第32話


 そう言うやいなや、包丁を両手で握り込んだ陽愛が、雅人に向かって大きく足を踏み出した。

 それとほぼ同時に、横あいから肩をぶつけながら詰め寄った花が、すばやく陽愛の腕を取った。


「やめなさい! そんな、バカなことっ!」

「離してっ! 離してよっ!」

「落ち着いて! 自分が何をしようとしてるかわかってるの!?」

「うるさいっ! お前がっ! お前だって!! タクの優しさにつけ込んで、タクをたぶらかしたんだ! 絶対、絶対許さない……!!」


 叫びながら髪を振り乱し暴れる陽愛の腕を、花がなんとか上から押さえつける。

 すぐさま拓美が呆然と立ちつくす雅人を押しのけ、花と一緒になって陽愛を取り押さえ、手首をひねって刃物を落とした。

 すかさず花が陽愛の片腕を取って、背後でねじりあげる。


「い、痛いっ! は、離して、離せっ!!」

「バカなことしないって、誓う? そうしないと、離すわけにはいかない」


 花がそう告げるが、陽愛はただひたすら離せ離せと喚き散らすだけで話にならない。

 

「……花、いいよ」


 刃物を拾い上げた拓美が、花の肩に触れてなだめるように言う。

 不思議なぐらい落ち着いていて優しい声だったが、なぜか花は背筋に妙な悪寒がした。

 言われるがままつい力を緩めてしまうと、腕を振りほどいた陽愛がすぐに身を翻して拓美の胸元へ飛び込んだ。


「タク……タクぅっ……!」


 陽愛は目をうるませながら、すすり泣くような声を出して拓美にすがりつく。

 拓美は陽愛の頭に手を置いて、あやすように優しくなでつけた。

 するとそれに応えるように陽愛は拓美の背中に両手を回し、顔を上げて涙ながらに訴えかける。


「ねえ……タク? こんな女なんかより、本当は、あたしのこと……好きだよね? そうだよね? 正直に、言って」

「……うん。俺もヒナのこと、好きだったよ」


 拓美が頷くと、みるみるうちに陽愛の瞳が見開かれ、口元が緩んで頬が紅潮しはじめる。

 拓美の顔をじっと見つめた陽愛は、花に向かって一度流し目を送って、再度視線を拓美に戻す。

 

「あのね、タク、あたしも……」

「……でももうヒナは……俺の好きだったヒナじゃないんだ。俺はさ……俺のことが好きなヒナより、いつもみんなの真ん中で輝いてるヒナが好きだった。ちょっとわがままだけど、いつも明るくて楽しそうにしてて、誰にだって優しくて……。俺みたいな冴えないやつにもみんなとおんなじように接して、人の悪口とか、陰口とかも言ったりしなかった。でもそれが今は、俺にだけ、優しいなんて……そんなのヒナじゃない。だから俺、今のヒナは……嫌いだ」


 そう言って、拓美は陽愛の両肩を掴んで、自分から引き離した。

 陽愛はぽかんと口を開けたまま、しばらくあっけにとられた表情をしていたが、


「ウソ……そんな……。どうして……?」


 両膝の力が抜けたようにガクリとその場に崩れ落ちると、床を両手について頭をうなだれた。

 立ったまま陽愛を見下ろす拓美の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

 

「……ごめん。でも、悪いのは俺なんだ。マサの言う通り、ヒナが変わっちゃったのも、俺の……俺のせいだから。もとを辿れば悪いのは俺だから。マサだって……本当は、悪者なんかじゃない」

「なんで、なんでそうやって……だって、悪いのは……どう考えても、マサでしょ……?」

「……ヒナはよくマサの文句言うけどもさ。マサはさ……昔俺が一人でさ、みんなに声かけられないでいるとこに、一緒にキャッチボールやろうぜって言ってくれて……。でも俺やったことなくて超ヘタで、ノーコンでさ。ボール変なとこに投げちゃって取れなくなっちゃって……他のみんなは怒って帰っちゃったけど、でもマサはボール取れるまで手伝ってくれて、嫌な顔しないでずっと付き合ってくれたんだよ。俺のこと初めてタクって呼んだのもマサだよ。俺は雅人でマサって呼ばれてるから、じゃあ拓美はタクだなって言って。俺、あだ名なんてなかったし、そんな風に呼ばれたことなくて、すげえ嬉しくって……。だからマサは……めっちゃいいやつなんだよ……。……本当は……こんな、こんな事するようなやつじゃねえんだよ! そうだろ!?」

