1ー7

 階段を降り1階を見渡すと、相変わらず人の気配はない。母さんはまだ帰ってないようだ。

 時刻は5時10分。荷物を整えていたら思いのほか時間が経ってしまっていた。

 無意味な忍び足で玄関に向かい、速やかに家を出る。

「まぁ茉由は部屋にこもって読書だろうし、黙って出ても問題ないはず」

「そうだ、折角だし今のうちにきたいことがあるの」

「ん?」

 僕ので座りながら揺られてる彩音は、僕にしか聞こえない程度の声量で尋ねてくる。

 一方、返事した僕はなるべく前を見たまま返事をする。着けてるマスクのせいで少し籠った声ではあるが。


 胸ポケットに彩音を収納し、僕はマスクを装備して会話する——これが僕の作戦だ。

 これなら屋外で会話しても問題ない。何せマスクのおかげで話してることが視覚的には気付かれないのだ。もし近くに人がいれば黙ればいいだけだし、最悪聞かれて怪しまれても、独り言の激しいヤバい奴だと思わせればいい。奇人になる覚悟は出来ている。

「まぁ目的地に着くまで10分程度あるし……何でも訊いてよ。君から色々教えてもらったし、僕も教えるべきだろうから」

「ありがと。ではお言葉に甘えて」

 ポケットの中にきれいに収まる彼女は「何にしようかな〜」と質問の内容に頭を悩ませている。角度的に僕からは見えるが、第三者にはまるで見えないポジション。我ながら完璧な作戦だ。

「さっきの妹ちゃん……茉由ちゃん、だっけ?とは仲良いみたいだけど、反抗期とかないの?」

「親戚のおばちゃんみたいな質問だな。1つ目がそれで良いのか?」

 なぜ今更茉由に興味があるのか。というか僕に興味ないだけ?

「まぁいいや……アイツに反抗期の兆しは無かったかな。僕が無かったのが原因かもしれないけど」

「へぇ。康平、反抗期なかったんだ」

「親と意見が対立することはあったけど、ケンカだけは絶対しなかったなぁ。——したくなかった、の方が正しいかも」

 赤信号を前に足を止め、交差点に鳴り響く車の走行音が駆け巡る中、過去の記憶を微かに呼び覚ます。

「小さい頃、母さんが特殊詐欺に遭って、かなりの損をこうむったんだよ。それこそ、父さんが怒って離婚をチラつかせるくらい。2人とも僕と茉由に迷惑を掛けないよう陰でぶつかってたみたいだけど、ある時たまたま覗き見しちゃって」

