届けて、それから
芳月啓真
第一章 怠け者、届ける 第1話 怠け者
「なにも持たずに行くのなら……なにも持たずに帰ってきなさい」
誰が言った言葉だったか。
山田
目の前を悲しそうにたゆたう煙が、月の色気とまざりあっている。
ゴロタは、人生で唯一の楽しみといえる時間をさっさと灰皿に押しつけると、窓を閉め、ついでに目を閉じ、古い机の上に肘をついた。
――男には、世界を閉じる時間が必要だ。ここで間違っちゃいけないのは、ただ目を閉じるってことだ。決してなにも考えちゃいけない。考えはじめたら、ろくなことがないっていうのが、男なのだ。そう、だから……
ふと、ドアの向こうで白いなにかがヒラヒラと落ちてきた。
「パンティーかな……」そうつぶやくと、
「もう、サイテー!」
耳をつんざく声が響き、頭にゴワゴワのタオルを巻いた女が廊下に姿を現した。
妹の由美だ。
「おいおい、それでスケベな神さんでも釣るつもりか? とんだ座敷童だな」
「なに言ってるの?」
由美は、顔を赤らめることもなく、子供を諭すような顔つきになっている。
「お兄ちゃん、またハードボイルドごっこしてるの? んなことしてても、ハンフリー・ボガードにはなれないってば。変態にはすぐになれるけどね……。あっ、もうなってるか」
「ふん」せっかくの気分が台無しだ。
「ほら、メッキがはがれはじめた」
「ユミチャン、イジワル! アホ!」
「はいはい」軽く手をふると、由美は眼鏡でも拾うような調子で自分の下着を手にとり、部屋へと戻っていった。
ひとつため息をつくと、ゴロタはベッドにあお向けになり、頭の下に両手をさしいれた。
――もう、三年か。
香川でのんびりと過ごしつつ、若いおなごを雇ってアイスクリーム屋をやる! そういきり立って、ゴロタの父親は家を飛び出していった。
たまに連絡はくるが、父のする話の九十九パーセントは古いトイレットペーパーにも劣るようなくだらないものばかりで、ゴロタは彼との電話でのやりとりをなにひとつ覚えていない。
ゴロタよりも頻繁に父親と連絡している由美によると、アイスクリーム屋はまあまあ繁盛しているらしいが、好みの女の子が働いてくれないらしく、今度はカレー屋をはじめたいと言い出しているらしい。
(母さんが出ていくのも当然だな)
母親は、七年前、ゴロタが大学を卒業すると同時にそんな父親と離婚し、北海道の実家へと帰っていた。
ゴロタが母と最後に会ったのも、もう五年前になる。
由美と北海道旅行に行ったときのことだ。
ともあれ、五歳下の妹と住むこの三LDKのマンションを残してくれただけでも、両親には感謝していた。
また窓辺に寄って、ゴロタはタバコに火をつけた。
さっきとは異なる軌道にのった煙が、夜空にとけてゆく。
煙の行方を追っていると、本棚の上に立てかけてあるDVDが目にはいった。
ゴロタが一番好きな映画〈カサブランカ〉だ。
身勝手にも思えるふるまいをしていても、全身から漂う知的さと優雅さでスクリーンを美術品に変えてしまう女優イングリッド・バーグマン。
彼女の奇跡的な存在感を、重厚な男の格で受けとめ、孤独を信念にまで昇華させた、名優ハンフリー・ボガード。
こんな男になりたい――。
ゴロタは、昔からその名優に憧れていた。
気がつけば、ひとさし指と親指でタバコをつまんでいる。
いわゆる、〈ボギースタイル〉だ。
そのスタイルを知らない奴は、自分で調べりゃいい。
友人からハンフリー・ボガードについて聞かれると、ゴロタはいつもそう答えていた。
吸い終わると、重たいまぶたをこすりつつ、ゴロタは風呂に入る準備をした。
檜のにおいがするタンスの引き出しから、洗いたての白いタオルに手を伸ばす。
そんな何気ない、いつもの日常の行為をするとき、ふと、人の心からある思いが湧き上がってくることがある。
そう、現実が刺さる時間だ。
「ああああ」
白いタオルに触れたゴロタがうめく。
「――山田権君」
「はい」
「次の職場で頑張ってね。うふ」
それが、前に勤めていたウェブデザイン会社で、年増のぶりっこ上司から最後にちょうだいした言葉だった。
契約社員だったし、在職期間は一年半くらいだったけれど、それでも悔しさは残る。
自分なりに必死にやってきたつもりだったが、その上司に嫌われたのが痛かった。
彼女が陰で自分の悪口を言いまくっていたのは知っていたけれど、契約を打ち切ってくるとまでは思っていなかった。
それから――ゴロタは、昔、二俣川のキャバクラで知り合ったホステスのアパートに転がりこんだ。
どこかちがう場所に住んでみたかったし、なぜだかそのホステスは自分のことを心底気に入っていたので、彼女の誘いにのることにしたのだ。
が……元々面倒くさがり屋のゴロタは、彼女の好意にすっかり甘えてしまった。
彼女が稼いでくるお金から小遣いをもらい、ろくに就職活動もしなかった。
ギャンブルはしなかったが、日がな一日中マンガ喫茶で過ごしたり、アパートで一日テレビゲームをしたり、その日その日を横浜近辺の沿線でぶらりひとり旅をして過ごした日もあった。
つまりは、ヒモだった。
「あたし、ゴロタのなんなの?」
そある日、彼女がきれた。当然だ。
ゴロタは何も答えられなかった。
今年の春、桜が満開の時期に、ついに追い出された。
とぼとぼとマンションに戻り、由美と久しぶりに顔を合わせたときの気まずさは思い出したくもなかった。
ゴロタはもう三十路になっている。
けれども、正社員になったこともないし、おまけにすでに五回も会社を変えていた。
