2ー4
目を覚ますという行為は、意識を正常に戻す作業の道程に存在すると思う。
だから、今ゆっくり目を開けたところでまだ意識が正常というわけではない。
届きそうで届かない位置に漂う『意識』をようやく掴むことで、僕は静かに体を起こす。
机の上の時計には『14:05』と記されていた。確か寝始めたのは12時前だったから、かれこれ2時間ほど惰眠を貪っていたらしい。
目を擦り、ボヤける視界にピントを合わせると——枕の傍で、爽やかな黄緑の布切れが陽光で輝いていた。
そしてそれはただの布切れではなく、小人のワンピースだとすぐ気付く。
その持ち主である彩音は、漆黒が艶めく長髪を乱れさせながら寝息を立てたいる。
「な、なんで、ここで寝てんだ……?」
ティッシュハウスに彼女のベッドがあるはずだが。
そもそも、彩音が僕の隣で寝てるのは危ない。もし僕が寝返りを打ってしまうと、圧力でペッチャンコだ。
「……用心してくれよ」
仕方ないので、自分の部屋に戻してあげるために両手でその華奢な身体を掬い上げる。なるべく起こさないよう、ゆっくり丁寧に、そして静かに持ち上げる。
なんて無防備なんだろう、とまず感じた。全く目覚める気配はなく、白桃色の頬が幸せそうに色付く。
手のひらを黒髪が繊細に
総じて、熟睡する少女は芸術にも等しい破壊力がある。世界に出回る絵画なんて相手にならないアートが、僕の手の上で
そんな風に、この2日だけで何度目になるか分からない彩音への感想に思いを馳せてる間に、机の上のティッシュハウスまできた。肘で乱暴にならないよう蓋を開け、ベッドに彩音を静置する。
変わらず可愛い寝息を
「……好きなだけ、休んでくれよ」
声の届くはずない眠り姫に、安息を促した。
いつまでもその景色を見続けられる自信はあったが、同時に気掛かりなことがあった。
「……腹減ったな」
腹の虫が鳴る様子はないが、空腹を本能が忌避したがっている。
流石に、このまま晩ご飯まで胃を空にするのは危ういだろう。
冷静な判断のもと、僕はリビングへ向かうことを決めた。
※※※
「……を、どうし……でしょう!?」
遠く、ずっと遠くに、罵声が響いてる。
「……でも……が、たいせ……なんだよ!」
――お母さんと、お父さん?
なんで、怒鳴りあってるの?
私の前で喧嘩は止めてよ!楽しい話をしようよ!
止めたい。でも、身体が止めようと動いてくれない。
どうしてみんな――離れていくの?
だったら、最後に触れさせてよ。
手を握って、笑いあって、惜しみながら離れようよ。
そして結局また会って、手を握って、笑いあって――
※※※
鼻腔を、甘い匂いが刺激する。
意識はふわふわしているが、それはすぐに収まる。
ゆっくり上半身を起こし、周囲を見渡す。
木組みの机と椅子、ベッドの横に立てられた懐中電灯、そしてお尻の下にはティッシュで出来たベッド。
「ここ——私の部屋?」
目を擦りながら、床に足を突ける。流れ作業のように部屋を出ると、まず康平のベッドが目に入る。
途端、寝る直前の行動がフラッシュバックする。
目の前で寝静まった康平を見て、見つめて、見続けて、いつの間にか彼の横で身体を倒していた。
昨日も彼の寝顔は見た。だからこそ、この表情は見飽きないのだと実感した。
そしてそのまま横になってた私は――寝落ちしたのか?
でもだとしたら、なんで自分のベッドに戻ってるんだ?
