1ー2
日めくりカレンダーをめくると、明朝体で『4月7日』と書いてある。
記念すべき入学式当日——我が
普通に起床し、普通に朝食を摂り、普通に制服に手を通し——
「あぁ、そっか。今日から学ランじゃないのか」
純白のカッターシャツの上に瑠璃色のブレザー、そして鼠色のズボン。そして朱に染まったネクタイを慣れない手付きで結ぶ。これで
数週間前まで中学生として全身黒一色だったので、突然の豊かな彩りに違和感を禁じ得ない。
「あら似合ってるじゃない、
後ろから声を掛けてくるのは、僕の着てるカッターシャツよりも白いスーツを纏った母さんだ。左胸元では
「あとは……スクールバッグだけか」
2階にある自室へ行くため階段を登ってると、1階から「先に車で待ってるよ」と母さんからの言葉が飛んできた。
了承したことを伝え、部屋の扉を開ける。右奥の勉強机の上に置いてあるスクールバッグを手に取り、部屋を出る。
別に時間には十分な余裕があるものの、母さんを待たせすぎては良くない。少し小走りになりながら階段を降りる。1階に着いて玄関に向かうところで、胸ポケットに生徒手帳がないことに気付く。
「しまった。確か勉強机の中に……」
再び階段を駆け上り部屋に入ると、一直線に勉強机に付属している棚を開ける。記憶通りそこに『1A3 草津 康平』と書かれた生徒手帳があったので、それを左胸ポケットに仕舞う。そして部屋を出ようとして————ゴソゴソ、という物音が耳に刺さる。
思わず足を止め、音源と思われる方向——勉強机の下に目を向ける。
「ま、まさか、奴が……?」
奴とは即ち、全人類の敵であり神出鬼没の黒い魔弾——僕はそれを『ブラック・ダイヤモンド』と呼ぶ。
まさか、こんな清々しい春の早朝8時前に、不愉快極まりない会遇を果たすとは。
落ち着け……こんなときのために、罠を用意してある。
本来なら母さんを呼んで冷却スプレー二刀流コンビでボコボコにするが、悔しくも今そんな時間はない。
そこで、僕は机の下への警戒を怠ることなく、ノールックで部屋のクローゼットに近づき、ドアを開ける。手探りで中を調べ、感覚だけで最終兵器である某ホイホイを取り出す(奴の名前だけは何があっても言いたくない)。
そして再びノールックで装置を組み立てる。慣れない手付きのため蓋となる部分を破壊してしまったが、黒衣の魔獣を捕らえる罠としての機能は十分にある。完成したブービートラップを机の前に置いたら、あとは帰宅後の結果を信じるしかない。
取り敢えず一安心し、ふぅ、と息を吐くと同時、ズボンのポケットに入っていたスマホが音を立てる。母さんからの電話だ。
スクールバッグを肩に提げ、急いで部屋を出る。「ごめんトイレ行ってた」と待たせてた理由をでっちあげて電話を切りつつ、慌てて靴を履いた。
※※※
「はぁー……入学式って、思ったより緊張するんだなぁ」
車で家に帰る途中、助手席で僕は深いため息を零した。隣で運転してる母がそれを見てケラケラと笑う。
「それ、中学の入学式のときも言ってたよ」
「……だろうね。僕、人混み苦手だし」
決してコミュ障というわけではない。事実、教室で隣の席になった男子とは軽く話せた。ただ、体育館での校長やら会長やらといった、偉い人たちのスピーチに身体が強張ってしまったようだ。
「帰ったらすぐ寝よう……」
数分後、睡魔と戦いつつどうにか寝ることなく家に着き、僕はゆらゆらと部屋に向かった。ドアを開けて椅子に向かうまでを流れ作業のようにこなすと、ブレザーを椅子に投げ、ネクタイの首元を緩める。体の力をストンと抜くと、重力に抵抗することなく倒れる肢体をベッドが受け止めてくれた。そうして怠惰な姿勢を完成させたところで、僕はようやく己の過ちに気付いた。
「あ、確認してないや」
そう、今朝仕掛けたトラップが働いたか確認しなくてはならない。
今、僕の顔は勉強机と反対側に向いてる。
……もしいたら、それはそれでキモいよなぁ。
……いなかったら、いよいよ冷却スプレーの出番か。
