警鐘を鳴らす声
江戸川ばた散歩
第1話 目覚めたらヴォーカルに逃げられてた
最悪の朝だった。
昨夜のライヴの出来が良かったので飲み過ぎたアルコールが響いている。頭の中で、十くらい並んだ礼拝堂の鐘が乱痴気騒ぎをしているようだった。
完全なる二日酔い。そんな言葉が俺の頭の中でようやく形を取る。そしていつものように腕を伸ばす。するといつもなら、同居人の背中に触れるはず…
はずだった。
俺は慌てて飛び起きた。
同居人の居るはずの場所は、妙に冷えていた。広くもない部屋の中は、ひどく静かで、耳なりがするくらいだった。
窓の外、カーテンのすき間からは、見事なくらいの上天気の空がのぞいていた。光とあいまって目に痛いくらいの青空。見上げたひょうしにまた頭の中に鐘が鳴り響いた。
「めぐみ…」
同居人の名を口に出してみる。だが答はない。
俺は背中の半分くらいまである、長い、色を抜いた髪をかきあげ、寝る前に手につけておいた太いゴムでくくると、ジーンズをつけた。
やはり気配はない。買い出しにでも行っているのだろうか?視線を移す。半分開いた引き戸から見える玄関には、靴が一足しか見えない。昨夜自分が脱ぎ散らかしたブーツ。それがきちんと揃えられている。
そしてそのまま、右へと視線を巡らすと、黒い折り畳みのテーブルの上に、何やら紙が置かれている。上には俺のよく吸う煙草の箱が封も切らずに置かれている。
何だろう、と思った。そして書いてある文字の意味が、最初はよく判らなかった。
「今までありがとう」
その言葉の意味が判った時、俺の頭で鳴り響いていた鐘が一斉にその音を止めた。
*
「めぐみがいなくなった!?」
練習のためにスタジオへ行くと、既にメンバーは揃っていた。ヴォーカリストを抜かして。
「お前何を奴に言ったんだよ、ケンショー!」
ベースの中山は声を荒げた。その大声に、俺の頭には、思わず二日酔いの頭痛がよみがえってきた。
「…もう少しヴォリュームを落とせよナカヤマ… お前の声って妙に響くんだから…」
「俺の声がどーであろうが勝手だろ! それよりめぐみだよ! どうすんだ? ライヴまた今週末にあるんだぜ?」
「どうしろこうしろと言われてもなあ…」
俺は頭を押さえながら眉を寄せた。そして時々後ろへ回した髪が前に落ちてくるのを払う。中途半端に伸ばすと髪の毛は鬱陶しいのだ。家を出てから、一気に切った記憶はない。
「お前ちっとは真面目に考えてるのか?」
「まあまあ」
ドラムスの小津は手を広げて制する。
「事情がよく判らないのに、ケンショーばかり責めても仕方ないだろ?ナカヤマ」
「…まあそうだがな」
「それにケンショーもケンショーだよ。ただ『いなくなった』だけじゃナカヤマだけじゃなく、俺だって訳わかんねえよ?せめて何が何して何とやらだったのか言ってくんないと」
「…と言ってもなあ。起きたら、いなかったんだ。で、『今までありがとう』じゃ… 俺だってどうしたらいい訳?」
うーん、と中山も小津も言葉をなくす。彼らとて別にむげにバンドメンバーを責める気はないのだ。何せ俺は、このバンドのリーダーでギタリストであると同時に、ヴォーカルのKちゃんことめぐみの恋人でもあったのだから。
「確かにそういうのは、困るよなあ」
小津はうんうん、とうなづく。
「オズ! お前誰の味方なんだよ!」
「あんなあナカヤマ… んなこと言ったってケンショーだって困るだろ。そりゃあな、気にはなるだろーけど、これは奴とこいつの話だし…」
「…」
駄目だ、と中山はふらふらと首を振りつつ両手をあげた。
*
俺達のバンドはRINGERと言う。結成してもう七年になるから、この界隈では結構長く続いているほうではないかと思う。十八のときに上京してきてから、最初に組んだバンドの名がこれで、それから何度も何度もメンバーチェンジを繰り返しつつも、この名前は捨てていない。
特に思い入れのある名と言う訳でもないのだが、慣れというものがある。自分がRINGERのケンショー以外の名で呼ばれることが俺にはピンと来ないのだ。本名は加納憲章(かのうのりあき)というのだが、その名で呼ぶ者はほとんどいない。
現在のメンバーはこれまでの中では長く続いた方だ。四人編成で、ギターの俺、ドラムスのオズこと小津、ベースの中山、それにヴォーカルの「Kちゃん」ことめぐみだった。
めぐみめぐみとさっきから言っているから誤解する向きがあるかも知れない。うちのヴォーカルは男だ。もっとも、下手するとそこいらの女よりもずっと可愛いという評判はあるが。
小柄で、割合レンジの広い声を持っためぐみは、俺と暮らし出してから一年と少し経っていた。
