第2話
いつも使う道は車通りも多くなく、初心者の恭平でも問題なく運転できる。
トコトコと軽自動車を走らせること40分ほど。
山の斜面に作られた建物群が目に入った。標高は2000メートルを超える山の麓。村が築かれた場所も高地で平均標高は大体1000メートルなので、ここから見上げる山頂までは1000メートルくらいか。
ここから先は車がつかえない。
そもそも路地が狭く、急斜面なのでつづら折りの階段が多数敷設されている。
階段ではない通路もあるが狭いので、自転車も使えない。必然、移動手段は徒歩に制限される。
ここは妖幻地区。実質、この村の中心地になるところだ。
山の中腹、登山するならば300メートルほどになるだろうか。
妖幻地区に訪れる者のための駐車場に車を停めると、バックパックを背負い、刀をベルトに差した。
刀は刀袋にも入っておらず、それが刀であると一目見てわかる。
完全なる銃刀法違反だ。
だが、妖幻地区……いや、その地区も含めた村全体において、その法は通用しない。むしろ、ただの刀で武装したくらいでは不足していると忠告されてしまうくらいだ。ただの人間がうろつくなら、自動小銃くらいを携行していて最低限身を守れる、といったレベルである。
そんな危険な土地だが、恭平は自分の畑にでも向かうような気軽な足取りで妖幻地区に向かう。
そこは幅2メートルの堀と高さ1mの柵で囲まれており、地区に入るための門戸はひとつしかない。堀も柵も無い場所は引っ掛かりのひとつもない切り立った急斜面の崖になっており、まず普通の方法では登れない。侵入には特殊な訓練が必要であろう。
さて、門戸といっても、鳥居があるだけだ。
入り口が一つしかないとはいえこれで防犯は完ぺきなのである。
恭平はその門戸を潜り抜け、朱色の鳥居が等間隔に続く石畳の道を歩く。
「恭平じゃねぇか」
「おー、おはようさん」
進んでいくと、向かいから歩いてくる顔見知りの人物。
否。
人ではない。
二足歩行ではあるが、全身が毛皮に覆われており、その顔は犬のものだ。
身長170cmの恭平よりも頭一つ背が高く、体格も立派だ。
とはいえ素っ裸ではなく、甚平を着て鍬を担ぎ、籠をしょっていることから、農作業に行くことが分かる。
「なんだお前、今日もお狐様のところに行くのかよ」
「そうそう」
「こんな短期間で仕事があるなんて珍しいこともあるもんじゃねぇか」
「な、ありがたいことだけどさ」
「お前にとっちゃそうだろうな」
気さくに話しかけてくる犬顔の彼。
彼の名は丈之助。
見た目の通り人ではなく、妖怪。
犬神である。
「そっちは畑か」
「おう」
さすがに畑は斜面には作れないので、妖幻地区の外にある。
「気を付けろよ」
「わってるよ」
彼が、何故ここにいるのか。
何故、妖幻地区があるのか。
それを考えれば、いらぬおせっかいと分かっていても、恭平はそう言わずにはいられなかった。
粗暴な物言いだが性根は悪くないのか、犬神は恭平の心配を素直に受け取る。
「じゃ、とっとと行けよ。今日のダンナは機嫌がわりぃぞ」
「そりゃあ、俺が行くときはいつものことだ」
丈之助の忠告に、恭平は肩を竦めて応えた。
「そうかい。災難なこって」
「今更だ、もう慣れた」
「んじゃ、とっとと行きな。あんまり待たせるとただでさえ斜めな機嫌が落っこちちまうぜ」
「そうだな。じゃあ、精出して来いよ」
「おうよ。へっへ、お前さんもがんばんな」
犬神が、「人間は不便だな」という顔で言う。いやというほどわかっている恭平は、まったくだと苦笑するしかなかった。
犬神の丈之助と別れ、恭平は更に進む。
どこか懐かしさを覚える幻想的な家々が立ち並ぶ大通りを歩き続けることしばし。
壁の側面に沿って切り出され、つづら折りとなっている階段が目の前に現れた。