決心し、首をゆっくりと回転させる。ぐっと息を呑み、小さな
「……チッ、助かりやがったか」
こうなれば、自力で見つけ出すしかない。敵は恐らく、この部屋から出ていない。昼間に人目に付くリスクを負ってまで動き回る必要がないからだ。
ベッドの傍に置いてある冷却スプレー(もちろん2本)を両手に携え、机の前で膝を床に突く。一瞬、母さんを呼ぼうか迷ったが、今ここから離れたら次戻ってくる勇気が湧かない気がする。
「……やるしかない!」
まるで冒険型RPG主人公の如く気合を入れ、スプレーの口を机の下に向けてスイッチに添えた人差し指に力を込める。
プシュぅぅ……と化学的な音を響かせ、冷気を纏う白砂が隙間へ滑り込む。常に飛び出してくる可能性を危惧して、警戒心を一切緩めることなく注ぎ続けてると———
「——ひゃっ!」
——どこからか、女の子のような声が聞こえた。
あまりに突然で意味不明な出来事に目を丸くし、スプレーに添えられた指から力が抜ける。
「声……?」
ちょっと待て。僕は机の下の隙間に冷却スプレーを注いでいただけだぞ。どんな原理があればこのタイミングで女の子の声が聞こえる。
ポケットに未だ入ってるスマホは入学式参加時に電源を切ったままだから音源にはならないし、そもそも『女子の悲鳴』なんて通知音を設定した覚えもない。
中2の妹の部屋が隣だから、そこから何か漏れ聞こえた可能性を考えたが、瞬間で却下する。理由は単純で、今はまだ塾に通っている時間だから家にいるはずはない。それ以前に、2つの部屋を隔てる壁に音が漏れるような欠陥は存在しない。
僕の耳に女の子の悲鳴が届いた理由を考えるごとに、その不可解な現象は謎は深まっていく。
「……」
もっかいやってみようかな。
再びスプレーの発射音が部屋に響く。
さっきは稼働させて5秒程で謎の悲鳴が聞こえたが、今度は5秒経っても何も変化はない。
「僕の気のせいか……」
ホッと胸を撫で下ろし、つい10秒ほど冷気を送り続けていたことに気付く。人差し指をスプレーから離してスプレーの発射音を止めると、
「いたっ!」
再び同じ悲鳴と共に、ドンっ!と何かが落ちる音がした。あまり信じたくないが、今度は確実に聞き間違いじゃない。
正直、この時ある可能性を1つだけ考えついていた。あまりに非現実的な考えが。
意を決して、僕は脚を机から下げる。代わりにスプレーを持つ両手を机手前の床に置き、隙間を覗き込む。
そして、その奥で座ってる少女と目が合った。
「あ」「え?」
2人でしっかり声がハモり、お互いあまりの驚きに体が固まる。まるで冷却スプレーで凍らされたかのように。冷却しようとしたのは僕だっていうのに、実にシュールな光景だこと。
「……なんて冗談言ってる場合じゃないだろ」
暗くてハッキリは見えないが、紫紺のワンピースに長い黒髪を腰の辺りまで伸ばしている少女がそこに座っていた。だが特出すべき点は美麗な容姿より、その体が両手で包めそうなくらい小さいということ。
まさかとは思ったが———小人なのか?
「あのっ!」
突然、女の子座りをしたままの少女は呼び掛けるように声を張り上げる。
「は、はいっ」
まさか会話する意思があると思わなかったので、即座に丁寧な返事をしてしまう。
そして訪れるのは、気持ち悪い沈黙の間。そっちから呼んどいて黙らないでほしい。
「あーっと……」
今朝、新たな教室で出会ったクラスメイトともスラスラと会話が繋がったのに、今は驚きの連続で脳の言語回路がショートしたらしく、出てくるのは言葉にならない呻き声だけ。
すると少女は、暗闇でも分かりやすいくらいハッキリと深呼吸をした。
スーッ、ハァーッ……。
か弱い息継ぎが机の下に響き渡る中、少女は相変わらず座ったまま再び口を開いた。
「ちょちょ、ちょっとだけ……お、おは、おはなししま、せんか?」
どうやら向こうの方がガチガチのようだ。
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