彼を入れてから、バンドはそれまでよりもいい方向に転がりだした。実際、ちょうど現在、どうやらこの長いインディーズ畑からの脱出するためのロープが目の前にぶら下がってきているのだ。昨夜のライヴがそうだった。
音を合わせていると、時々、どういう拍子か、異様に盛り上がることがある。原因はそれこそ千差万別だ。メンバーの機嫌、体調、客の入り具合、ただ単純にお天気という場合すらある。
そして昨夜は、その条件がちょうど綺麗に組み合わさったらしい。まあ客の入りはいつもと大して変わらなかったが、俺は妙に浮き立っていたし、リズム隊の息はぴったり合っていたし、それに何と言っても、めぐみの声がよく伸びていた。歌にも、今までで一番と言っていい程感情がこもっていた。苦手と言っていたバラードにしても。
そのせいだろうか。これまでも時々ライヴハウスで見かけた、不審な見方をしていた男が、レコード会社の名刺を出して、終了後の上機嫌な俺達に声をかけた。
最近はレコード会社の青田刈りが多いと聞いてはいるが、目のいい小津は、その男がうちのライヴに何度も足を運んでいるのを見たと言っている。様子見がこうも続くのなら、本気だろう、と俺は踏んだ。
いい返事を待っている、という彼に、俺達はぶんぶんと首を縦に振ることしかできなかった。特に俺は。郷里を出てきて、七年も経つのだ。確かにこのインディーズ界隈では、ある程度のキャリアと人気はある。最近はTVなんかでもこのシーンに注目しているらしく、実際、やりやすい状況になってきているのは事実である。
だがそれだけでは俺は嫌だった。
何せ今でもバイトはしているのだ。音楽だけで暮らせる訳ではない。力のある事務所に所属している訳でもない。
何処にも属していないから、確かに好きな音は作れる。だけど、本当に、それだけでいいんだろうか?もしかしたら、視野が狭いから、その中で、好きな音を作っていると錯覚しているだけかもしれない。
俺は広い世界が見たかった。そして音楽で食っていきたかった。だが、そのために媚びてみせるのはもっと嫌だった。あくまで、俺達の現在やっている音を聞いて、判断して欲しかった。そのための期間とすれば、七年もそう惜しいものではない。大学行って三年留年したと思えばたやすいものだ。
そしてその足がかりがようやく手に入った。
さすがに俺達も浮かれた。普段はさほどやらない打ち上げを強引に決行した。と、言うのも、めぐみがほとんど呑めない奴なのだ。中山もそう強くないらしい。そういうメンバーだと、強要はできなくなる。
ところがどうやら、その日は全員浮かれていたようだ。めぐみも中山も、呑もう、という俺の号令に笑顔でうなづいていたのだから。
そして呑みすぎた次の朝は、最悪のものになっていた訳だ。
一体俺が何したって言うんだ?
*
夕方、妹がアパートにやってきた。
ぴんぽんぴんぽん、と勢い良くチャイムが鳴った瞬間、俺は脱力した。こういう鳴らし方をするのはあいつしかいないのだ。
扉を開けたら、美人が居た。
「やっぱりミサキ、お前か…」
「やっぱりじゃないわよ兄貴、日頃の貧しい食料事情をおもんぱかった優しい妹がこうやって土産つきでやってきたというのになあにその態度!」
ミサキと読んで美咲、と書く。その名前にふさわしく妹は美人の部類に入る。兄の欲目なぞ、俺はこの妹に関してはないのだが、それでも、整った顔、背は平均よりは高く、身体の線は起伏に富み、化粧も上手い。口さえ開かなければという条件はつくが、美人は美人だ。
彼女は部屋に入るが早く、大きなアイボリーの帆布バッグの中からタッパーウェアを幾つも出した。その中には煮しめだのひじきの炒め煮だの、卯の花あえだの、実に手を入れた惣菜が幾種類か入っていた。
勝手知ったる他人の家、たいして大きくもない、たいてい水とマヨネーズくらいしか入っていないような1ドアの冷蔵庫にそのタッパーウェアは次々と納められていく。
「あ、そーいや兄貴、ナカヤマ君から聞いたよ?めぐみちゃんに逃げられたって? この甲斐性無しが」
美咲はタッパーウェアを冷蔵庫に入れる手を止めて、にんまりと笑って振り向く。
三年前の春、妹は地元の短大を卒業したあと、就職のために上京した。よく親が許したものだと思うが、まあ多少は不肖の息子の監視の意味もあるらしい。
この妹は、こんな兄を持ちつつも、実に優秀だった。何せ俺は、妹に見つかるまでの四年間、行方を全く知らせなかったというのに、どういう手だてを使ってか、ある晴れた春の日、いきなりうちの戸口に立っていた。そして投げた言葉がこうだ。
