第5話 まあ何とかまとまったぜ。未来を見ようや。

 時計の針は、日付が変わったことを告げていた。

 眠気はとうに峠を越し、俺は妙に頭の中が澄み渡っているのが不思議だった。

 彼はゆっくりと身体を起こすと、それまでに聞いたこともないような低い声で言った。ああここまでキーか下がるのか―――


「あんた最低だ」


 俺は掴もうとした手が止まるのを感じた。


「最低だよっ!」


 扉を転がるようにして出ながらも、カナイは悪口雑言を投げていく。

 それでもカナイの声は充分以上に魅力的だった。

 俺は半分開いたままになった扉をぼんやりと眺めながら、煙草に手を出した。灰皿は転がったままだった。床の上には、灰も染みも一緒くたになって散らばっていた。

 俺は馬鹿か。

 ふとその惨状から離れた所に目をやると、ダークグリーンの上着だけが、忘れ去られたままになっていた。



「何やお前、しけた面やなぁ。梅雨にはまだ早いで?」


 雨の降る夜、「最近絶好調」のEWALKに俺はまた付き合っていた。


「何やそれ」


 紺野は俺の持ってきていた袋を見て訊ねた。ああこれ、と俺は厚手不透明ビニールの袋を持ち上げた。中身を出して見せると奴は不思議そうな顔をした。


「何やそれ… 制服やないか」

「制服だよ」

「制服だよ、やないで! 何でお前がそんなもん持ってんねん?」

「忘れ物」


 嘘ではない。忘れ物だ。もう十日は経つ。全てのことが、保留になっていた。バンドのことも、バンド以外の人間のことも。


「ふーん… 忘れ物か。ほな、お前その持ち主が、ここの近くの名門私立ってことも知ってんやろな」

「名門私立?」

「お前、だから目ぇ悪い言うんや! ちゃんと普段も眼鏡掛けぇ! ここの近くに○○○ってあるやろ!」


 奴はさすがの俺も聞き覚えがあるくらいの小・中・高一貫教育で有名な学校だった。確か偏差値もずいぶんといいはずだ。


「そこの制服やん。見たこと無いなんて言わさへんで!」


 そう言えばそうかもしれない。ありがちな制服として認識していたが。


「またお前、誰かこましたんか?」

「アホなことぬかすな!」

「コトバ伝染っとるんやないで! お前が言うと気色悪いわ」


 まあそれはともかくとして、「こました」のも事実だから仕方がない。俺は黙った。言う言葉が見つからなかった。


「そう言や、SS、何や、いきなり解散やて?」

「え?」


 突然変わった話題に、俺は顔を上げる。


「風の噂や。全部が全部本気に取るんやないで? ヴォーカルとベース、ギターとドラムで分裂しおったんや」

「何でまた…」

「知るか! そういうのは、噂で聞くもんやないで」


 それはもっともである。直接会って、話をつけたいと思った。

 ところが俺は、全然奴のことを知らないことに気がついたのだ。

 ライヴハウスの、S・Sの連絡先は、向こうのギタリストのミナトの所だった。だがそれは分裂した向こう側の奴である。さすがに連絡をつけにくい。ライヴハウスの事務所に電話しようと迷ったまま、俺は十五分程うなっていた。