今日もこれを、登るのだ。
「はあ」
もう何度も登ったが、億劫なものは億劫である。
唯一の救いは、目的地は全体の三分の二ほど登れば良く、最上部まで行かなくていいことか。
かつて、一気に登れたことは一度もなかった。
この途中にも家や茶屋があるので、休憩していくのが吉である。
途中途中で休憩しながら、恭平は階段を根気よく登る。
ここに暮らしていたら、足腰は相当鍛えられることだろう。
ただ、人間にはかなり厳しい住環境であるのは間違いない。
丈之助のように、人間よりもはるかにタフな妖怪だからこそ、こんな険しい場所でも暮らしていけるのだ。
現に先ほどであった犬神の家は、この妖幻地区の中ほどの高さにある。
彼は冬以外は毎日畑に出るので、この道を一日一往復は必ずしているということだ。
「さすがにっ、マネできんっ! ふう……」
ようやっと登り切って、恭平は両ひざに手をついて大きく息を吐いた。
かなりしんどい。
少し息を整えなければ。
ようやく落ち着いてきたので、膝から手を放して身体を起こした。
正面には、見事な構えの邸宅。
武家屋敷とでもいえばいいのだろうか。
さすがに本物の武家屋敷の面積はこの斜面では確保できないので、殆どは崖の中に入り込んでいるが。
振り返れば、見事な景色が眼下に広がる。妖幻地区の、どこか郷愁を感じさせる和の街並みと、山々の間を縫った先に見える現代日本の街。壮観な眺めだった。
ともあれ、恭平は屋敷に近づいていく。
ちょうど後10メートルというところで。
「止まれ」
横合いから声がかけられた。
いつもの位置だ。
慣れたもので、恭平はそこで立ち止まった。
声がした方を見れば、狛犬……の代わりに石の狐像があり、それが喋っていた。
武家屋敷に狛犬の変わり。
不思議だが、ここでは人間社会の常識を捨てた方が幸せになれると、恭平はすでに学んでいる。むしろ人間社会の常識を振りかざす側が非常識になりかねない。
「名を名乗り、要件を言え」
「安生恭平と申す。貴家のご当主様より招待いただいた故、参上した」
少々仰々しく古臭い言い回しだが、この狐像にはそうした方がいいのだ。
一度普通に友人と会話するように話してみたとき、「無礼な者は通せぬ」と物理障壁を張られてそれ以上進めなくなってしまったのだ。
その時は運良く先に進めたものの、二度も幸運は無いものと思っている。
なので、無礼にはならず、かといって過度にはへりくだらずに話すよう努めることにしていた。
「連絡は来ている。通ってよし」
「感謝する」
障壁は無いので、先に進める。
恭平はそのまま屋敷の正面玄関に近づき、その軒下から下げられている紅白の綱を引っ張った。
からんからんと、梁にくくりつけられた鈴を鳴らす。
神社の拝殿で見られるものだが、ここではこれが呼び鈴である。
参拝の時に鳴らすものを神社でもないここに置いて問題ないのかと思ったものだが、この屋敷の主はまったく気にしていないのでずいぶん前に考えるのを止めた。
すっと引き戸が開けられる。
その向こうには、恭平も知る僧衣の男が。
顔は後ろの襟で隠れている。彼の周囲には数珠と柄香炉がゆらゆらと浮いていた。
妖怪、襟立衣だ。
「来たな」
約束の時間は午前11時。
今は約束の時間5分前だ。
時間を調整しながら来たので、いい塩梅である。
「仕事があるって聞いたけど」
「話は中でする。上がれ」
それだけを言って、襟立衣は踵を返した。
無愛想だが、まあ仕方のないこと。
それを言ってもどうしようもない。
恭平は靴を脱いで襟立衣に続く。
案内されたのは応接間だった。
用意されていた座布団に座ると、その対面に襟立衣が座った。
どうやら、このままここで仕事の話がされるらしい。
「猫又は無事始末したようだな」
「ああ」
まずは、昨日の仕事の報告だ。
