
ほぉ? という顔で笑う奴に、オレは思わずしまった、と思った。
オレは黙って林檎を中に着ていたTシャツでこすると、かぷ、と噛みついた。奴も一つ取り出して食べ始める。
「…ああもう、すっかり秋だねえ。何か。さすがにもう中が半袖じゃ、オレ、寒いかも」
「そうだなあ、お前にも冬用の服を何か買わんといかんな」
「あー? いーよぉ。あんたの貸してくれれば」
「だけど俺のじゃ、でかいだろ」
「でかいんならいいじゃん。袖も折ればいい。だいたいあんた、今買い物しすぎて、財布も寒いんじゃない」
「…それもそうだが」
「だから、じゃんじゃん食って、じゃんじゃん描けよ。オレ、今日は腕奮うぜ」
「それはそれは」
「あ、信用してねーな」
はははは、と奴は笑い、また林檎に口をつけた。
どうやら芯のあたりまで歯を立ててしまったらしく、いきなり横を向くと、奴は種をぷっ、と飛ばした。
「…きたねーなあ」
「何を言う。ちゃあんと種だけ飛ばせば、芯まで食えるだろう?」
「まあそれは…そうだけどさ」
食い物は大事に。それはオレもよーく判ってる。芯だけでも、と漁ったことだって、昔はあった。
「それに、もしかしたら、あれから芽が出るかもしれないぜ?」
「…そーんな簡単に芽が出たら、この星の農家の皆さんは、誰も苦労しないよ」
だから物価だって上がるんだ、とオレは付け加える。すると奴は不意に足を止めた。
「ふうん? じゃあ賭けねえか? シャノ」
「何を」
「この場所をちゃんと覚えておこうぜ」
奴は種が落ちた場所にうずくまると、指で土をつつくと、その種を入れた。
「…本気かよ」
「本気だぜ。お互い手は触れないこと。で、来年ちゃんと芽が出たら、俺の勝ち。出なかったら、お前の勝ち」
「勝ち、はいいけどよ、ロブ、…何賭けるんだよ」
「何って…」
そこで奴は口ごもった。
「そうだな…」
立ち上がりながら奴は、ぱんぱん、と手の土を払う。
「俺が勝ったら、お前、もう自分のこと、『バケモノ』って言わないこと」
「え?」
一瞬、何のことを言われているのか判らなかった。
「お前、良く言ってるじゃないか。自分はバケモノだから、って」
気付いていないのか? と奴は濃い眉を寄せた。
「オレ、そんなに言ってる?」
「言ってる」
そうなんだろうか。思い返す。そうかもしれない。無意識のうちに、口を突いて出ているかもしれない。
だけどそれは、オレにとって、事実だし。
「耳障り?」
「耳障りって言う程じゃないが、俺はあまり、お前の口からそういうことは、聞きたくない」
オレは黙り込んだ。正直、困ってしまったのだ。
すると奴はぽん、とオレの頭に手を置いた。
「ま、だからお前も何かいい賭けのネタ考えろよ」
「何でもいいのか?」
思わずぴょん、とオレは奴の方を見た。
「…まあ、俺のできる範囲で、な」
少し情けない口調で奴は付け足し、笑った。
「考えてみる。…ところであんた、今土のついた方の手でオレの頭、はたかなかったか?」
はははは、と笑いながら、奴は足を速めた。待てよ、とオレは追いかける。
少しだけはまりかけた憂鬱な気分が、晴れて行くのがオレには感じられた。
かんかん、と階段を走ると、音がこれでもかとばかりに響きまくった。
オレ達が住んでいるのは、安い汚ったねぇ五階建てのアパートの三階。しかも北向きだ。冬になると、暖房無しでは確実に凍え死ぬ。でも安いんだ、という奴の主張には、オレもうなづかない訳にはいかなかった。実際、そのアパート自体、安かったはずだ。北だろうが南だろうが。
狭い路地に、これでもかとばかりに建て込んで作られてた。確か、築六十年とか言っていた。
一時期、いきなり人口が増えたことがあったらしい。
奴が言うには、他の星系から逃げてきた人たちがどっと押し寄せたんだ、ってことで。人が増えれば家も必要になる。それで住宅ラッシュが起こったらしい。そんな時代だから、「作れば売れた」訳だ。
そうなると、もう内容なんてひどいものだ。材料もかなりケチったようだ、と奴は言っていた。
実際、壁のコンクリートがあちこちハゲてたり、場所によっては、ひしゃげた鉄筋がぐいっと突き出てるとこもあったくらいだ。
「何で直さねぇんだ?」
と危なく転んだ拍子に腕を引っかけた時に、オレが言ったら、奴は苦笑いしながら言った。
「金が無いんだよ」
馬鹿やろ、とオレは腕の血を舐めながら吐き捨てたもんだ。どうせすぐにその傷も消えたけど。
そして窓の外には洗濯もの。
隣のアパートとこっちとの間にはロープが張られ、ずらりとシーツやタオルが並んでいた。
