第2話 その声に落とされてしまった

 頭のてっぺんから指の先まで、何やらむずむずとした感覚がまだ走っている。俺はその声のする方に振り向いた。そこには、肩よりやや長く髪を伸ばした男が部屋に入ろうとしていたところだった。


「ああ、カナイ君」

「こんにちは行末さん、週末はウチもお世話になります。それより今の話、本当ですか?」


 カナイと呼ばれた彼は、飛び上げたすっとんきょうな声とは対称的にていねいな言葉使いで店長に訊ねた。


「本当だよ」

「じゃあ両方中止ですか?」


 言いながら彼はつかつかと中の、俺達が話し合っていたテーブルの側までやってくる。小気味いい程の早足だ。


「あ、いや、そういうことじゃないんだ。結構君ら目当ての客が最近多くもあるしね、それにこれだけ急だと、告知もできないし。だからRINGERの方にはトーク・ライヴという形を取ってもらおうかと」

「…なあんだ…」


 がくん、と彼は肩を落とした。

 そしてその時俺はやっと、彼の姿をしっかり見ることができた。近眼なのだ。

 まあ、眼鏡なしでも普通の行動は取れるが、人の顔などはある程度近くに来ないと把握できない。それこそ小学校の頃からそうだったので、眼鏡をかけるのが基本的には好きではない俺は、人の顔よりも、声の方に敏感になってしまっていた。

 まず声。そして見かけは二の次三の次だった。

 だがその見かけも、決して悪いものではなかった。

 雑誌や情報TVで見た時よりは地味な恰好をしていたし、すっぴんだったが、それでも何やら実にくっきりとした顔立ちをしている。目はさほど大きくもないが、暑苦しい印象を与えない分好感が持てる。


「ま、だから、せっかくほらケンショーも来ていることだし、カナイ君打合せとかあれば、していけば?」

「ケンショー?」


 彼はその時やっと俺に気付いたようだった。


「ギターのケンショーさん?」

「あ? ああ」


 端正で、大きすぎない目がこちらを向いた。そして口元が軽く上がる。


「噂は聞いてます。俺、対バンの――― いや、対バンする筈だったバンド『S・S』のヴォーカルのカナイです。よろしく」

「カナイ?ってどう書くの?」

「仮の名に、井。結構変わった名でしょ」

「ああ、確かにそう見ないね」


 そう言えばそうだった。にこやかとまでは言わないが、機嫌悪くはなさそうな顔で、そんなことを言う。


「でもメンバーが失踪なんて、穏やかじゃあないですねえ」

「カナイ君! べらべら喋ったりするんじゃないよ!」


 店長がやや厳しい顔になって言う。


「判ってますよ。でもRINGERのヴォーカルって、俺結構好きだったんだけどなあ、あの歌」

「サンキュ」

「でも」


 彼はにっと笑った。それまでの社交用スマイルではなく、何処か自信と嘲りが混ざったような、そんな物騒な笑み。ぞくり、と背筋に寒けが走るのを感じた。


「でもそれだったら、俺達はダッシュしてあんた達を抜いてしまってもいいんでしょうね」


 思わず俺は立ち上がっていた。

 冗談ですよ、と彼は付け足した。上等な笑みはそのままに。



 …やばいな。

 帰り道、俺はそんなことを考えながら歩いていた。

 何がやばいかと言うと、今の声なのだ。

 俺は人に惚れる際、まず何よりも声に左右される。不思議なもので、その場合、男も女も関係がないらしい。

 その場合、一般的に聞いて特別いい声とか、美しい声とかである必要はないらしい。

 とにかく何処か、俺のツボにはまる声。それを出す奴であれば、その時点で、そいつが男だろうが女だろうが、美人だろうがそうでなかろうが、大きかろうが小さかろうが、どうでもよくなってしまうのだ。

 まあさすがに年恰好ばかりは、そうそう許容範囲が広くはないのだが、それ以外に関しては異様にレンジが広いらしい。

 目が良くないから、外見はそう気にする質ではない、ということが変に幸いした。だから、同居人だっためぐみもそうだった。彼に関しても、やはり声に惚れたのだ。

 その際、彼の、成年男子にしては可愛らしい容姿だの、割と落ち込みやすい性格だの、もしかしたら野郎は恋愛の対象外である、とかそういったことはまるで気にならなかったのだ。

