第3話 距離を縮めてしまった―――そして妹の指摘

「あ、ケンショーさん!」


 バイト帰りにその声を聞くとは思わなかった。そしてその声に振り向いた瞬間、俺はもう一つ驚いた。


「カナイ! お前高校生だったんか?」

「え? そーですよ?知らなかったんですか?」


 自転車を降りたカナイは明るく答えた。


「知らなかった」


 俺は素直に答えた。

 うちのメンバーよりはだいたい若いとは思っていたが、せいぜいがところ、めぐみ程度だと思っていたのだ。めぐみは十九の時にうちのバンドに入ったから、今年で二十二のはずだ。

 ところが高校生! いい所十八。若い。若すぎる。

 ダークグリーンのブレザーに校章のエンブレムがついている、最近の学校によくあるタイプの制服だった。ズボンはグレイで、きちんと折り目正しい。肩よりやや長い髪も、後ろで簡単にくくっている。


「そうやって見ると、ずいぶん真面目な学生に見えるよな」

「嫌ですねえケンショーさん、俺真面目な学生ですよ?ただ音楽やってるだけですもん」


 まあそれはそうだ、と思った。実際俺がこっちに出てきてからの七年で、ずいぶんと学生の状況も変わってきているのだろう。俺なんか、伸ばしかけていた髪をよく切られたものだ。その反動か、今は殆ど切らないが。


「バイト帰りですか?」

「そ。まあ働かなくちゃ食えねえし」

「大変ですねえ」

「お前は大変じゃなさそうだな」

「あ、親のすねかじりと思ってるでしょ?」


 まあな、と俺は答えた。


「まあね、一応食うことには困りませんから。でもバンドの費用はちゃんとバイトしてますよ?駅前のファーストフードの店」

「へえ」

「土・日の昼間と平日の放課後二、三時間くらいですけどね、それでもやらないよりはマシですし。それにそのくらいだったらライヴの日でも何とかなりますから」

「へえ、結構真面目なんだな」

「だから俺は真面目なんですって」


 若いなあ、と俺は思った。さすがに七つも離れていると、そう感じてしまうのか。


「じゃあ今日も?」

「ええ、俺もバイト帰りです。ケンショーさんは何のバイト?」

「俺? 俺はいろいろ」


 彼はふうん、とうなづいた。

 実際、俺は色々やっていた。さすがに茶パツが増えに増えた今日び、昔よりはバイト口も見つけやすくなった。

 昼と言わず夜と言わず、職種をそう選ばなければ、何かしら働き口はある。

 呑み屋、ギョーザ屋といった飲食業は言わずもがな、ビル清掃だの警備だの。警備では、競輪場とかの道路に立つものもある。炎天下の日など、暗色の制服が暑くて、倒れるかと思ったこともしばしばある。土木関係もやったこともあるし、安いが気楽なレンタルビデオ屋も経験がある。


「こっちが家か?」

「うん。意外と近かったんですねえ、あ、もっとも、ここから自転車で十五分はありますけど」


 それならまだ結構あると思う。


「ケンショーさんの家はこの近くなんですか?歩いてるってことは」

「まあな… 何だったら寄ってくか?」


 言ってしまってから、どうして言ってしまったんだろう、と思うことがある。

 いいんですか? と彼は顔をほころばせた。


「へえ、ここだったんだ…」


 彼はアパートの二階へ続く階段を登りながらつぶやいた。


「一人暮らし… じゃないですよね?」

「まあね。ちょっと前までは、同居人が居たけど」

「もしかして、それってK… めぐみさん?」

「ああ」


 別に隠すことでもない。めぐみがいなくなったことはこいつは知っているのだから。

 ふーん、とつぶやくとカナイは辺りを見回した。つられて俺も見渡す。そんなに見て、すぐに一人かそうでないかなんて判るものだろうか。疲れてもいるせいか、眼鏡をかけない視界はいつも以上にぼんやりしている。


