第3話 summer girl

 頬がべたべたした。生温い風が耳を撫でた。潮の香りが纏わりつく。安物のパラソルが今は唯一私を守ってくれる騎士だ。

「波子さーん!」

ごうごうと唸る風に負けない声を張って彼女が私の名前を呼ぶ。

「お呼びだよ、波子」

普段と変わらない涼しい声で英がくすりと笑った。彼も私が海にはしゃげそうにもない性格だと分かっているのに。

「暑いからやだー」

随分小さくなった栗色が傾く。私はありったけの空気を肺に送り込む。

「暑いから絶対嫌ー!」

隣でさっきよりも大きな笑い声がした。



 「波子さんは海が嫌い?」

真っ青な空みたいなアイスが勢いよく欠ける。隠れた栗色のポニーテールがくるりと揺れた。

「海は暑いし、べたべたするし、人も多いからやだ。なんだってさ。」

ばりん。半分に折ったアイスが目の前に差し出されて私は奪うように受け取る。

「ね、波子」

しゃくしゃくと秒速で溶けてゆくそれを追いかけるみたいに無言で噛み砕く。言いたいことは大方彼が言ってしまったのだから、私にはアイスの方が先決に思えた。

「じゃあ」

弾んだ声で深有紀さんが言う。

「今度は冬の海に行かない?」

そしたら暑くもないし、人も居ないわ。

「波子が一番嫌な問題はどうするの」

そうだ、この潮のべたつく感覚は冬も夏も容赦ない。

「ああそれなら、」

大丈夫、と彼女は自信ありげに笑った。

「私と英君で波子さんを潮風から守ってあげる」

こうやってね。空の片手が不意に掬い上げられた。

「私が波子さんとするでしょう?波子さんが英君、英君が私」

でこぼこに並んだ三つの影が貝殻だらけの砂浜に長く伸びていた。彼女が、不意打ちで繋いだ手をぶんぶんと振る。英はけらけらと楽しそうに笑う。得意げな深有紀さんの顔は狡い。あまりに嬉しそうな目でこちらを見るものだから、とうとう私も噴き出してしまった。正直彼女のこういう所に私は弱い。

もう一度遠くまで歩いてみたいという深有紀さんの付き添いで、英は濁していた言葉に漸く頷いて追いかけた。潮風に触れた栗色の髪が、揺れる。眩しいだけだと思っていた太陽に反射して、ふわり、きらりと。その後ろでひっちゃかめっちゃかになった英の髪は中々に可笑しかった。元々が柔らかい髪質なので、こういう環境では一溜まりも無いのだろう。

「波子もおいでー!」

珍しく張った声が耳を打つが、私はかぶりを振った。


 もし、今ここで。私が砂になって二人の間から唐突に消えてしまったとして。あの二人はどうして生きていくのだろう。

私が居なくても深有紀さんは突飛押しもないことを言って誰かを驚かせているのだろうか。英は他の誰かの傍でも同じように涼しい声で笑うだろうか。二人は誰かの手を取って子供のようにはしゃぐのだろうか。

私はせり上がる喉の苦味をおかしいと思った。同時に零れる滴が憎らしくて、情けなかった。遠くの髪色はもう見分けが付かなくなっていた。大嫌いだと思った。でも、あんなに愛しくて危なっかしい二人には私が必要なんだと思った。今すぐに私の目の前から消えてほしい。私を忘れて全部無かったことにしたっていい。けれどずっと、ずっと。


 手のひらが寂しく感じた。目の前に影が落ちていた。

「波子?」

「波子さん?」

辺りは少し陽が落ちていた。人もまばらになりつつある。ひやりとした感触と、ごつごつした感覚が両手に広がった。

「「帰ろうか」」

どうしたの、なんて言わない。大丈夫、なんて聞かない。私達は自分たちが幸せになる方法ぐらい知っている。


「スパゲッティに、カレーに、ハンバーグ」


でたらめな歌を綺麗な声がなぞって紡ぐ。

「さて、波子の腕の見せ所だ」

無責任なことをぽいと言って英はまたくすくすと笑う。

「波子さんのスパゲティにカレーにハンバーグ」

確定事項になりつつある現状に私は小さな溜め息を吐いた。妙なメロディは頭の中をループする。調子っぱずれな歌声と幸福な溜め息に私は沈んで目を閉じた。

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