桜色アフタースクール

七夕ねむり

第1話 犬も食わない話

「ゆえちゃん、もう俺無理だ…………」

先輩の腕がずるりと流れ落ちた。はっと自分の息を呑む音が聞こえた。


「な!に!言ってんですか!」

私は床に転がり落ちる寸前で掴んだ筆を、彼の眉間にぶち込みたくなった。危なかった、床まで暫定九ミリ。慌てて乱れてしまった髪を耳に掛けた。

「えへー、やっぱり駄目か。あ!パ◯ラッシュ風にやればよかったのか!」

奥歯がギリギリと鳴る。目の前にいるきらきらと目を輝かせるイカれた馬鹿が私の先輩じゃなかったら、私は当に彼なんか放ってこの教室を飛び出しているのに。いやここは彼があの沢上蕾じゃなければ、と言うべきか。蕾先輩は、嫌味なほど整った顔面を崩して、楽しそうな笑い声を溢す。

「っと、シャーペンありがと。傷ついちゃったら大変だもんねえ」

お気に入りだもーんと手のひらに収まったシャープペンシルを確認する彼を目にして、メリメリとこめかみの血管が音を立てた。

「シャーペンだったんですか!思わせぶりなことしてんじゃねーよ!」

そうだけど、駄目だった?もう、ゆえちゃんは口がすーぐ悪くなるんだから。なんて呑気にへらへら笑う彼は、本当に私を苛つかせるスペシャリストだ。ブチりと何かが切れる音がする。

「ってかねあんたさっさと作品提出しやがれってんですよ!もう部内の期限過ぎてんの!ギリギリなの!いつまで経っても提出する様子無いからてっきり提出済みだと思ってたんですよ!私は!それなのに今日もまだってどういうことですか!しかも今描いてたの明らかに塗り始めでしたよね意味がわかりません!先生もあんたのことになると途端に甘くなるもんだから頼りないしこの前完成間近とか言ってた馬鹿はどこですかああここでしたねってことで歯食いしばれ」


「ちょ、まっ、え、ゆえちゃんちょ、!」


パチーンと気持ちの良い音が美術室に響いた。ああ、すっきりした………じゃなくて。


「どこまで出来てるか見せてもらいます」


項垂れた先輩が指差す方向を見ると、裏返しにされたキャンバスがひっそりと佇んでいた。上から下まですっぽりと白い布を被って。光に透けた金色の髪がきらりと光る。


「………出来てるんだ」

「は?」

「コンテストに出す絵、出来てるんだ」


彼がそう言うのと、私が布を引っ剥がすのは同時だった。私はごくりと息を飲む。

キャンバスに広がっていたのは、桜だった。

場所は校庭の裏だろうか。柔らかな日差しの中で、いくつもの花弁が軽やかに舞っている。春の匂いがこちらにまで流れ込んできそうな色が視界一杯に溢れている。


「出来てたん、ですね」


申し訳ない気持ちから恐る恐る切り出すと、いつの間にか隣に立っていた先輩はそれを気にもしない様子でどうかなと笑む。

「すごくきれい、です」

「それはよかった」

彼の作品にはいつも単純な形容しか思いつくことが出来ない。自分の持っているような言葉では言い尽くせない美しさがそこにはあった。そんな粗末な感想にいつも心から嬉しそうに顔を綻ばせる彼は、何か褒められた小さな子供のようだ。


「今年は桜にすると決めてたんだ」


ちらりと蕾先輩がこちらをみた気がしたけれど、キャンバスに釘付けな私には、正確なところはわからなかった。


「桜がお好きなんですか?」


確か、去年の今頃は校舎を描いていたと記憶している。


「そうなんだ、とても」


ね、と続ける先輩はどこか嬉しそうな口振りだ。何か良いことでもあったのか。最近気に入ってるアイスで当たりが出たとか。


「というか、出来てるんだったらさっさと提出してくれればいいじゃないですか」


そうすれば余計な体力も使わなくて済むのに。ギロリと睨んでやると、目を逸らした彼はごめんごめんと軽い調子で付け加える。

「全く………毎回先輩の進行具合を見張る私の身にもなってくださいよ。今回のコンテストはもう三年目なんだし………やっぱり、締め切り覚えてなかったんですか」

詰め寄ると焦った顔をした蕾先輩が唸る。

「いやあ、さすがに俺も今回は、」

「あんた覚えてたのに出さなかったんですか!」

「え、違うよ忘れてたよ忘れてた。うんうん」

この様子じゃ本当かどうかは怪しいが、部内締め切りをとっくに過ぎてしまっている現在ではどうでもいいことだとも言える。

私ははあ、と溜息を吐いて目の前のキャンバスを見つめた。こんな絵を生み出せる腕を持っているのに、締め切りひとつ覚えられないなんて呆れた人だ。そしてそんな彼を放って置けない自分にも同じぐらい呆れる。彼のキャンバスに手を伸ばして慎重に抱えた。

こうなることも、あの時から既に決まっていたのだろうか。

そう言えば、あの日も桜が舞っていた。この絵に負けず劣らずの降りそそぐ花弁と、春の匂い。

キャンバスの淡い桃色を凝視する。ちらりと過った空想にまさかね、と首を振った。


「先輩、これ先生の所へ持って行きますよ」

「へーい、ありがとー」


再びさっき見た書きかけの絵に取り掛かったものの、飽きたのか机に突っ伏したまま先輩がやる気の無い返事をした。

うん、無い無い。

目的の物を手に入れた私は、教室のドアを静かに閉めた。窓ガラスから差し込む光がキャンバスを照らす。だんだんと暖かくなってきた風がそよりとスカートを揺らした。

もうじき春がやってくる。










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桜色アフタースクール 七夕ねむり @yuki_kotatu1

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