「何とかまだ生きてるじゃない」
もともと俺に対しては容赦のない言葉を投げる奴だったが、それに幾つも輪がかかっていた。
それ以来、妹はそう遠くない所に住んでいるから、とちょくちょくやってくる。おかげでウチのバンドのメンバーや、俺の悪友達にも顔が利いている。美人の彼女を狙う奴も意外に多い。
「…お前いつナカヤマと会ったんだ?」
「さっき。来る途中でここへ来ようかどうか迷っているようだったけど」
「何だかな」
「でもあたしの姿見たら引き返して行ったんだけど。失礼な」
なるほど中山は来ようとしていたのか。何かしら俺に話でもあるのだろうか。だが美咲を見かけて逃げたのだとすると… 決して楽しい話ではなさそうだ。
「…お前じゃ仕方なかろうて」
「やーあーねー全く。ぼんやりしてないで茶の一杯でも出してよ。珍しくほらほら、ケーキなんぞもあるんだから」
そう言って彼女はちょん、とテーブルに乗せた白い箱を指した。
*
「甲斐性無しってまた言われたんかお前、あはははは」
その翌日、関西出身の知り合いバンドEWALKでヴォーカルをやっている悪友の紺野はそう言って笑った。
「ミサキちゃんらしいよなあ。ほんでもそら、お前があかんわ」
「まだ俺、何も言ってないだろうが!」
「言わへんでも判るわ。めぐみちゃんに捨てられたんやろ? あーんな可愛い可愛いめぐみちゃんのせいである訳ないやん。お前が悪い。それがいっちばんウツクシイ結論やで? なあ皆の衆、そぉ思わへんか?」
いつの間にか、紺野の背後には、彼と同程度、もしくは彼以上に関西人魂を持った集団が控えていた。言葉の種類はやや違えど、皆一様にそうやそうやと自分のバンドのヴォーカリストをサポートしていた。
何も、特別俺は言葉が苦手な方ではない。だがこの関西人集団が本気になった時の言葉の機関銃攻撃には、絶対勝てないことくらいは知っていた。紺野は以前「おかんのボケにツッコミを即座に返さなかった時にはびんたが飛んだで」なんてことを言っていた。
まあ話半分としても、彼らの恐ろしく炸裂するコトバは長年の修行によるものだということは理解できる。所詮、東海地方出身の俺が勝てるものではない。
そんな訳でまあ、常識的な反論を返してみる。
「…人事と思って勝手なこと…」
「あったり前や!」
そう言って紺野は胸を張る。俺より頭一つ低いくらいの小柄なくせに、態度は俺の倍以上にでかいのだ。
「ひとごとに決まってるやん。人間はひとごとには突っ込む権利があるんやで?ほらほら加納くん、自分の胸によーく手ぇ当てて考えてみぃ!お前の数々の悪行を!」
「…」
「俺の胸揉んでどうすんねん。ところでお前ら、週末のライヴ」
そう、それが目下最大の問題なのだ。
「サポート入れるにしても、ちょっと時間足りねえよな…」
「サポート? 何アホなこと言うとる? お前のバンドでヴォーカルがいなくてサポート言うのは無理や! とにかく今は無理やで?」
ぴっと指を突き立てて、奴は断言した。
「そうだよなあ…」
何も深く考える必要もないのだ。バンドの顔であるヴォーカルがいないのだから、これはもうライヴ自体を中止せねばなるまい。めぐみ目当ての客も多いのだ。
全くどうなっているっていうんだ。
*
ライヴハウスの店長に事の顛末を告げると、彼はひどく渋い顔になり、ふう、とため息をついた。
「困ったことになったねえ… 病気ならともかく失踪かい」
「はあ… 本当にすいません」
「ま、仕方ないものは仕方ないさ。でもねケンショー、せめてトークライヴとか、何か形くらいはキミ達のバンド、出てくれない?そうでないと、『金返せ』みたいなことになるよ」
そうですね、と俺は頭を下げて引き下がった。実に申し訳ない。
「何とか考えてみます」
「そうしてくれよ。それにしてもあのめぐみちゃんがねえ」
出入りのライヴハウスの店長はうちのメンバーの中ではめぐみを一番気に入っていた。まあだいたいめぐみは、その容姿や、素直で実直な言動で、誰からも好かれる方ではあったのだ。
この週末のライヴは、最近急に力をつけてきたというバンド「S・S」が一緒だった。実際に見るのはこのライヴが初めてなのだが、噂は聞いていた。インディーズをプッシュする音楽雑誌や、専門店でも最近は力を入れているらしい。こないだのインディーズ専門の深夜番組でも、ここの店長が顔を出して紹介していた。
「何でぇーっ!RINGER出ないのーっ?」
―――脳天から背中に、一気に電流が走ったかと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます