2-10

「……入るときはノックしろよ」

 冗談半分にぼやいたつもりだったが、茉由はその冗談を耳にするつもりはないらしい。顔付きの険しさが微塵も収まらない。

「私が来た理由、分かる?」

「サッパリ。賢明な茉由さんにご高説願いたい」

 こちらの動揺をごまかしつつ逆転の一手を探すため、わざと回りくどい言葉を展開する。

 この時点ですでに悟った――昨日のように、楽に対処できないことを。

「さっき下校したとき、はるかちゃんと一緒に帰ってきてたよね。たまたま私、塾帰りに2人の少し後ろに歩いていたの」

「ストーカーに盗み聞き……罪を重ねたな」

「ほんとは声をかけたかったんだけど、聞き捨てならないこと聞いたから」

 丁寧なボケも涼しくスルーされ、僕としてはちょっと悲しい。もの凄く場違いな感想だが。

 否、こうして能天気な感想で紛らわせないと、焦りで心の均衡が崩れそうだった。

「どのタイミングか忘れたけど……はるかちゃん、『電話したことない』って言った。それって変だよね?」

 意を決して、僕はベッドに座り込む。引き続き彩音は死角に潜めたまま。

 正面から茉由の視線を受け止め、堂々とぶつかることに決めた。こうしないと、彩音を守り切れないと不安視したからだ。

「そこで私は、確認を取ることにしたの。お兄ちゃんが家に入った後、少し間を開けて私も入った。そしてすぐ、はるかちゃんに連絡したの。そしたら……バッチリ、言質は取れたよ」

 スカートのポケットからスマホを出すと、そのまま画面を僕に見せる。そこには、はるかとのメッセージのやり取りが綴られている。

 そして、茉由からの質問にしっかり返信していた。


 『康平と電話したことはない』と。


 スマホの向こう側で、茉由は表情を一変させ、歓喜を表すかの如く口角を卑しく持ち上げる。

 やっとわかったのだろう。自分が優位に昇りつめたことに。

「さて、じゃあ改めて訊こうかな。昨日ごまかしてくれた、部屋での話し相手について」

「……ちなみに、それ知ってどうなるんだよ?」

「別にどうこうするつもりはないよ?ただ、理解の及ばないものが中途半端に顕在するのが嫌なだけ。それが身近なものなら尚更ね」

「じゃあ兄の特殊性癖『過剰な独り言』ってことで納得してくれよ」

「それで納得できたらここ来てないよ」

 ジョークを挟む隙間すら与えてくれない。どうやら、昨日あしらわれたのがかなり気に障ったのだろう。一言一言の熱量が凄い。

 しかし、絶体絶命の状況になったのは間違いない。彩音の存在がバレないとしても、僕が声を発していた理由を飲み込ませない限り、茉由が引き下がることは無いだろう。

 そういえば、今日の学校で木下が僕を追及したときも、こんな感じで勢いが収まる気配がなかった。そう思えば、相対的に茉由が優しくみえる。

 木下と違い、茉由のことはよく知っている。

 だから、隙は必ず作れるはず、という確信があった。

 策を講じようと思案し始めたのと同時、背中の一部に異様な感触が隆起する。

 彩音が背中を登っているのだろう。

 当然、視線を後ろに向けて確認することは不可能だが、それは彩音も承知だろう。スピードを止めることなく登り続け、ついに後頭部に到達。髪が引っ張られ痛みを頭皮で感じるが、表情を歪めることは許されない。

 そのまま頭頂部に辿り着く寸前で停止する。恐らく、ギリギリ茉由から見えないのだろう。

「茉由ちゃんの意識を部屋の外に向けて」

 耳に届いたのは、かすれるような小声。世界で僕にしか聞こえないし、僕しか聞いてはならない声だ。

 その意図までは読み取れなかったが、彼女が無鉄砲に発言するとは思えない。

 手軽に茉由の意識を逸らす手段を選ぶ。

 彼女の向こう側、廊下のあたりを不安定に指さし、

「お、おい茉由……お前の後ろ、なんかデカくて黒い虫が……」

「えっ!?」

 仰天を言語化しつつ、躊躇いなく廊下を振り返る。無論そこに何かいるわけではない。

 だがすぐにこちらへ戻すわけにいかない。間髪入れずに第二の攻撃を紡ぐ。

「奥!奥!階段の方行ったぞ!」

「うそっ!まさかヤツ!?」

 甲高い悲鳴とともに階段側へ身体を向ける。これで僕の部屋が、彼女の意識からも視界からも完全に外れた。

「ナイスっ!」

 またも極小の声援を残して、彩音が僕の後頭部からベッドに飛び降りる。

 着地から間髪入れずに駆け出す。彼女が一直線に走る先には――僕の部屋に唯一あるクローゼット。

 ベッドから飛び降りた彩音は一瞬見えなくなるが、すぐ駆け抜ける背中が現れた。

 クローゼットの扉にはたまたま僅かな隙間があり、猫のようにスルっと滑り込む。

 無事に辿り着いたことに胸を撫で下ろすが、同時に気掛かりなことがあった。

 果たしてクローゼットで何をしようとするのか。確かにそこに隠れることで茉由に存在を認知される危険性は下がったが、もしこのまま僕に逆転の一手がないまま黙秘を貫くと、いよいよ部屋中を強制捜索されかねない。それは、クローゼットにも目が光る可能性も大きく孕んでいる。

「ね、ねぇ、どの辺に消えた……?」

 こうなれば、この流れで茉由を追い出すか?というか、それしかないんじゃないか?

 どうやら敵は架空の黒獣にご執心だ。すっかり僕に意識が向いていない今なら……。

「た、たぶん、階段じゃないか……?」

 ベッドから立ち上がり、震え声とともに重い足取りで廊下に近づく。本気でビビってる感を演出するためだ。

 1歩……2歩……3歩……


「ちょっと待って」


 絶対零度の声に、肺が呼吸することを忘れる。

 目の前、たった数センチのところで佇む我が妹は、こちらへ顔を向けずに口を開く。

「お兄ちゃん。ほんとに、ゴキ〇リを見たの?」

「ごっ……も、もちろんだよ」

「だとしたら――なんで今、でこっち来てるの?」

 その指摘にハッと目を見開く。茉由が的確に図星を貫いてきたことに、動揺が隠せない。

「一昨日、この部屋にヤツが出たとき、ちゃんと冷却スプレー持ってたよね。まさか、素手で捕まえるつもり?あんなビビってた人が」

 こちらを睨み、「まぁ、演技だろうけど」と付け加える。

 いろいろ雑な言い訳は思いつくが、そんなのでヘイトを貯めてしまえば、いよいよ本気で暴力を働かされそうだ。

 完全に盾を失った僕を追い詰め、それでも足掻かれることに、絶対の勝機を見出しているのだろう。

 万事休すか―――そう思ったときだった。

 事態が、急変する。


 ガタン。


 何かが落ちる音。その音源は、

 反射的に、僕も茉由もそちらへ視線を送る。

 この音源の正体は、間違いなく彩音だ。最後の最後で、僕たちは2人仲良くミスを犯したのか?

 恐怖や焦燥に似た感情が胸の奥で入り乱れるのをひたすらに感じつつ、どうにかピントを音源に合わせる。

 そこには、人形が倒れていた。紫のワンピースを着た、スタイル抜群の人形だ。

 説明するまでもない。あれは、先日買った来たものだ。

「に、人形?」

 何故人形が飛び出してきたのか、理解が微塵も追いつかない中、茉由が冷静に人形へ近づき、手に取る。

「な、なんでこんなのが、ここにあるの……?」

 今までの計算尽くされた質問とは違う、茉由の純粋な疑問だった。その疑問は、この状況的に持って然るべきものだ。

 そして、その質問のおかげで、僕は彩音の真意を心得た。

 この危機的状況を打破する、逆転の一手が、そこにある。

 ――茉由は尋ねた。なぜ、人形がこの部屋にあるのか。

 ――それを、盛大に利用すればいい!


「……何でだと思う?」

「へ?」

 眉を顰めて人形を見つめる妹は、僕の言葉が意外だったのか、素っ頓狂な返事をする。

 おかげで、まだ彼女に隙があることは分かった。

「だから、なんで僕が人形もってると思う?」

「それは……」

 視線を落とし、じっくり考えこむ。しかし、幾ら探しても見つかるはずない。

 当然だ。僕と人形との接点なんて一切ないのだから。

「僕の話し相手の謎、そして人形の存在……今、お前には2つの不可解なポイントがある。それらを納得させる唯一の道筋があるんじゃないか?」

 腕を組み、壁に背を預ける。

 最初は思案げな表情を崩さなかった茉由だが、あるタイミングで徐々に小刻みを重ねる。

「ま、ま、まさか……」

 上手く呂律が回らない彼女に代わって、説明してやろう。

 部屋に存在しうる話し相手、それを探す最中に見つかった謎の人形。

 状況証拠が、すべてを物語っている。

 茉由の結論はただ1つ。


『兄は部屋で、人形に向かってお話ししていた』


「いや、でも……ええ!?」

 腰を抜かして、人形を手から滑り落とす。目をパチパチと開閉するが、口は開き切ったまま。

 まだ、独り言が激しい性格、という方が飲み込めただろう。

「いやいやいや!そ、そんなわけ……」

「そんなわけないって?じゃあ、人形がある理由はどう説明するのさ?」

 茉由にとってこれが最大級の謎だろう。これを持ち出せば、たちまち黙り込む。

 納得したくないだろうが、納得せざるを得ない。彼女の心中は、闇鍋のようにぐちゃぐちゃだろう。

 昨日以上に振り回された茉由へ、僕はとどめ代わりに論理を重ねる。

「僕がお前に隠してた理由、分かるよな?見つかったからにはもう言い訳しないけど……まだ何か訊きたいことはあるか?」

「………………………………ない」

 長い息継ぎを挟んで、たった2文字が呟かれた。

 その2文字の向こう側に、白旗を振る妹を感じ取った。


 彼女の傍には、皺だらけのワンピースと無機質な人形が、無造作に倒れていた。

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