2-11
遠く、階段を降りる足音に耳を澄ませる。
「ぬへーっ、終わった……」
今日何度目かになる小さな悲鳴を伸ばして、ドスンと床に腰を下ろす。
やはり茉由と戦うと神経を摩耗する。改めて、恐ろしい妹だと実感する。
しかし、まだ休息に浸る時間ではない。
疲弊した身体に鞭を打ってずるずると床を滑り、クローゼットへ近づく。
彩音に礼を伝えなくては――そう思い、ドアに手をかけると、
「開けちゃダメ!!」
中から激烈な悲鳴が響き、耳に突き刺した。驚きで、手の動きが止まる。
どうした?と訊く前に、次いで大声が届く。
「そ、その人形、私のワンピース来てるでしょっ!てことはっ!」
てことは――彼女は今、一糸纏わぬ姿を晒している……?
随分と必死に抵抗していると思ったら、そういうことか。
普段の僕なら焦りと羞恥で戸惑うところだが、今はそんな気力がない。
いろいろ言いたいことはあったが、まずは彩音が出てこれるようにしよう。
床に放置された人形から紫紺のワンピースを外し、クローゼットの隙間に差し込む。はみ出していた部分がすぐ引っ込み、中から布切れの音が微かに聞こえる。
それを聴覚で感じつつ、僕は目の前のベッドにダイブした。枯渇気味の体力を無理やり絞り出して。
そうして、彩音の準備が完了するのを待ちながら、薄ぼんやりと先程の舌戦の余韻に浸る。
戦闘中の奮闘はまだしも、問題は最終結果。
無事に彩音の存在がバレなかったという点ではこちらの勝利だ。だが、その代償として、茉由には『人形と話すヤバい兄』のレッテルが貼られてしまった。
胸中の宣言通り、僕が矢面に立つことで彩音を救えたことは喜ばしい。とはいえ、妙な
さて、どこまで彩音に話そうか……。
そう思案を展開していると、足元からゆらりと小人の影が現れた。
やっと来た。そう思って微笑んで迎える。
「おかえり!あや……ね?」
しかしその笑顔は、秒針が時を刻む前に凍り付く。
理由はただ一つ。彩音の表情を見てしまったから。
「あ、彩音さん……どう、されました?」
「どうされたかは、康平が一番よく分かるよね?」
額から首まで、トマトのように真っ赤にしているのを、見てしまった。
※※※
「まず私に言うべきことは?」
「助けていただき、ありがとうございました」
「そうね。あとは?」
「……危険な目に合わせて、申し訳ありませんでした」
床に正座させられ、ただ項垂れるしかない。
目の前では変わらず怒気を孕んだ表情の彩音が、腕を組んで見下していた。まぁ体格の都合上、顔の位置は僕の方が上なのだが。彼女の威圧感が、まるで見下されているような気になる。
「たまたまクローゼットの隙間が見えて、あの作戦を思い付いたから良かったけど……危うく、互いに大切なものを失うところだったわ」
「結果的に僕はものすごく大切なものを失ったんだが」
「相応の代償だと思うけど?」
そのまま「ふんっ」と背中を向ける。
「なぁ、確かに僕が悪かったのは反省するけどさ……なんでそんな怒ってるんだ?」
「別にぃ?」
いや、もはや不機嫌隠す気ないだろ。
モヤモヤするが、言及しにくいのは事実だ。ここは、時期を図って機嫌を直してもらうしかない。
「お詫びと言ったら何だけどさ、もし欲しいものがあれば買ってくるよ。もちろん僕が買える範囲で、だけど」
黙ってやり過ごせる雰囲気ではないので、謝意を込めて提言してみる。
頬を掻きながら返事を待つが、一向に変化が生まれる気配はない。
「あ、あの……彩音さん?」
「今考えてるの」
たった一言、短く切り捨てられた。
鋭すぎる切れ味に、僕も黙る他ない。
あまりに居心地の悪い静寂は、1分と経たずして破られる。
「じゃあさ、買うものじゃないけど、欲しいもの」
人差し指を立て、小刻みに振る。
しかし依然と顔がこちらを向くことはない。
「——ご飯、一緒に食べようよ」
「ごはん?」
「そう。あなたと一緒に食事する時間をちょうだい」
特に声色が明るくなることはないが、スラスラと提案が流れてくる。
そういえば、向かい合ってご飯を食べたことはないか。僕は基本リビングで母さんや茉由と一緒に食べ、そのまま彩音の食事を持って部屋に戻るため、確実に食事のタイムラグは存在する。
それを無くしたい、ということだろう。
「そ、そんなことでいいなら、僕は構わないけど……」
「そっか。じゃあ、今晩からね」
言い終わると、目の前で紫のワンピースと漆黒の長髪が右になびく。さっと移動した彩音は、軽い身のこなしで机を登り始める。
恐らく、自室に戻る気なのか。
「ま、待ってよ彩音」
思わず立ち上がり、どうにか呼び止める。
相変わらず表情は見えない。
「ど、どうして今日に限って、そんな怒ってるんだ?」
2回目の問いかけ。今度はぶっきらぼうに流されないよう、真剣な面持ちで訊ねる。
昨日茉由が尋問しに来たときは、その後の対応も含め特に不服そうな気配はなかった。なのに何故、今日はこんなに分かりやすく憤怒してるのか。
確かに大きな過ちをしたことや、用心していなかったことは、責められて然るべきだろう。だが、彩音はそんなことで不機嫌を催すような人じゃないと、この3日間で理解した。
不思議で仕方なかった。なにが怒りの原動力になっているのか、皆目見当が付かなかった。
「……私は」
小さな吐息に次いで、さらに小さな声が囁かれる。
「私は、ずっと1人で、待ってたの……」
肩と声を震わせる。
泣いてるのかと喉を詰まらせたが、やっと振り向いてくれた彩音は泣き顔ではなく、変わらぬ剣幕だった。
「――待ってたの!!」
勢いよくティッシュハウスへ走り込む。そして、再び気の重い静寂が再来する。
なぜか怒鳴られたことに、頭が追いつかない。
まぁ不愉快を言語化しようと考えても、上手く言葉にできないことは往々にしてある。
後日冷静に話し合える日を望み、僕は窓の外に目を向けた。
ずっと遠く、月明かりが立ち尽くしていた。
いつもより遥か遠くに感じられた。
晩御飯のため、部屋を出ようとすると、
「……ごはん、持ってきてよ」
小さな箱部屋から、注文が聞こえた。
勿論。
そう答えようとして、口が止まる。
――さっきの言葉を、思い出す。
『あなたと一緒に食事する時間をちょうだい』
たしかこの条例の施行は今夜からだっけ。
となると、さっきの『ごはん』というのは、彩音の食事じゃなくて――
「すぐ持ってくるよ」
――僕と彩音の食事、だろう。
いつかに願った冷静な対話ができるのは、今晩のようだ。
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