「お、起きたのか」
疑問符を浮かべた瞬間、私の左側から落ち着いた声が届く。
首を回すと、机で何か紙に書いてる康平と目が合った。
ペンを持つ右手の傍には、不透明な湯気が漂うコップがある。どうやら、起きたときに感じた甘い匂いの正体は、あのコップの内容物のようだ。
飲み物の正体は分からなかったが、それより今は彼の作業内容の方に興味が向いた。
「何書いてるの?」
「ん?ああ、これは『自己紹介カード』だよ」
「じ、自己紹介?」
プリントの上に太文字で『★自己紹介★』と書いてある。小学生かよ。
さらにさまざまな欄が設けられており、名前や誕生日から始まり、好きな食べ物などベタな紹介まで幅広く用意されていて。
何気なく回答に注視してみる。
『好きな食べ物:ハンバーグ』
『好きなスポーツ;サッカー』
『所属したい部活:未定』
『好きな教科:無し』
「小学生かよ!!」
「おい勝手に見るなよ!」
いや酷すぎる!てかハンバーグ好きなんだ!かわいい!
「それで将来の夢に『プリキュア』って書くんでしょー?」
「それは小学生どころか幼稚園児だろ!」
トゲトゲしいツッコミと共にプリントを裏替えされてしまう。
「あ~!まだ全部見てないのにぃ」
「見せるか!」
頬を膨らませて反抗するが、しっしっと手で追い払われてしまう。
実力行使で奪う算段を立てるが、どう考えても勝ち目はない。
余程恥ずかしいのか、プリントを背に回した康平は、
「んなことより、彩音はおなか減ってないの?僕はさっき食べてきたけど」
「あ……そういえば、朝にビスケット食べてから食べて、何も食べてないや」
時計を見ると、アナログ時計が『15:00』と示している。もはや昼食より間食という感じだが、素直に腹は空腹を訴えている。
機を狙ったかのように、静寂の瞬間に腹の虫が鳴り、小さな音にもかかわらず康平の耳に届いてしまう。思わずおなかを抑えるが、羞恥のあまりすぐ顔を覆う状態に移行する。
「胃は正直だね」
「うう……恥ずかしい」
「さっきのお返しだ」
いたずらっ子の如くにひひと笑う康平は、プリントを握ったまま立ち上がった。そこに浅く刻まれたシワが、彼の焦り具合を表している。
「確かリビングにお菓子があったはずだから、ちょっくら持ってくるよ」
「プリントは置いて行けば?」
「ぜってーヤダ」
べーっと舌を出しながら扉を開け、廊下へ出ていく。そのままリビングへ……
「あ、そうだ。一つ訊いていい?」
歩みを進める康平の後ろ姿に、何気なく声をかける。
半身を扉で隠してしまった康平が、ひょっこり顔を覗かせる。
「ご注文ですか?そこまで品揃えが良いとは思えないけど」
「お店じゃないんだから。じゃなくてさ、私ってさっき康平のベッドで寝てなかったっけ?」
そう言いながら
記憶によると最後に意識が陥没したのは康平の寝顔の目の前だったはず……。
純粋に気になったので尋ねたのだが、ふと扉に視線を戻すと康平の姿はなかった。
「……知らん。僕が起きたときには君の自室でぐっすりだったぞ」
代わりに、少し残された隙間から康平の変わらぬ声が届く。なぜかいつもより棒読みな気もするが。
とにかく、私の思い違いのようだ。寝ぼけ
「……そんなこと出来るのか?」
自分でうろ覚えの記憶を辿るうちに首を
「……関係ないかぁ」
我ながら気の抜けた声だ、と思わずにはいられなく、つい吹き出してしまう。きっと康平も、同じことを言うのだろう。小馬鹿にした口調で。
「次は、バカにされないようにしないと」
固く拳を握り締め、決意を言語化する。
おちょくられないために、次の食糧調達は成功させなくては。
そうすれば、空腹を晒すことは防げる!
甘い香りに嗅覚を擽られながら、一人で無邪気に盛り上がる。
まるで、思い出の片隅で燻る「喧嘩の風景」を押しのけるように。
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