「何か飲むもの…」

「あ、俺自分でやります」


 そう言ってカナイは冷蔵庫を開ける。結構マメなんですね、と彼は並んでいるタッパーを見て感想を述べた。


「いやそれは妹の差し入れ」

「あ、妹さん居るんですか。いいなあ」

「いいなあって… お前よりは年上だぞ、どう見ても」

「きっとケンショーさんの妹さんなら美人ですよね」


 俺はやや頭をひねる。


「美人は美人だが… 何でそこで俺の名を出す?」

「あれ? だってケンショーさんだって恰好いいじゃないですか」

「あんがとさん。お前メシはまだ?」

「はい」

「じゃあ食ってけ。いくら作り置きったって、そうそう大量に食えるかっていうんだ」


 同居人もいないのに。


「もしかして、あんた**の人ですか?」


 食事中、いきなり奴はそう切り出した。


「あれ、よく知ってるな。そーだよ。郷里は**」

「だって味噌汁が黒い…」

「ああ。まあね」


 黒い、とはやや言い過ぎだろう。だが関東で普通に合わせ味噌のものに慣れている者には、確かに「黒い」。俺の郷里ではごくごく普通なのだが。


「嫌ならいいけどな?」

「あ、別に平気です。味噌おでんは好きだし」


 折り畳みテーブルの上には、タッパーが所狭しと並んでいた。煮しめに佃煮、ひじきの炒め煮、白和え、おひたし… 冷えても味が落ちないものばかりである。そしてこれだけは、暖かい、炊き立てごはんにとうふとねぎの味噌汁。


「妹さん、料理上手ですね」

「お世辞言ったって、何も出ないぞ」

「いや本当。うちの母親なんか、カルチャースクールで遊び回っていて、最近なんぞ、できあいをレンジでチン! ですよ全く。最近まともに味噌汁なんか食ったこともない」

「親父さんは?」

「営業系ですからね、家でなんか滅多に食事しやしません。ま、そういうウチのおかげて俺は結構放任に育ちましたけど」

「へえ」

「ケンショーさんの所は、反対されてたんですか?」

「え?」


 つるりと里芋が逃げる。


「バンド」


 ああ、と何とかつまみ上げながら、俺はうなづいた。


「結構あっちも、最近はバンドシーン、盛り上がってるのにわざわざ出てくるなんてすごいな」

「そんなことないさ。まだあの頃は、何も知らなかったから、バンドやるんならこっちへ出なくちゃならない、って… まあごくごく単純な理由」

「東京の人かと思ってた」

「違う違う」

「だって妹さんがどうのって言ったし」


 俺はひらひらと手を振る。


「妹は地元の短大をちゃんと卒業して、こっちには就職しに来たの。俺は高校卒業するの待ってすぐに家を飛び出して」

「へえ」

「学校ん時も、何度も親父とケンカして、お袋さんを泣かせてさ。俺長男だし。あとは妹が一人だし。妥協しても良かったけどさ、でも」

「でも?」

「あいにく、見てしまった夢を無かったことにはできなかった」

「くっさぁ…」

「くさいよな、全く。本当。でもそういうもんだ」


 確かに夢を見なかったら。だけど。

 かたん、と箸を置く音が聞こえた。


「聞かなきゃ良かった」

「え?」

「何であんた、そういう奴なんですか」

「…は?」

「俺が初めてあんたのギター聞いた時、この音出す奴はこんな奴だろうな、なんて、思ってしまったのと同じじゃないですか…」


 はあ、と俺はあいづちとも何とも言えない声を立てた。

 片手で顔半分覆う。どうもこういう言葉は、聞いていて恥ずかしい。何となく天井に視線を飛ばす。


「お前うちのバンドの音聞いてたんだ?」

「聞いてましたよ! …だから、何だったかなあ、一昨年、高校入ったばかりのときに」

「見たの?」

「その時は、友達のつきあいだったんだけど」


 カナイはこの間のとは別のライヴハウスの名を出す。


「それって、対バンが四つくらいあった奴じゃないか?」

「そう。友達の彼女がそのうちの一つのバンドの追っかけやってるからって、何かチケット回されたらしくって。何か可哀想で」

「ありがちありがち」

「そぉですよね。ちょっと前なんて俺、クラスの奴にチケット売ってましたもん。でも変なもんですよね。だって俺、それまで全然バンドなんてやろうとか思ってなかったんですよ。なのに…」

「へえ、そうなんだ」


 それは意外だった。


「だから俺、真面目だって言ったでしょ? 中学の時なんか、スポーツ少年で、髪なんかものすごい短かったし」

「想像できねえ」

「みんなそう言いますよ」


 確かに想像できなかった。目の前で、高校生特有の食欲を見せるカナイは、肩よりちょっと長い髪を無造作に後ろでくくっている。それが無性に似合っているので、それ以外の頭が考えられないのだ。


「そういうケンショーさんは、どうなんですか? 昔は短かったとか」

「そりゃあまあ。**県は妙にそういうの、保守的でさ、厳しいとこだったから、もう大変」

「じゃあ」

「中学なんて、丸刈りよ丸刈り! 今から考えると冗談じゃねえ、って感じするけどな。反動で高校は伸ばしだしたけどさ、肩より伸びたらもう」

「教師が『切れ』って?」

「言うどころじゃねえよ。ハサミ持ってきて切りやがる」


 げ、と彼は顔を歪めた。


「ひでぇなあ」

「そ。俺の時代はひどかったの。お前今の時代で良かったね」


 本当にそう思いますよ、と彼は言った。

 さすがに育ち盛りの青少年はよく食べた。カナイは殆どのタッパーと、炊いたご飯をたいらげていった。俺は妙にその空になったタッパーを見て安心した。

 中身が余ってしまうことは、どうしても俺に同居人の不在を思い出させてしまうのだ。


「それじゃどうもごちそうさまでした」


 律儀に彼は頭を下げる。


「またいつか来てもいいですか?」

「ああ」


 俺は気楽に答えた。彼と話すのは結構楽しかった。妙なものだ、と思う。七つも年下の奴とテンポが合うという感覚は。おまけに向こうは自分のファンだったと白状したようなものなのに。

 アパートのある引っ込んだ通りから出る辺りまで、俺は奴を送ってやった。カナイはさっと自転車に乗ると、人も車も通りの少なくなった道をすべるように走り出した。

 ふう、と息をつくと、俺はふっと通りの向こうを眺めた。妹のアパートが通りの向こう側にあるのだ。

 美咲は俺の所へよく来るが、俺は彼女の所へ出向いたことは滅多にない。妹が本当に一人暮らしかどうかも考えたこともない。

 ジーンズのポケットには財布が入ったままだった。通りの向こうのコンバニへ買い出しに行くつい でに、妹の部屋を来襲してやろうか、と俺は考えた。

 コンビニでビールと煙草を買うと、そのまま妹の部屋に向かった。安いのが取り柄のような俺の住処に比べ、彼女の部屋は、一応マンションと名のついた所だった。建ってから長いので、見かけのわりには家賃は安いのだ、と言っていたことを思い出す。

 五階建てのマンションの、二階。

 その真ん中辺り。明かりのついている窓、ついていない窓、一つ一つをぼんやりと眺める。

 目が悪いから、どの窓も同じに見える。違いと言えば、明かりのついた窓の、カーテンの色くらいなものだろう。見事なくらいに、どの家も物干し竿をかけ、一つや二つの洗濯物が忘れられたかのように掛かったままになっていた。

 目は妹の部屋の窓に止まる。たしか右から四つ目と言っていた。洗濯物がやはり掛かっている。

 と、その窓が開いた。俺は目を細めて、焦点を合わせる努力をする。

 あれ?

 美咲ではない。

 俺はさらに目をこらした。美咲ではない。確かに彼女のTシャツは着ているが、妹ではない。

 ぱんぱん、とタオルを勢いよく伸ばしてから背を伸ばして物干し竿に腕を伸ばす。やや長めの半袖から白い腕が伸びる。俺はそれに見覚えがあった。


「―――めぐみ」



 翌日俺は、美咲を電話で呼び出した。

 何なのよ兄貴わざわざ、と彼女はいつもの様に俺を罵倒する言葉を幾つか投げた後、近くの公園を指定した。兄が慢性金欠であることをよく知っている妹というのは実に憎たらしい。夕方であるにも関わらず、兄に公園などを指定するのだから。

 ベンチに腰を下ろして、ぼんやりと妹のマンションの窓を眺めていた。今日は閉じている。

 五分程して、美咲はやってきた。


「どーしたのよ兄貴、突然」

「お前、めぐみをかくまってるだろ!」


 美咲は一瞬きょとんとしたが、俺が向いている方向を見て、ああ、とうなづいた。


「何だ、やっと気付いたんだ。やっぱり鈍感だぁね」


 俺は妹のその言葉に、息が止まるかと思った。俺は妹に詰め寄った。


「何であいつが、お前の所に居るんだ!」

「拾ったのよ」

「拾った?」

「そう。道で拾ったの。可哀そうに、泣くことも忘れてた」


 妹は肩をすくめた。俺はそんな自分のもと同居人の姿が想像できなかった。


「朝っぱらからあんた達みたいな人がふらふらしてるなんて変じゃない。感謝しなさいよ? 会社に行く途中で出会っちゃったから、わざわざ有給休暇とったんだからね」

「…ああ …なる程」

「何か、明け方くらいから、歩いてたみたいよ。何かすごく疲れてたもん。で、とりあえずお腹の空いた猫にはごはんをあげて」

「ってことは、朝の前にはもうウチを出てたったことか?」

「じゃないの? そんな感じだったわよ」


 そんな筈はない、と俺は思った。それらしい素振りはその前の夜にも全くなかった。

 何と言っても俺は、その前の夜は非常に気持ち良かったライヴのせいで呑みすぎてしまったくらいなのだから。

 だが事実は予測を越えるものだ。


「何でだ? 俺にはさっぱり判らん」

「詳しいことは知らないわよ。でもあの子が言ってたのはね、自分はもう限界だ、ってことよ」

「そんな筈はない」


 あんなライヴができたのに。


「そういうのは、他人が決めることじゃないでしょ? そういうところが兄貴は嫌よ。兄貴がどう思おうと、本人はそう思ってたの。それでもう駄目だと思ったようよ」

「どうして」

「メジャーの話、来たんでしょ?」


 ああ、と俺はうなづく。


「自分はメジャーに行ってまでやれる自信はないって」

「え?」

「だって兄貴は、『声』に惚れるじゃない。昔から、いつでも」

「だからそれが?」

「それが男だろうが女だろうが構わなくてさ。おかげであたしまで影響受けちゃったじゃない… まあそんなことどうだっていいわ。限界を決めつけるってのは兄貴のモットーには反するだろうけどさ、メジャーへ行けば、兄貴はまた視野が広がるじゃない。音楽だけできる状況になれば」

「ああ」


 それは俺の望んでいることだ。


「だけどめぐみちゃんは、それが辛かったみたいよ。兄貴はあの子がどうであろうと、きっと音楽に関しては、どんどん前ばっかり向いて手を広げてく。無論それが悪いなんて言わないわよ。いい傾向だとあたしも思うわよ。どーせならBIGになってよ」

「言うなあ」

「言うわよ。あたしは。だけど、あの子はそうじゃない。そうなった時、兄貴の求めるヴォーカルにはどーしても届かないだろう、届けないって」

「…」

「あたしの胸の中で泣いてたもん。ここ最近で、やっと泣けたのよ、あの子」

「泣いたのか?」

「泣いたわよ」


 知らなかった、と俺は思った。訳もない涙なら、少しは知ってる。だけど、そんな泣き方は。


「届かないだろうから、きっといつか兄貴は自分を見捨てるから、その前にって」

「そんなこと…」

「しないって言い切れる? 兄貴が」


 俺には反論できなかった。そうだ確かに。もしも彼が、メジャーに行って、どうしても伸び悩んで、バンドの成長について来れなかったら…


「兄貴はいつもそうよ。兄貴が捨てられたって思っているけどさ、みんな同じよ。みんな兄貴に捨てられるのが怖くて、その前に逃げるのよ」


 !


「心配せずとも、あの子はしばらくあたしが引き受けるからね。落ち着いたら新メンバーのライヴ観に行かせるから」

「お前が?」

「兄貴の影響って言ったじゃない」


 ああそうだ、と俺は思い出した。自分が声で男女問わず惚れるののに影響されてしまって、この妹は、男女問わず守れる存在を愛してしまうのだ。

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