 当時めぐみは、ごくごく堅気の専門学校生だった。出会ったのは、偶然だ。

 俺はその頃、チェーン店飲み屋でバイトしていた。春先だった。めぐみは新入生歓迎コンパか何かで団体でやってきていて、カラオケで楽しそうに歌っていた。

 何やらずいぶんと上手い子だなあ、とその時俺は、エプロンを付け、ビールびんを片手に二本ずつ持ちながら思っていた。

 何せ彼はその時、男性ヴォーカルの歌も、女性ヴォーカルの歌も、基本のキーで歌いこなしていたのだから。

 そして俺はその声に惚れて、彼をこちらの世界に、バンド仲間に引きずり込んでしまったのだ。コンパの二次会に行こうとする彼の手を思わず掴んで、住所と電話番号を訊いてしまった。

 俺は当時も金髪で長髪だったから、きっと彼は当初恐がっていたに違いない。実際周囲にいた同級生達も、彼をかばおうとしていたふしがあった。

 だが後で電話したら、意外にもあっさり出てきてくれた。

 そして、さすがに当初彼は俺の言うこと自体が理解できなかったらしい。そりゃ当然だ。歌っていた声が良かったから、バンドのヴォーカルに。その位は許容できるだろう。だが、歌っていた声が良かったから、付き合ってくれというのは。

 だが不思議なもので、それでも時間が経つにつれ、ものごとはなるようになってしまったのである。めぐみだけじゃない。過去俺が付き合ってきた奴が、それこそ男女問わず、全てがそうだった。

 最初は俺の方が追っていた筈なのに、気がつくと、相手が俺を追っている。そして俺はその相手に安心しているうちに、逃げられてしまうのだ。

 奇妙なくらいに彼らは同じ行動を取った。そして妹はそのたびに甲斐性なしと俺を責める。

 まあ当然だ。そして俺はまた懲りずに、「声」を捜してしまう。無意識のうちに。前の相手への未練も忘れて。ひどい奴だ。

 張り巡らせたアンテナに引っかかる声を捜してしまうのだ。



「七時だよーっ!RINGERだーっ」


 開演時間が小津の声で告げられた。

 馬鹿でかい奴の声はマイクを通すと、空気がびりびり震えた。小津はこういう時のトークが上手い。バンドの中でも「面白い」部分をいつの間にか担当しているようなふしがある。

 まあドラマーにしては奴はあまりがっちりとした体型ではなく、しかもジャニーズ顔だ。おまけに、ただのギター馬鹿の俺なんかより、ずっと「普通」のファッションセンスを持っている。それに明るい性格と相まって、「恰好いい」とはそう言われないにも関わらず、彼は人気があった。


「ごめんねー、今日はKちゃん、急に熱出して倒れちゃって」


 えー、と女の子達の声が飛ぶ。


「そんな訳で、メンバーへの大質問大会としたいと思いまーす」


 黄色い声が響いた。どうやらそれはそれで楽しそうである。まあ仕方がないだろう。ここまで来てしまったら、楽しまないと損、なのだ。

 結局出演順番を逆にした。うちのバンドが先で、向こうのバンドが後になった。

 まともに演っていられたなら、俺達の方が後なのだ。キャリアとか、人気とか色々な面を加味すると。だがトークライヴとなってしまうと、そういう訳にはいかない。客に対してのお詫びという意味もある。


「はいそこの子!」


 小津は司会者か学校の先生か、という調子で、次々と会場のウチのファンを指していく。ファンの子達は、その場で声を張り上げて、くだらない質問を飛ばしてくる。

 さすがに不機嫌な顔はできない。根性で俺は百万ドルの笑顔を振りまいていた。

 そしてすぐに次のライヴが始まった。俺達は結局殆どステージの幕の前でそんな馬鹿話をしていたので、既に向こうのバンドの楽器はセッティングされていた。

 S・Sはルックス重視のバンド雑誌に取材されたこともあるだけあって、何はともあれ整った顔のメンバーが揃っていた。

 上手から見る俺は、さすがに眼鏡をかけていた。

 誰のナンバーだか忘れたが、頭の配線が何処か切れたような女性ヴォーカルに、こんなにでかくていいのか! と言いたくなるようなリズム隊、それにノイズだらけのギターの音がかぶさるSEがかかった瞬間、暗転。フロアが湧いた。

