第1話
風に踊る桜の花びらが、眼前を通り抜け、視界をふさいだ。
ふさがれた視界が開けると、白無垢を着た絶世の美女が目に入った。
いや、美女だと知っているからだ。
何故か分からないが、見えるのは口元のみ。
ただ、見えないことはそれほど重要ではなかった。
彼女の顔は、良く知っているからだ。
知っている、はずだった。
自分は、美女を見上げていた。
……これは夢だ。
すぐに気付いた。
手の中にある刀を、美女に差し出した。
美女は刀を左手で受け取って眼前に掲げると、人差し指と中指を立てた右手を顔の前に持ってきた。
それを、ただただ眺める。
何が起きているのか、分かっていなかった。
ただ、それは自分のために行われているということだけ、分かっていた。
桜の花びらを巻き込んで、美女の周囲を風が柔らかく渦を巻く。
季節外れの粉雪と共に。
自分は、美女を見上げていた。
やがて渦を巻いた風がすべて刀に吸い込まれていった。
ほどなくして、その幻想的な光景は、まるで起きていたこと自体が幻想であったかのように、跡形もなくなっていた。
美女が微笑みと共に刀を自分に向けて差し出す。
薄いピンク色の唇が、言葉を紡いだ。
何を言っているのかは、聞こえなかった。
ただ、その刀を受け取り。
背後に放り投げた。
口を動かした。
美女に向けて何かを言った。
力の限り、叫んだ。
けれども、それが音になることはなかった。
ただし、美女には聞こえたようだ。
唇がわずかに弧を描いて、彼女が微笑んだことが分かった。
そして最後に、美女が何かを言う。
何を言っているのかは、聞こえなかった。
自分は、美女を見上げていた。
彼女は少しかがんで自分の頭を撫でる。
ぽたりと何かが頬に当たった。
美女は強い風で周囲に風の渦を作った。
桜と雪が舞う。
青空高く昇っていく。
あまりの強さに目が開けていられない。
全身をたたく風が収まった時。
そこにいたはずの美女は、影も形もなかった。
ただ一つ理解していたのは。
これが、今生の別れである、ということだけだった。
◇
聞きなれた電子音が、落ちていた意識を戻す。
目を開けると、カーテンの隙間から差し込む光が、朝の訪れを告げていた。
目覚まし時計のアラームを止める。
4月8日。時刻は朝7時40分。
ああ……やっぱり夢だったと、安生恭平は、まだぼんやりした頭で理解した。
今も忘れたころに見ている夢だ。
決まって刀を受け取ってから彼女が消えるまでの、ほんの数分にも満たない夢。
心に残るのは、わずかばかりの寂しさ。
もはや何を話したのかも、何を言われたのかも覚えていない。
顔はおろか、名前も思い出せない。
ただ、非常に大切な思い出だということだけは分かる。
風化してなお、夢に見るのはそういうことなのだろう。
「あ~……」
だからこそ、思い出せないというのはとてももどかしいものだった。
天井を見上げたまま、恭平はガシガシと頭をかいた。
姉のような女性だった。彼女も、恭平を弟のようにかわいがってくれた。
そこに初恋などの甘酸っぱい感情はなかったが、恭平にとっては「姉のような」というキーワードが何よりも大切だった。
その思い出があったからこそ、今この瞬間を迎えられているのだと思う。
ただ、もう何年も前の話なのに未だに定期的に夢に見るので、目が覚めた瞬間、まだ自分が子どもであるかのような錯覚を味わうことになるのは、勘弁してほしいところだ。
「もう選挙にも行けるし、車にも乗れるんだけどなぁ」
突き付けられた自分自身というやつにひとしきり唸ったところで、恭平は仕方なしと身体を起こしてベッドから出る。
カーテンを開けると、朝の日差しが差し込んで、部屋の中を照らした。
昨晩はとりわけ寒かったが、今日は4月の平均気温以上で暖かいという予報だったはずだ。
振り返る。いつもの自室だ。
ウォールハンガーには、つい先日まで毎日着ていた学校の制服。
4月になって晴れてお役御免になったもの。そろそろ押し入れの奥にでも放り込んでおこうか。
と、考えて早二週間。面倒くさがりの虫が顔を出してそのままになっていた。
まぁいいや、と恭平はそれを見なかったことにして、着替えてから一階に降りて朝の準備をすることに。
ティーバックの緑茶を用意し、ずぼらな男一人暮らしの味方「レンジでほかほかご飯~お徳用~」を卵かけご飯にして、インスタントの味噌汁でかき込む。
シャワーを浴びてからざざっと身だしなみを整える。こぢんまりとした二階建て一軒家の中をせわしなくあっちへ行きこっちへ行き。
一通りの準備が終わって、後は出るだけだ。
鍵の束、財布はいつものバックパックに入れてある。
スマホも持った。
刀もちゃんと持っている。
忘れ物はない。
後は最後のルーティンをこなすのみ。
恭平は和室に行き、仏壇の前に立つ。
線香を焚き、リンを鳴らして手を合わせる。
一年前に亡くなった祖母への手向けである。
物心ついたころからずっと面倒を見てくれた、恭平にとっての育ての親で恩人だ。
「行ってくるよ」
最後に挨拶をして、恭平は家を出て車に乗り込んだ。
とにもかくにも、まずは今日の仕事内容の確認だ。
今日は4月に入って都合二度目の依頼。まだ上旬だというのに二件目とは、かなりのハイペース。
ただ、このペースで次々と仕事が来るのはレアケースだ。下手したら月に二回あるかないかの時もある以上、与えられる依頼はすべて引き受ける意識でいないといつ食いはぐれるか分からない。
こういう時、就職した友人をうらやましいと思ったりもするが、一方で恭平は今の生活を選んだことを全く後悔していない。
むしろ、自身の目的のためには、この生活でないとだめだったのだ。
車に鍵を差し込んで回すと、キュルキュルとセルが回ってエンジンがかかった。
「よし」
恭平は車には詳しくないが、セルモーターの音が悲鳴に感じられた。少々聞きたくない音であったが、走るだけありがたい。
買ってまだ三か月も経っていないが、やはり間に合わせで購入した古い軽自動車。走行距離もかなり行っていて、ありていに言えば過走行気味である。
高校生の時に買った車で、バイヤーも紹介してもらったので融通が利いた。少々グレーなことでも金さえ払えば引き受けるバイヤーである。
まあ、現金一括だったというのもあるが。
ともあれ、学生時の恭平に用意できた予算などたかが知れているので、安い車しか対象にならなかった。
メンテをきちんとするという約束の上で、間に合わせという認識を持つのならば、まあいいだろうとバイヤーに言われたものだ。
若葉マークを付けた車のギアを入れてパーキングブレーキを解除し、アクセルを踏む。
そのまま、目的地に向けて車を発進させた。
目指すはこの村の統治者にして管理者、日本三大妖怪に名を連ねる妖怪の住処である。
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