 

 喉の奥から引き絞るような叫びが室内にこだまする。

 呆然と成り行きを見守っていた雅人が、はっと息を呑んで拓美を見た。


「タク……」

「マサとヒナが変わっちまったのも、こんなことになったのも、全部俺のせいだ。俺のせいなんだよ。俺がいると、みんな不幸になるんだよ。親父と母ちゃんが離婚して、親父が出てったのもそう。俺がいたからだよ。簡単なことだよ、最初っから最初っから……もっと、もっと早くすればよかったんだよ」


 そう言って拓美がゆっくりと右腕を持ち上げると、薄暗くなった部屋にわずかに差し込む光に反射して、鋭角の凶器が鈍く光った。

 同時に拓美は体の向きを変えて、花の方を見て、小さく笑った。


「さよなら、花。嫌いって言ったのは嘘だから。本当に、大好きだった」

「……そんなの、わかってるから。ね、拓美、落ち着いて……」

「葬式とかいらねえからって、おじさんに言っといて」

「拓美!」


 精一杯に声を振り絞ったが、それとは裏腹に金縛りにあったように花の体は動かなかった。

 自分が独断で起こした行動がきっかけで、最も恐れていた……あってはならない事態に発展して。

 後悔の念と、自身の無力さと情けなさに押しつぶされそうになっていた。

 そして何よりも、怖かった。

 もう何もかもが手遅れだったのではという予感が頭をよぎって、体の芯が震えだして、でも認めたくなくて、必死に手を伸ばそうとした。

 

 拓美が、逆手に持った刃物を振りかぶる。

 遠い。届かない。伸ばした手は、ただ宙を掴むばかりで空を切った。

 しかしその瞬間、花の視界を遮って、拓美に飛びついた影があった。

 大きな影は大きな手で、拓美の手首を掴んだ。


「やめろ、タク」

「なにやってんだよマサ……あぶねえだろ? 指切れんぞ? 切ったらバスケできねーだろ?」

「いいからやめろって!!」


 拓美と雅人が腕を絡ませあい、至近距離でにらみ合う。

 身長の高い雅人に膂力ではわずかに分があるようだったが、明らかに拓美のほうが浮足立っていた。

 何より拓美の顔には、はっきりと動揺の色が見て取れた。花が見たこともない決死の形相だった。


「邪魔すんじゃねーよ! 死ね死ね死ねって、何度も手紙よこしたじゃねーかよ! いま望み通りにしてやっから黙って見とけよ!」

「俺だって、本当はあんなこと、したくなかったよ! 俺だって……もう、自分で何やってんだかわけわかんねーんだよ! けどもう、後には引けなくなってて……お前がいつ言うかいつ言うかって、それだけが……! お前、ずっと前から気づいてたんだろ? なんで、なんですぐ言わねーんだよ! お前が、すぐ止めてくれれば……俺は……!」

「そんなの俺だって、お前のこと……マサのこと、信じてたんだよ! 信じたかったから……!」

「そうだよ、お前を裏切った俺が全部悪ぃんだよ! だからもういい! もういいんだよタク! どうせ俺はもう終わりだよ! どうしても、やるってんなら俺を……俺を! それで俺を殺せよ! お前が死ぬことなんて、ねーんだよ!」


 雅人がそう叫ぶと、不意に刃物を手放した拓美の腕が、目にも止まらぬ速さで雅人の腹部を拳で強打した。

 腰を曲げて前かがみになる雅人を突き飛ばすと、拓美は脇目もふらずに部屋を飛び出していった。 


「ぁぐっ……ま、待てよっ! タクっ!!」


 雅人はよろめいて腹を手で抑えながら、床に手をついてうずくまる。

 歯を食いしばり顔を上げたその先で、同じようにしゃがみこんだままの陽愛を見た。

 雅人は拓美から奪った刃物を、床を滑らせるようにして陽愛に向かって投げつけた。


「さあやれよ!! 俺を殺して、今すぐタクを助けてみせろよ!! 助けてくれよ!! それでタクと一緒になって、二人で幸せになるんだろ!?」

「あ、あ……あ、あたし……あたし、は……」


 陽愛はガタガタと身を震わせて首をわずかに左右に振りながら、床の上の包丁を見つめてうわ言にようにそう繰り返すばかりで、一歩もその場を動こうとしなかった。

 それを見た雅人は舌打ちをして立ち上がると、おぼつかない足取りで拓美の後を追って部屋を出ていった。

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