第22話 光滴
ハンドルを握り、車を南へと走らせた。
南国の空気と調和した風が、開けっ放しのウィンドウから滑りこんでくる。
和やかな海を背景に、白い風車がゆったりと回り、公園では子供たちがシーソーではしゃいでいた。
車内のタケ爺は相変わらず、騒がしい。
「おれが若いころ、銛ひとつでマグロを捕ったことがある」だとか、ホラとしか思えない話ばかりしている。
最初は表情が硬かった明美も、次第にタケ爺のペースにハマり、屈託のない笑顔を広げるようになっていた。
田園地帯に入ると、畦道を通った先にある十字路の左向かい側に、その家が見えた。
今回の仕事の目的地――伊藤律子のいる家だ。
そこから少し行った先にある砂利道の脇の広場に車を停め、ゴロタたちはその家の前に立った。
タケ爺の家に負けず劣らず、伝統のありそうな日本家屋だった。
築地壁を従えた門構えの向こうからは、高い松の木が見える。
趣のある旧い表札には、〈伊藤〉と書いてあった。
明美の頬がひきつっている。
ゴロタは、彼女に深呼吸を三回させ、それからインターフォンを押した。
「ピンポーン」という普通の音とは異なって、「ジジジジ……」というどこか野暮ったく、重い音が響く。
明美が息を呑んでいるのを、ゴロタは背中で感じていた。
プツッと受話器をとった音がすると、「はーい」という、意外なほど明るい声が返ってきた。
ゴロタは明美に目をやった。
彼女は首をふった。
伊藤律子その人の声ではないらしい。
「突然すみません。山田と申しますが、松田友則さんからのお届け物を届けに参りました。伊藤律子さんへのお目通しをお願いできますでしょうか」
そうゴロタが告げると、「少々お待ちください」とその声の主は告げ、二分ほど経つと門を開けにきた。
どうやら、この家の女中さんらしい。
優雅な松の木が芝に植えられ、豪壮なつくばいのあるこれまた立派な庭を通り、一行は屋内へと案内された。
檜の無垢材が敷かれた廊下を歩き、床の間に浮世絵が掛けてある十二畳ほどの和室に通されると、女中さんにうながされるまま、ゴロタたちは着座した。
「今、律子さんを呼んでくるので、少々お待ちくださいね」
そう言い残し、彼女は襖を閉めた。
ゴロタは早速、きょろきょろとしている。
「タケ爺の家みたいすね」
「こんな清廉な雰囲気じゃないけどな」
「エロDVDがあるからなあ」
「それが、じじいってもんだ」
「他のおじいさんに謝ったほうがいいすよ」
ふん、とそれ以上はゴロタの相手をせず、タケ爺は卓上にあるモナカをつかんでモシャモシャとやりだした。
おいおい、とさすがのゴロタもため息をつく。
明美はといえば、正座をし、ずっと下を向いていた。
やがて、廊下の向こうから、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
明美の顔色は蒼く、となりでモナカをほおばっているタケ爺とは、残酷なまでに対照的だ。
「失礼します」
この家に住む人間とは思えないようなしゃがれた声がし、襖を開ける静かな音がした。
「ようこそ、お越しくださいました」
一礼をし、その女性は笑みを浮かべた。
年齢は五十歳くらいだろう。
右目尻の横のホクロが特徴的で、大人の女性としての雰囲気を備える、優雅な印象の
ゴロタは、立って礼をした。
タケ爺も立って同じように体を曲げ、明美は顔を伏せたまま、連れの行動にならった。
「どうぞ、お座りください」
ゆっくりと、それでいてどこか力強さを感じさせる足取りで、彼女――伊藤律子さんは、襖側の、ここでは下座となる席に腰をおろした。
(なるほど、この女の人なら、ヤクザ者相手にも啖呵を切るかもな)
肩で風を切り、ずいぶんと喧嘩を買ってきた経験のあるゴロタには、妙に感じ入るものがあった。
「いつか、こんな日が来るんじゃないかって思っていました」
穏やかだが、やはりしゃがれている声でそう言った彼女は、たおやかな表情で一同の顔を見わたした。
ゴロタ、タケ爺が順に自己紹介すると、彼女の目は、ようやく明美へと向いた。
明美は、顔を上げたことなど生まれてから一度もないかのように、うつむいている。
にも関わらず――伊藤律子の表情の柔らかさは、より深くなっていた。
「久しぶりね」
アンティークの壁掛け時計がチクタクと音をたてていく。
淡々と刻まれるその音だけが、静かな部屋にいつもの日常をもたらしていた。
やがて、
「はい」
という消え入りそうな声が、明美の口から漏れた。
律子は、目を細め、撫でるような口調で告げた。
「顔を、見せて」
ゴロタとタケ爺は黙っている。
ゴロタは視界の端に、明美の震えている姿をとらえていた。
「ごめんなさい……」
律子の言葉とは裏腹に、明美は机におでこがぶつからんばかりに頭を下げた。
一秒、二秒、三秒――
チクタクチクタク。
時計の針は、いつも通りに呼吸をしていく。
そんな時間を解きほぐすように、なおも律子は明美に顔を向けていた。
「いいから、顔を見せて」
明美はためらいながらも、ゆっくりゆっくりと顔を上げていった。
彼女の目には、大粒の涙が溜まっていた。
「ごめん、なさい……!」
震える声が、時計の針の音と重なった。
明美は怯えた子猫のようになっている。
だが、ゴロタにはどうしようもできない。
明美のとなりにいるタケ爺はといえば、じっと目をつむっていた。
律子は、しっかりと明美の顔を見据えていた。
悲しむでもなく、怒るわけでもなく、なんとも読み取れない顔で。
もしかしたら、短い時間だったのかもしれない。
けれど、ゴロタにはその時間がとても長く感じられた。
ようやく、律子が口を開いた。
「長かったわ、この一年半」
その声を聞くと、明美の感情が堰を切った。
この部屋に、嗚咽が飛び散っていく。
無様な響きは、明美が過ごした、そして律子が口にした「一年半」の時を物語っていた。
ゴロタは疼く腹をさすり、そっと、律子を見た。
彼女の頬は、つややかに光っていた。
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