 絹地を引き裂くような声が飛び交う中、彼らは元気にステージに出た。そしてハイハットの音が四つ響くと、演奏が始まった。


「へえ… 上手いな」


 やっぱり上手で一緒に見ていた中山がふとつぶやいた。


「あ? やっぱりそう思う?」

「ああ。お前や俺とはずいぶんタイプ違うけどさ、テクニックは確かだな」

「そうだな」


 上手い下手というのは、イントロ一つ聞いただけでもピンとくる。そこは長く演ってきた者の強みだ。耳は肥えている。

 基本的には、8ビートの曲だ。だけど曲調はマイナー。まあよくインディーズのバンドにありがちな軽い音と言ってもいい。


「惜しいなあ、あのギター」

「何?」


 中山は軽く向こうのベーシストを指す。


「テクニック的には悪くないのに、ベースの音量に負けてやがんの。PAのバランスが悪いのかなあ」

「ああ、そう言えばそうだな」


 俺は気のない返事をする。歌は既に始まっていた。変だ。俺は思う。同じあの声なのに、どうしてあの時のような感触がないのだろう?

 下手から、舞台裏を回って小津もやってくる。ほう、と感心したように奴は腕組みしながらステージを眺めた。


「上手いねー」

「だろ?」

「うん。いや、そうじゃない。おいケンショー、ナカヤマ、フロアにこないだの人いたぞ」


 え、と思わず二人とも小津に視線を移した。


「こないだの人?」

「こないだ、俺達に名刺渡して行ったPHONOの人」

「ウチの為に来たのなかあ…」

「とも考えられるけどさ、ここも狙っているとも考えられねえ?」


 確かにそうだった。それは考えられる。


「不利だよなあ。タイミング悪いぜえ」

「うーん…」


 俺は何と返していいか困った。ステージから聞こえてくる曲は、メジャーコードのメロディアスなものに変わっていた。


「あれ、妙な曲」


 小津がぽん、と言った。あれ、と俺も耳を澄ませた。

 何と言えばいいのだろう。クリーンな音が所々に挟まれたギターのイントロに続いて、出だしのメロディ… Aメロは、俺には結構懐かしいフレーズに聞こえた。完全にポップとは言えないけれど、一度聞けば覚えてしまうような。


「へ?」


 転調。耳から首の後ろにすっと氷を当てられたような感触が走った。Bメロでいきなり転調する。メジャーからマイナーへ。このメロディには懐かしさはない。

 そしてまた元に戻る。サビはメジャーのメロディ。のびのびとした声が、高低・シャープ・フラット慌ただしいメロディを事も無げに歌う。下に敷いたギターの明るい音が伸びるのと相まって、実に気持ち良さそうだ。


 …あれ?


 ふっと頭の中に、何かが浮かんだ。

 鮮やかな、何か。

 俺はそれを捕らえそうとするが、覚めたばかりの夢を思い出せないのと同じように、それはするりと逃げて行った。

 ギタリストは元気に間奏のギターソロを奏でる。ベーシストは、よく動き回るわりには落ち着いたフレーズで次の展開へと向かっていた。

 Bメロが再びやってくる。さっきよりは弱いが、再び何やらすっと首の後ろを通っていくような感触がある。俺は最後のサビに備えた。浮かんだ、鮮やかな何かの正体を見たいと思ったのだ。

 だが努力する必要はなかった。

 テンションは上がっていく。興奮ではなく、ただただ気持ち良く歌っていくテンション。眼鏡のおかげでくっきりと見えるカナイの端正な顔にも笑みが浮かんでいる。この間のやや皮肉げなそれではなくて、もっと単純な。

 背中から、ぞくぞくとした感覚が湧き上がった。サビのメロディ。思いきり、奴が声を伸ばした瞬間、俺はそれを捕まえた。


 花だ。


 淡い、とりどりの色の小さな花が、地平線の見えるくらいだだっ広い平原に咲いている。


 一瞬目眩がした。まるでその、周りに何も無いような平原に、突然一人で立たされた時のような時と同じ感覚だ。

 ひどく怖い。そしてひどく気持ちいい。

 まずい、と俺は近くの機材に手をつきながら思った。

 本気になりそうだ。



「本当に助かったよ~!」


 小津はS・Sのドラムスに抱きついて揺さぶる。泣き上戸なのだ。ははは、と相手の乾いた笑いが耳に飛び込む。

 俺はと言えば向こうのギタリストのミナトとヴォーカルのカナイと話していた。もう一人居るメンバー、ベースのマキノは何やら明日また用事があるとかでさっさと帰ったらしい。