三浪して入った中堅どころの大学でマックのイラストレーターにはまり、卒業してからはデザイン会社を転々としていた。
正規採用じゃなくても、自分が興味のあることがやれればいいと、それなりの希望は持っていたものの……現実はうまくいかないことばかりだった。
どこの会社でも、仕事以前に人間関係が原因で会社を辞めていた。
今はぽつぽつと就職活動をしているが、実は入っていない。
まだヒモ生活をしていた頃の怠惰な生活姿勢が抜けきっていないのだ。
手続きが面倒だしもらえるのかわからないので、失業保険は受けていなかった。
日雇いバイトをして身銭は稼いでいるものの、ゴロタの歳になって日雇いの仕事をするのはきつかった。
現場では、しかたなく働いている連中が大半だった。
自分も含めた労働者からにじみ出るため息混じりの空気と、明日がみえない環境に、自然と視線が下にずり落ちていく。
そこでは、未来を夢見る感覚がぼやけ、重い荷物を運ぶたびに、自分の道が歪んでいくような気がした。
トルルルルルルル……
長い間使い込んでいるガラケーのランプが光りだした。
ディスプレイを見ると、ゴロタの憂鬱な気持ちは一気に陰りを失った。
「もしもしんでぃーローパー」
「こんばんわんこそば」
電話口の向こうで、はきはきとしたエネルギーをふりまいているのは美香だ。
ゴロタが二社目に勤めた先で知り合った女性で、それ以来、仲のいい友達になっていた。
その会社は大手旅行会社で、美香は正社員として今でも事務を担当していて、ゴロタは派遣社員としてウェブデザインの仕事をしていた。
「ゴロタくん、元気?」
山田権ことゴロタは、友人の誰からもゴロタと呼ばれている。
由来なんて忘れてしまったが、いつもゴロゴロしているからだろうな、と思っていた。
自分でも気に入っている仇名なので、会った人には、自分からその仇名を紹介していた。
「元気だよ。元気すぎて興奮してくるよ」
「切るよ」
「切るな」
そんなやりとりをさっさと切り上げ、美香は颯爽とした口調で言った。
「借りてたマンガ、返したいから明日会えないかな?」
「ああ、いいよ。スラムダンクだよな。んじゃ、明日、十二時くらいに〈カマチョ〉でどう?」
「うん、わかった」
「メシ食いながら、スラムダンクについて語ろう」
「ゴロタくん、熱いからなあ。マンガの話になると」
「情熱的と言っておくれ。じゃ、明日十二時に」
「はいはいさ」
「あきらめたら?」
「そこで、試合終了!」
スラムダンクの名言を交わし、電話を終えると、ゴロタの顔に笑みが広がった。
ハードボイルドから日常、日常から憂鬱、憂鬱から喜びへと、忙しいゴロタの心にさわやかな風が吹きわたってくる。
美香とは、かれこれ五年ほどの友達づきあいになる。
小生意気でマイペース――。
出会った職場では真向いのデスクだったけれど、彼女の挨拶はそっけなかったし、いつもつんつんしているように見えた。
最初は、そんな美香が苦手だった。
けれども――。
ある日の会社帰り、ゴロタがエレベータの中でバッグから〈明日のジョー〉を落としたのがきっかけだった。
エレベータから降りると、同乗していた美香から声をかけてきたのだ。
「明日のジョー、ですよね?」
彼女は、明日のジョーに以前から興味を持っていたこと、でもなかなか手にできなかったことを、顔を上気させながら一方的に喋った。
それからというもの、明日のジョーはもちろん、色々なマンガをゴロタは美香に貸すようになった。
そうやって打ち解けると、今度は男友達のように気さくに飲みにいける関係になった。
ゴロタはそんな美香を大切な友達だと思っていたし、彼女もそうだろうと思っていた。
そんなささいな日常の中で、ゆっくりと、密かな想いがゴロタの中で育っていった。
彼女の笑顔、困った顔、下手なジョーク、元陸上部だというだけあるジョイナーのような駆け足――。
自分の気持ちを認めたとき、悪い気分はしなかった。ただ……
美香に彼氏がいたことを除いては。
美香はその恋人の話をするとき、よく耳の裏を人差し指の腹でかいていた。
それは、彼女が自分の好きな話をするときによくする仕草だった。
疼く胸をおさえ、ゴロタはそんな美香の話をずっと聞いていた。
こいつが好きな人なら、きっといい奴なんだろう――。
無理やり、そうやって心を取りつくろい、自分を納得させようとしていた。
そんな時間がつづいていたが、ある日――
彼女が泣いた。去年の秋頃のことだった。
恋人と別れたのだ。
町はずれの喫茶店で会ったとき、美香は喋ろうとするたびに、喉にビー玉がつまったかのようにどもり、結局、なにを言っていたのかわからなかった。
なにか声をかけるわけでも、なにかを差し伸べるわけでもなく、ゴロタはずっと彼女のそばにいた。
それしかできなかった。
彼氏と別れたものの、ゴロタは美香にアプローチしようとは思わなかった。
いや……できなかったのだ。
その頃はまだヒモ状態だったし、ろくに働いてもいなかったのだ。
でも、ゴロタはずっと、彼女のことが好きだった。
女は何人か知っていたけれど、なぜだか、美香の前ではいつもよりもはしゃいでしまう自分がいた。
なにも伝えられない臆病な自分がいた。
――明日、会える。
そんなささいなことが、ゴロタの心にほんのりとした温度を与えてくれた。
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