 何やってんねん! と紺野のどつき入りの罵声が無かったら、きっとそのまま止めてしまったに違いない。


「あ、ミナト君? 加納です。RINGERのケンショーだけど」


 何やら自分で言っていて、ひどく間抜けな台詞に感じる。


『あ、お久しぶりです』

「実は、そっちのカナイ君の連絡先を」

『……ケンショーさん…… 今、それを…… 俺に聞くんですか?』


 向こう側で、重い沈黙が数秒流れた。


『聞いてませんか?うち、分裂… 解散したんだって』

「聞いたよ。だけど、彼につながる線が君しかないから」


 再び重い沈黙。携帯を握る手に、ぞわりと違和感が走る。汗が手のひらににじむのが判った。


『ねえケンショーさん?』


 ミナトの口調が変わった。妙に明るい。笑い声まで含んでいそうな。


『はっきり言います。俺達は、奴に切られたんですよ? 何でだと思います? あんたのせいですよ?』


 やっぱりそうか、と俺は受話器を握りしめる。予想していた答だったが、こうストレートに、それも同じギタリストに言われると、こたえる。

だが。


『俺、こないだ奴が、寝込んでるから練習休みたいって言うから訪ねて行ったんですよ。滅多にないんですよ?あいつがそんなこと言うなんて』


 そうだろうな、と俺は思う。真面目な奴だろうから。


『で、様子変だったから問いただしたら――― 何ですか――― あんた何考えてるんですか! それで、奴が欲しいんですか?!』

「違う…」

『何処が違うんですか!?』


 返す言葉もない。あいにく、どちらも本当なのだ。奴の声が欲しい。奴自身も欲しい。

 それに関しては、一方的に、俺が悪い。


『なのに何ですか……』


 ミナトの声から力が抜けていく。


『あいつ、そのことに怒っているくせに、それでも』

「それでも?」

『言われましたよ?それでも、あのギターで歌えたら嬉しいって』


 頭の血がいっぺんに足先まで落ちたかと思った。

 ブラックアウトって、ああこんな感じだったっけ、と妙に冷静に頭が考えている。


『あんたの、ですよ? 判ってます? 帰ってきて、頭も混乱しきってて、だけど』

「だけど?」

『たまたま入れっぱなしだった、あんた達の音、点けてしまったんですよ。あんたの音、あんたのギターを聞いてしまったんですよ。奴が何って言ったと思います? やっぱり自分はこの音が好きなんだって』

「…!」


 たとえ、相手がどんなひどい奴であろうとも。ああ全く。俺達は何処か似ている。


『あの馬鹿が何でバンド始めたのか知ってます?』


 あいにく俺は知っているのだ。何もそこにつけ込んだ訳ではないが、知っていただけにやや胸が痛む。

 黙っていたら、やがて彼は声のトーンを落とした。


『…ああ、すみません。判ってるんですよ、俺の力不足だって。俺がもっといい腕してたら、奴は何されても…』

「…」

『繰り言ですね。ああ全く嫌だ嫌だ。でも、正直言って、悔しいし… 一回しか言いませんからね』


 そして続けて、八桁の数字がさらさらと向こう側から聞こえてきた。何と携帯ではなく自宅だ。

 俺は慌ててサインペンを取ると、近くに居た紺野の白い腕に書き殴った。

 通話を切ったら、何すんねん! とすぐさまどつかれたのは言うまでもない。



 だがそれだけでは彼のところにはつながらなかった。

 もちろん電話自体はつながるのだ。もともと留守がちな家らしいし、出ても、妙に色気のある母親の声が帰ってくるばかりだ。

 今時の男子高校生にしては、携帯もスマホも持ち歩かないなんて。


「家か学校まで行って見ればええやん! ほんなら」


 俺は首を横に振った。それはまずい、と思う。

 昔めぐみの手を引っ張った時のことを思い出す。彼を守ろうとした外野。いくらやや周囲が変わったとは言っても、それでも。


「家も学校も駄目だ」

「だけど他に本人が居るとこ、お前知っとんのか?」


 考える。彼が行きそうなところを。スタジオ? バイト…


「駅前の、ファーストフード店」

「何?」

「そこで、夕方バイトしてるって聞いた…」

「お! ええやん! そうと決まったら行き!」


 紺野は俺の背を大きく押した。



 駅前という地域には、ファーストフード店が七軒あった。


「何で七軒もあるんだ!」

「店名聞かんお前があかんねん!」

「だいたい何でお前ここに居るんだ!」

「おもろいからに決まってるやないか! このどアホ!」


 何を考えているのか、紺野はここまでついてきた。

 ファーストフードとは聞いたが、何のファーストフードだったのか、俺は聞いていなかったことを思い出した。

 眼鏡を持って来なかったことを心底後悔した。ぼんやりした視界では、カウンターの中、もしくは奥に居る(だろう)奴の姿を見つけられない。無論紺野は協力なんぞしないだろう。俺だってされたくもない。