窓同士に二本張られていて、片方がこっちの持ち分で、もう片方が、向こうの窓の持ち分。
そのロープに滑車を付けて、洗濯物をあらかじめはさんだロープと一緒に転がす。すると一気に洗濯物が向こう側まで行く。
でも洗濯物の長さには、取り決めがあったから、結構それでトラブルが起きるらしい。下に干してあるものに付いてはならない、とかそんな程度のことだが。
オレも最初は、そのあたりが判らなくて、何度か二階のババアに怒られたもんだ。
それでロブも一緒に謝りに行ったんだけど、そもそも奴がちゃんと前々から洗濯って奴をやっていて、オレにその「取り決め」とやらを教えてくれていたら、そんな怒られる羽目にはならなかったと思う。
とにかくこの家主は、生活観念が確実にずれていた。
オレが住み着いてようやく、人間の住処らしくなったけど、もしオレが消えたら、またあのごみための様な部屋に舞い戻るに違いない。
でもまあ、画家ってのはそういうものなのかもしれない。
当人は自分自身を「貧乏画家」と呼んでいた。実際そうだった。画家と言ってもビンからキリまであるけど、奴はオレの目から見てもキリの方だったと思う。
ピンの方にもう少し近かったら、少なくとも奴はもう少し日当たりのいい部屋に引っ越してたんじゃないか、と思うのだ。
いやでも、もしもっと収入があっても、そんなことは忘れているかもしれない。
何せこいつの行動ってのは、オレには理解できないことがずいぶんあった。
オレはそれでも、「平和な」暮らしをしている今は、朝起きて、メシ食って、自分の仕事して、メシ食って、また仕事して、メシ食って風呂入って寝る、っていう、単純だけど真っ当なリズムで生きている。施設で過ごしてた時の習慣に、それは近い。
だけど、奴ときたら、そんなリズムもへったくれもない。
それこそ絵を描きだしたら、何時間でもカンバスに向かってる。腹が減ってることも忘れてしまってるらしい。
さすがにそれが朝昼と続いた時には、オレも心配になって、晩メシをサンドイッチにしておいた。
すると、その気配に気付いたのか、見向きもせずにいきなり食いだした。
多少の嫌がらせも込めて、奴の嫌いなにんじんのスライスも入れておいたというのに、何ーっも気付いてなかった。
後で聞いたら、こう言ったよ。
「あれ、俺、サンドイッチなんて食ったか?」
…それ以来、オレは絵を描きだした時の奴には、片手で食えるものをさりげなーく置いている。
ただし、そういう時には、これでもかとばかりに、普段毛嫌いしているものも入れてやることを忘れずに。
それに睡眠。果たしてそういう時には、ちゃんと寝ているのかすらも判らない。二、三日の完徹は当たり前。
そしてそのパワーが切れると、いきなり沈没したように睡眠状態に入る。椅子の上だったりソファの上だったりする時はまだましだ。下手すると、床で、解き油の缶を転がしたまま大の字になっていることもあった。
…そう、つまりオレが掃除していたのは、そういう時の油だったりするのだ。
製作中には何も言わない。何せそれでオレも養ってもらっていたのだから。居候のオレが言えた義理じゃない。
だからもう、終わった途端に、オレはもう、この時とばかりにぐちぐちぐちぐち、言ってやっていた。露骨にブラシを掛けながら。
そして時々、「ちょっと言って来る」と言って、スケッチブックを手に、ふらっと出かけてしまうこともある。
そういう時には、短ければ三日、長ければ一週間は帰らないことがある。
洗濯場で会うおばさん達もあはははは、と言う。
「あのひとは前からそうだよ」
「仕方ないひとだねえ」
そうか、仕方ないひと、なのか。オレは妙に納得していた。
でもまあ、その「仕方なさ」が、Jの様にオレに対する悪意ではないから、気楽だった。
ただ、それが長くなるに連れて、オレの中に、だんだんと寒々しいものが溜まってくることに気付いた。
ロブが居る時には、仕事の合間合間に、奴に何かしら話しかけたりして、オレは退屈しない。製作中で話しかけてはいけない時でも、その時には、それを気に掛けているオレが居る。
だけど彼が居ないと。
今まで忙しさに取り紛れて、考えないでいられたことが、あれこれと浮かび上がってくる。とりわけ、ロブが「いい奴」であるだけに、オレは。
だからつまり。
オレの様な奴が、こんなところに居てもいいんだろうか?
そんな問いが、オレの中で、渦を巻き始めるのだ。
だってオレは。
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