「ご苦労。報酬はいつもの口座に振り込む」
「分かった」
といっても、これで終わりだ。
このたんぱくなやり取りはいつものことである。
「今回の依頼は、ある妖怪から玉藻の前様に持ち込まれたものである」
襟立衣……厭離(えんり)は、特に前置きもなく話を変えた。
恭平に聞く準備が整ったことを確認するのでもなければ、もてなしの茶もない。
前者はともかく、別にもてなしてもらおうとは思ってはいないのでいいのだが。
別に悪意があるのでも、悪気があるのでもない。厭離がこういう男であるというのは、もう数年来の付き合いで分かっているのだから。
恭平は何も言わず相槌を打つことで先を促す。
「仕事の内容は、依頼主の妖怪から直接聞くように」
なるほど、と恭平は頷いた。
依頼主と依頼の内容までこの場で共有される、もしくは依頼主に会って直接話を聞く、の二パターンある。
これもまた昔からのことなので今更気にすることはない。
わざわざここまで来て、依頼主に会うために即下山。
最初はいやがらせかと思ったものだ。
登るのがこれだけ辛いのを考えると、何らかの手段で連絡してくれればいいのに、と考えたのも致し方ないことだろう。
ただ、それができるのならばとっくにやっているだろうし、依頼の話をするにつれて、これは直接会話した方がいいと考え直すことになったのはいい思い出だ。
「依頼主は15時にこの場所に来る手はずになっている」
地図を確認すると、いつもの喫茶店であった。
ここからだと車で余裕を見て1時間というところ。
所要時間自体は自宅からここまでとそう変わらないが、自宅からここまでが下道なのに対し、これから向かう喫茶店へは有料道路を使う方がいいくらいには遠いのだ。
これがプライベートでの移動なら有料道路代を払いたくないので使わないが、仕事ならば話は別。
約束の時間に遅れるなどあり得ない。そのようなことをして、仕事がもらえなくなったらたまらない。
まだ今の恭平には他へのツテがない。唯一の取引先に眉を顰められるような行為はできる限り避けたいところだ。
厭離はこれ以上口を開かない。
どうやらこれで終わりのようだ。
依頼内容は依頼主から聞くパターンなら、恭平としてもこれ以上ここにいる理由は無い。
もう辞していいだろう、と席を立とうとすると。
「ええ、伝えることは以上ですわ」
いつの間に。
恭平の真横には、女性が正座していた。ご丁寧に座布団の上だ。
恭平は驚くことなく、お邪魔しています、と応じた。
「相変わらず、驚いてはくれませんのね」
色打掛の袖で口元を画し、くすくすと笑う。
「何度も驚かされたものですから」
神出鬼没も甚だしいが、もう慣れたもの。
そう言外に込めて呟けば、彼女はまた愉快そうに笑った。
「厭離、ここはもうよろしいですわ」
「はっ。失礼いたします」
厭離は頭を深く下げ、最上の礼をもって応接間を退室した。
彼が出ていくのを待って、女性が恭平の正面に座る。
いつ見ても美人である。
絶世、という、普通なら大げさな修飾語を使ってまったく大げさにはならない美貌。
桁違い、といってもいい。
純和風の顔立ちに、長い金髪がこれ以上なくマッチしているのも、彼女の美貌故だろう。
薄紫の色打掛が、妖艶かつ優美な雰囲気を際立たせていた。
そんな彼女の頭には、狐の耳。そして臀部の上からは狐の尻尾が一本。
そう、目の前の女性こそ、この屋敷の当主。
日本三大妖怪の一角に数えられる、玉藻の前その人であった。
彼女の紅の瞳には、恭平の顔が反射している。
眼前の玉藻の前に比べて、自分のなんと平々凡々としたことか。
恭平は一瞬そんなことを思うものの、すぐに気持ちを立て直した。
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