「どうでした?」


とミナトが訊ねた。


「うん、良かった」


 俺は素直な感想を述べる。実際、あの曲の後も、演奏は上手かったし、まとまりのある、それでいて客は熱狂する――― そつの無いライヴだったのだ。

 ああ確かに人気が出るのも当然だろうな、と思う。曲の間中も、カナイもミナトもマキノもちゃんと客に気を配っていて、ノリの悪い所はきちんと煽っていた。

 だが、俺に目眩を起こさせた程の声は、あの曲の後には全く聞かれなかった。


「曲は、ミナト君が作ってんの?」

「だいたい俺ですよ」


 彼もカナイも、俺にはだいたい敬語を使う。どうやらこのバンドは礼儀正しいらしい。時々居るのだ。初対面から同等口をきく奴も。俺は俺で、彼らの敬語に敬意を評して、「やや年長さん」的な言葉づかいになる。実際俺や小津に比べて、彼らは若そうだ。


「全部ミナト君?」

「あ、いや、一曲だけ違うんですよ。今日も演ったんですけど」

「三曲目」


 カナイが口をはさんだ。


「三曲目? ってあの何か、難しい…」


 …つまりは、あの曲だ。一面の花が浮かんだ、あの。


「そうなんですよ。こいつ何か知らんけど、妙に展開ごちゃごちゃした曲ができちゃった、とか言って」

「へえ」


 笑いながらミナトはカナイを指さす。確かに彼にしてみれば、展開がごちゃごちゃしているだろう。彼が作った大半の曲は、実に判りやすいが、その反面、似たようなものが多かった。


「俺、あれ好きだな」

「え? そうですか?」


 カナイはびっくりしたように目を見開いた。俺はああ、とうなづく。


「何か面白いメロディラインしてるなあと思って」

「でしょう? 何かこいつの感覚って変わってるんですよ」


 ミナトはそう言いながらカナイの肩をぽんぽんと叩く。



「奴が欲しいな」

「え?」


 小津は問い返す。打ち上げの店の帰り道、結構呑んだらしく、小津の足どりは怪しい。それでもバンドに関することは聞き逃さないのは、彼の性格だろう。


「本気かよ」


と彼は言った。


「本気だよ」


と俺は言った。

 俺はカナイの声をもう一度聞きたいと思った。いや、それだけではない。どうしても、あの声が欲しい、と思ってしまったのだ。


「そりゃあさ、確かにいい声だとは思ったさ。それに、何かすげえ華があるしさ」

「だろ? オズもそう思うだろ?」

「思うよ。だけどケンショー、お前、つい三日かそこら前にめぐみがいなくなったばかりなんだよ? まだ帰ってくるかも知れないじゃないか」

「帰ってこないさ」


 俺は首を横に振った。俺には確信があった。めぐみは帰ってこない。


「何で」

「何でと言われても」


 これがいつもの、時々あった些細ないさかいだったら、どんな悪口雑言投げられても、戻ってくると言えただろう。だが、あの朝の手紙。


「ありがとう・今まで」


 俺はその二つの単語を何度も口の中で繰り返した。それでも長かった方なのだ。めぐみとの仲は。

 声で惚れる俺の相手との仲は、たいていは大して長く続かない。それは自分のバンドのヴォーカリストの場合もあるし、そうでない場合もある。

 いずれにせよ、俺と別れたヴォーカリストは、二度と人前で歌わない。それが怖くて俺と「そういう意味で」付き合う可能性を避けている者もいたくらいだ。

 めぐみはその中でも長く続いた方だった。このバンドに彼を加えてから二年半が経っていた。

 専門学校を休学してまで彼は慣れないバンド活動に打ち込んできた。彼を入れてからバンドはいい方向に進みだし、今ではメジャーに手が届きそうな所にいた。レコード会社からも声がかかりつつある。

 そのまま、行けると俺は思っていたのだ。

 ところが。


「ありがとう…」


 繰り返す。この言葉が出たら、終わりなのだ。いつもそうだった。誰もが、そうだった。

 ひどく哀しくなった。ひどく泣きたくなった。だけど涙が出ないことを俺は知っていた。どうしようもない。自分はそういう人間なのだ。

 本当に、ひどい奴だ。

 それでいてまた、あのライヴのカナイの声が頭の中でぐるぐる回っているのだ。あの声を手に入れたい、と思ってしまっているのだ。


「まあお前はそういう奴だよな」


 小津にそう言われると耳が痛い。小津は現在残っている――― 結局彼しか残っていないのだが、メンバーの中で一番の古株だ。

 さすがに最初のメンバーという訳ではないが、出会って五年にはなる訳だから、俺の恋愛遍歴も色々と見てきている訳だ。その奴にそう言われると。

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