 仕方がない、と駅に一番近いマクドから飛び込んだ。

 時計は六時を指していた。そろそろぎりぎりだ。カウンターを見渡す。それらしい奴それらしい奴。ぼけた視界では、それすらも判別できない。仕方ない、と俺は客の列に並んだ。


「いらっしゃいませ! ご注文は何に致しますか?」

「あ、ご注文はいいんです。えー… そちらの店員の、カナイ君って今日来てますか?」


 背に腹は代えられない。いなければいないと言うし、居ればそれでいい。真っ直ぐぶつかるしかないだろう。


「カナイ? …さあ… そういう人はうちには…」


 ありがとうございました! と俺は一言投げると、出口へ向かう。駄目やったんか、と紺野は戸口でつぶやく。

 幾つかの店で同じことを繰り返していると、さすがに自分が一体何をしているのか、と考えてしまう。

 もしかしたら、店の奴が彼とつるんでいて、俺に嘘をついたとも…

 ぶるん、と俺は頭を振る。考えるのは後だ。全部終わってからにすればいい。


「これで最後だ」

「ちょぉ、待てぇ!」


 その声にふっと後ろを向くと、紺野は肩で息をしていた。


「何だよ、勝手について来たくせに」

「お前、それでも、ペース早いで! 俺もよぉこっちの子には、早い言われるけど、お前、それ以上やないか!」

「知らん」


 ぷいと俺は背中を向けた。思いがけない勝利である。

 目の前にはドーナツ屋があった。飲茶の赤い垂れ幕、その中で肉まんをくわえている女性が、中のライトに透けて強く目に飛び込む。

 他のファーストフードよりはおっとりとした店員が、いらっしゃいませと愛想を飛ばす。


「ご注文は何に致しますか?」

「あ、注文は…」


 そう言った時だった。中の声が耳に入ってきた。


「それではお先に失礼しまーす!」


 周囲のざわめきを、その声は突き抜けてきた。背筋が震えた。俺は慌てて外へ飛び出した。店員と紺野が、別々の方向で、何だ何だと目を丸くしている。

 裏口だ。

 よくそういう時に頭が働くものだ、と言われるが、俺は非常時には強いらしい。頭ではない。身体が勝手に動くのだ。

 それにだいたいこういう場所の入り口出口の構造は知っている。ダテにバイト歴が長い訳じゃないのだ。

 裏手へ回ったら、奴が自転車に乗りかけたところだった。俺はその前に飛び出した。


「ちょっと待て! カナイ!」

「ケンショーさん?!」


 うつむき加減に走り出そうとしていたカナイは、俺の声で慌ててブレーキをかけた。

 だが、いくら自転車とは言え、走り出そうとしたものが急に止まれる訳ではない。バランスを崩した奴と、それを止めようとした俺は、一緒に側溝に突っ込んだ。


「痛ぇ~!」

「たたたたた」


 突っ込んだのは自転車の輪だが、その際に二人とも思いっきり転んだのは言うまでもない。

 アスファルトは、決して転んだ時に優しい地面ではない。ざらついた表面に勢いよく滑り込んだ俺と、衣替えして薄着の奴は、擦り傷の嵐だった。


「血、出てるじゃないですか!」

「あ? ああ、そう言えば」


 俺は左腕の裏をぺろりとなめる。鉄の味。あられもない記憶が、一瞬脳裏によぎる。


「お前は大丈夫か?」

「俺は… ああ、大丈夫。切れていないから…」


 座り込んだまま、奴はズボンのポケットに入ったハンカチを取り出した。さすがに時間が時間だけにややよれている。

 それでも俺は、サンキュ、と受け取ると、片手で巻き付け、結んだ。自転車はひっくり返ったままだ。


「上手いんだな」


 敬語が消えている。ああ、と俺はうなづく。