「……そっか。お母さん、責められてたのね」

「うーん、それが、良い勝負だったんだよね」

「うん……うん?」

 当時の2人の戦いは今でも脳裏に焼き付いている。それはそれは白熱していた。両者1歩も譲らずに。

「いやぁ、ケンカするほど仲が良い、ってああいうこと言うんだなぁ、って思ったよ」

「へ、へぇー……」

「んで、それを見てた僕は、当時小学校低学年だったながらに直感で理解したよ。『この人たちとケンカしたら確実に負ける』って」

「……じゃあ、お母さんとケンカしたくない理由って」

「うん。すげぇ口論強いから」

「君の優しさに感動してた私を返して!」

 なぜか突然声を張り上げ、ポコポコと僕の胸板を殴り出す。誰かに声が聞こえたかも、と焦って周りを見るが、幸い彼女の声が聞こえる距離に人はいなかった。

「ちょ、気を付けてよ。万が一の時にフォローするのは僕なんだから」

「期待させといて!惚れそうだったのにぃ!」

「怒る理由が特殊すぎて謝る気になれないよ!てかどこに惚れる要素があるのさ!」

「え?」

 つい勢いで僕も声を上げてしまい、ハッとして右隣を見ると、知らぬ間に一緒に信号待ちしてたスーツの男性が目を丸くしている。

 それもそのはず、歩道で制服姿の高校生が1人で怒鳴っていれば、もれなく注目の的だろう。

「あ、いや……」

 ——これはヤバい。

 ポケットで彩音は口を塞いで息を殺しているが、ぶっちゃけ君の努力は無駄だ。全ては僕の行動次第。

 どうしようどうしよう、と自問自答を繰り広げていると、僕は誰よりも敏感に信号が青になるのを察知した。案の定青信号が点灯した途端、僕は足早にその場を離れる。

 勿論スーツの男性は追いかけてくることは無かったが、僕はビビって後ろを振り返ることができなかった。

 何にせよ、とりあえず窮地は脱した。

「……あぶなかった」

「もー、何やってるのよ」

「お前なあ……まぁいいや」

 にひひ、とイタズラっ子のような笑顔と笑い声を披露している。半分はコイツのせいだと思うのだが。

「あ。康平今、私のこと『お前』って呼んだ」

「ん?もしかして嫌だった?」

「そういうわけじゃないけど、そう呼ばれたの初めてだなって」

 そういえば名前以外は「君」って呼んでたっけ。

 そんな些細な点で口出してくるのに嘆息する反面、ふと僕は新たに気になることがあった。

「そういえば、彩音って呼称にこだわるよね」

「そんなことないよ。おいしくなるなら調味料なんて好きなの使って」

「その胡椒コショウじゃないよ。てか何で僕が料理することになってんの。あとボケが雑」

「すごーい、山のようなツッコミ!」

「そのいただきには立ちたくなかった」

 もはや流れるようにコントが繰り広げられる。どうやら会話の噛み合わせがとても良いみたいだ。

 妹と話すときは、大体僕がボケてるイメージが強いので、こうしてツッコミに徹するのも悪くはない。

「……って違う。話逸らすな」

「チッ、バレたか」

「別に言いたくないことじゃないでしょ。呼び方の拘りなんて」

「……嫌だ」

 なんでこの子は顔を赤らめてるんだ。

「女子にとって呼び方は大事なの」

「女子代表するなよ」

 でも特に細かい理由を追求すると水掛け論になるのは間違いない。ここは仕方なく手を引いておこう。

「いつか引き出させてやるからな」

 堅く決意を言語化し、静かに拳を握った。


 その後、ひたすら目的地へ向けて足を進めながら、2人で毒にも薬にもならない話を紡いだ。

 その会話はどれも驚くほど無益で、しかし僕らにとっては何にも替え難いものだった。




※※※




 歩き続けて10分、視界の奥で照明が輝く建物が見えてきた。

「お!彩音、前見てごらん。歩行者はいないから、顔出すくらいなら大丈夫だよ」

「え……?」

 驚きを見せつつ、僕の言う通り胸ポケットに手をかけて顔だけ覗かせる。そして、少女は視界に飛び込む景色を認知すると一言、


「わぁっ……きれい……!」


 女の子らしい繊細な声で感嘆し、眼を爛々と輝かせる。

 視線の先、目的地のショッピングモールは、イルミネーションで虹色に彩られていた。放たれる極光色は、通行人の視線を全て奪うほど芸術的で、無論僕も夢中になれる色彩だ。

「このショッピングモール『リーフ』は、今年で開業10周年なんだ。だから、その記念で最近ずっと盛り上がってるんだよ」

 その影響でセールやらイベントやらが後を断たない。その安売りの加護を全身全霊に受けた母さんに誘われ、数週間前うちの家族はほぼ毎日のように通っていた。最近は野暮用が増えたらしく連れて行かれなくなったが。

 それより、僕の予想通り彩音は豪華絢爛なイルミネーションにしっかり食いついた。こういう身近なもので楽しむことが出来なかったのが彼女の人生だった。そう思い、こういう機会を増やそうと決めたのだ。

 しかし、凄い凄いと呟いてたのは最初だけで、すぐに言葉は消えた。もしかしてあまり気に入らなかった?と不安になって彩音を見ると、僕は彼女が言葉を止めた理由をすぐ悟った。



 ——薄桃色に染まる頬を、一筋の涙が流れている。



 口は半開きになり、目の前の絶景に釘付けだった。たまにパチパチをまばたきをすると、涙が新たな道筋を描く。

 頬を伝い、そこから離れる涙の粒は、殆どが僕の服に落ちて薄く染み込む。その水玉模様たちは、次の涙が再来する前には乾いてしまうほど、実に儚いものだ。

 自分が泣いてることにも気付かず、眼前に広がる芸術を瞳に焼き付けんとする少女を、僕は見守るしかできなかった。


 いや——見守るのが正解だと思った。


 今日まで幾度も見てきたその景色が、なぜか今日は特に美しいと感じられた。




※※※




 赤、青、黄、緑、橙、白——


 私の前に散りばめられているのは、キャンパスに描かれてるかの如く色鮮やかな絶景。何て言うんだっけこれ。さっき康平がイルミネーションって言ったっけ。



『ねぇママ、私、ママとパパと一緒にコレ見に行きたい!』



 ふと、私の脳裏に、いつしかの情景が蘇った。

 あれは、小学校に入った後、病気で立てなくなり入院が始まった直後の頃。

 お母さんがお見舞いに来てくれて、一緒にテレビを見て話してた。そこで街路樹がイルミネーションでライトアップされてるのを見て、私は思わず声を上げてしまった。

『コラ彩音、あまりはしゃぐと体に毒よ』

『アハハ、ごめんごめん……』

 そう宥めるお母さんは、テレビの眩い光景に向き直して、

『イルミネーションか……私も、見てみたいな……』

 今思えば、その声にもその瞳にも、淡い哀しみが含まれていた気がする。

 でも、言葉の上辺うわべしか汲み取れない幼少期の私は、何の躊躇いもなく返事を紡いだ。

『ホント?じゃあ、今度の私のお誕生日に連れてってよ!1人で歩くのは大変だけど、ママとパパがいてくれるなら大丈夫!』

『そうね。彩音の誕生日は来月だから、それまでには元気になるよう頑張ろっか』

『うん!がんばる!』


 ——そう決意した3日後、脚だけじゃなく腕も動かなくなり、間もなく口も表情も動かし辛くなって、ほぼ植物状態になったんだっけ。


 お母さんとお父さんと並んで見たかったイルミネーション。届かぬ存在だと思ってたそれが今、私の目の前に燦然と輝いている。

 隣に両親はいない。頭上の見えない位置に康平がいるだけ。でもどうしてだろうか、安心感はお母さんたちと変わらない。たった数時間前に出会ったばかりの男の子なのに。

 何となく顔を上げると、私は頬を伝う涙の存在に気付いた。全く無意識のうちに泣いていたらしい。

 でも、それを拭い取る気にはなれず、そのまま康平を見上げる。すぐには気付かないだろうと思っていたが、5秒も経たないうちに私の視線を感知したようだ。

「……すぐ気付いてほしくなかった」

「泣くほど喜んでもらえて光栄だよ」

 特に泣いてる理由に言及することなく、そして自分の功績をおごることなく、ただ一言添えて笑顔をみせた。

 ああ、やっぱり。この人の優しさに私は、惚れてしまう。とても口には出せないけど。

 きっと彼は人生経験の少ない私へのサプライズとして計画してたのだろう。でも私の中には、彼が想像してる以上の思い出が植え付けられた。ここに咲いた一輪の記憶は、決して枯れることがないと確信できる。


 だって、何があっても、康平が温かい水を撒いてくれるのだから。

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