第30話

花が再び拓美の家を訪れたのは、それから一日置いた、その次の日だった。

 連日の雨で黒く厚い雲に覆われた空模様の夕方。学校の帰り。

  

 エレベーターを待つことはせず足早に階段を上がって廊下を進み、拓美の部屋のチャイムを鳴らすと、拓美の代わりに雅人が玄関口に出てきた。

 普段どおりの微笑を浮かべた雅人の後をついてリビングへ入っていくと、ソファに浅く腰掛けていた拓美と目が合う。

 拓美は花に笑顔を向けることも弾んだ声をかけることもなく、ただ無言でふいと視線をそらした。

 花もそんな拓美に特別言葉をかけることもなく、テーブルの上にカバンを下ろしながら、誰にともなく言った。


「真中さんはバイトで少し遅くなるって言うから」


 拓美と別れることになったこと、雅人と陽愛の二人にもしっかり面と向かって自分の口から伝えたい。

 そう拓美に要望をだし、今回の集まりを設けた。

 メッセージのやりとりでは最初拓美は渋っているようだったが、花が引かないと見るやようやく折れた。

 しかしそのかわり「これで本当に最後だから」とも念を押された。


「そっか、あいつ今日バイトか……。待ったほうがいいよな?」


 雅人が難しそうな表情で顎をさすりながら、花と拓美へ交互に視線を送る。

 二人には大事な話がある、とだけ伝えて呼び出したが、花と拓美の態度から何の話をするのかおぼろげに察しているのかもしれない。

 何も答えない拓美をよそに、花は雅人に向かってうなずいてみせる。

 

「構わないわ。先に……話しましょう」

「え? 大丈夫?」

「大丈夫。拓美も、いいわよね?」」


 花はそう言いながら、懐から携帯を取り出して一度画面をチェックし、カバンのポケットの部分に差し込んだ。

 拓美は眠たいのかぼうっとどこか宙を見ていたが、尋ねられて顔をもたげる。


「俺はいいよ。なんだって……」


 少し投げやりな返事だったが、花は気に留めることなく傍らの雅人に向き直った。

 雅人は立ったまま持っていたペットボトルのお茶を一度あおいでキャップを締めると、座布団の上に腰を下ろしてあぐらをかいた。

 花は一人だけリビングの中央で立ったまま、話し始める。

 

「おとといのことなんだけど、このマンションの近くで私と拓美が……いえ、私が何者かに襲われたの」


 花がそう口火を切ると、元々どこかぎこちなかった場の空気がさらに不穏なほうへと変化した。

 それでも花はお構いなしに、淡々と話を続ける。


「それで、少し……」

「花」


 だがそれを拓美の声が遮った。

 花が首を拓美の方に向けるが、拓美はテーブルの縁のあたりを見つめたまま、微動だにしなかった。

 花は再び雅人の方に顔の向きを戻しながら、


「そのことで雅人くんにも……」

「花!」


 今度は拓美がこれまで聞いたこともない鋭い声で花を呼んだ。

 思わず視線を向けると、生気の抜けたようだった拓美の表情はいつしか固くこわばり、どこかぼんやりとしていたはずの瞳は厳しく花を睨んでいた。

 やめろ、というのだろう。

 拓美は花が別れを報告すると思っていたはずで、この話は花の完全なる独断だ。

 

 しかしその拓美の一声で、花は自分の推理は間違いではなかったと改めて確信した。

 これから自分が何を言うか、何をしようとしているか。拓美はすでに気づいている。

 やはり拓美はすべて、最初から、わかっていたのだと。


 花がじっと拓美を見つめ返すと、拓美はわずかに首を横に振った。

 だがなんと言われようと、もう花には引き返す気はなかった。

拓美の視線を振り切って雅人へ戻すと、雅人が訝しげな顔で、


「……二人でどうした? それで、何だって?」

「その時は拓美が助けに来てくれて、なんとか事なきを得たんだけど……ただ不思議なのは、相手に全然やる気を感じられなかった。やろうと思えば自転車で近寄って、そのまま警棒で後頭部を狙うだとか、いくらでもできたはずなのに」

「警棒って、ずいぶん物騒だな……。状況がよくわからんが、でも自転車に乗ったままって、結構難しいんじゃないか」

「さっさとやればいいものを、わざわざ傘を踏みつけたりして……。でも今思うとあれは威嚇だったのでしょうね。つまりもともと、本気で危害を加える気はなくて、ただの脅し。まぁ、腕の一本ぐらい痛めつけてやろう程度は考えていたのかもしれないけど……」

「あのさ、それ最初っから詳しく話してくれる? 全然状況が見えなくて……相手の姿は見てない?」

「それはこっちも望むところよ。詳しく話が聞きたくて……一体どういうつもりで、どうして、あんなことをしたのか……」


 花はそう言って一度天井を仰ぐと、ゆっくり息を吐き出しながら、間近で見上げてくる顔へ向かって目線を落とした。


「雅人くん。教えてくれる?」

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