「よくあることだし、そんな時にいちいち結んでくれる奴もいないからな」

「ふーん―――」

「こないだは、済まなかったな」


 俺はつとめてさりげなく言ったつもりだった。だが奴の顔はリトマス試験紙よろしく、実に素直に赤くなった。


「―――いーんだよ、別に」

「そうか?」

「そうかそうじゃないかって、もう済んだことだろ! 俺があれこれ言ってどうなるって訳じゃないじゃないかっ!」


 ま、それはそうだ。


「ところであんた今日は何の用なの」

「ああ」


 きゅ、と口にくわえてハンカチに結び目を作る。


「用がなければあんたはわざわざ俺の所なんか来ないでしょ」

「確かにそうだな」


 ふぅ、とため息をつく。

 一体何処から切り出したらいいものか。危機対処法。紺野の声が背中から聞こえてきそうだ。何とろとろしてんねん!

 そうだな紺野。そんな場合じゃないよな。そんなことしてたら、お前が来ちまう。


「SS解散したんだって?」

「ああそう、誰かから聞いたんだ。誰? 店長?」

「いや、ミナト君から」

「奴から」


 カナイはその名を聞いた途端、目をそらした。


「それで?」


 俺はうなづいた。


「RINGERに入って欲しい」


 驚くほどすっ、とその言葉は俺の口から出てきた。


「頼む。一緒にメジャーへ行こう」

「メジャーへ」


 うなづきながら、俺は言葉を進めた。


「俺はお前の思うように、ひどい奴だから、お前が見込みないとしたらさっさと切り捨てる。でも、お前をもっと、いい声で歌わせてやれる。奴よりも、誰よりも」

「は…… すごい自信だな」


 奴の視線がこちらへ戻る。そうだ逸らすな、逸らさせるな。


「俺は全然、社会的にはロクでもねえ奴だが、音楽にだけは、自信はある。根拠なんかないし、勘違いかもしれないけれど、何か知らないけれど、ある。なくちゃ七年も、こんな髪してこんな生活してないさ」

「だろーね」


 呆れたような口調で、奴はつぶやいた。


「めぐみさんは、いいの?」

「良いも悪いも。俺が、捨てられたの」


 ふーん、とカナイは気の無い声でうなづいた。


「とても優しいめぐみ君は、俺に自分を捨てさせる前に、自分から逃げてくれたのよ」


 そう。とても優しかった。優しすぎて、気づけなかった。一度も俺の前では泣かなかった、彼の。

 過ぎたことは仕方がない。だけど俺は忘れないだろう。忘れてはいけないのだ。


「だとしたら」


 ふと俺は驚いた。カナイの顔には、最初に会った時の様な不敵な笑みが浮かんでいた。


「あの人は馬鹿だ。そしてやっぱりあんたひどい奴だ」

「思った通りだろ?」


 俺は苦笑する。


「ああ全く。めぐみさんは本当に、あんたみたいなひどい人に惚れ込んでいたんだね」

「可哀想に」

「そう、可哀想だ。だから俺は絶対あんたになんか惚れない」


 自信に満ちた声が、断言する。俺はあの脳天直下の衝撃がやってくるのを感じた。


「だから遠慮するなよ。俺も容赦しないから!」


 ああ居た居た居た、とけたたましい紺野の声が聞こえてくる。できればもう少しゆっくり来て欲しかった、と俺は思う。


 誰だって第三者にあまり見られたくない光景というものがあるのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

警鐘を鳴らす声 江戸川ばた散歩 @sanpo-edo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