第29話

結局、最後は口をつぐんでしまった拓美を置いて、花は拓美の家を飛び出した。

 自分でも驚きだった。最後に涙を流したのなんて、一体いつだっただろうか。

 こうまでして自分が……他人のことでここまで感情を動かされるのは初めてのことだった。

 

 もちろん悲しいというものあるけども、ただ悔しかった。

 ついに拓美が、話してはくれなかったこと。そして何もできない無力な自分が。

 

 口には出さずとも、拓美の考えていることはわかっている。

 それはおそらく、拓美だって同じのはずだ。それでも彼は誰も巻き込まないことを選んだ。

 

 自分なら彼の力になってあげられると、そう思っていたのに。

 私は強いから。警察の知り合いだっていっぱいいる。なんて息巻いていた自分が愚かしい。

 

 考えれば考えるほど、拓美の放った言葉と自分の答えが頭を渦巻いて、堂々巡りになって、いつしか思考はすっかり精彩を欠いていた。

 とりあえず今日は出直そう。そう思って、花は帰り道を急いだ。


 時刻は夕方六時前。拓美のマンションを出てすぐの通りは、いつにもまして暗かった。

 今日一日降ったり止んだりを繰り返す曇り空だった、というのもあるが、最近めっきり日が短くなり、これまでの感覚でいると帰宅時間を読み違えそうだ。

 大通りへ出るまではまばらな街灯と人家から漏れる明かりだけが頼りで、遠くに見えるコンビニの看板が普段より一層輝いて見える。


 花の足取りが知らず早くなると、まだ濡れたアスファルトの上をぽつ、ぽつ、とまばらに打つ音がしはじめた。

 また降ってきたか、と携えたビニール傘をかざして、開こうとしたその矢先。

  

 シャーッとかすかに水を弾くような音が、物凄いスピードで背後から近づいてきた。

 それが自転車の音だと気づいたときには、もう音はすぐそばまでやってきていた。


 追い抜くにしても近すぎる。

 不審に思って振り向くと、案の定猛スピードで自転車が花めがけてまっすぐ向かってきていた。

 とっさに飛び退くようにして道を開けると、自転車はそのすれすれを通り抜けていく。


 花がよけなければ危なかった。

 驚き半分苛立たしさ半分で見ていると、自転車は急に強くブレーキをかけて少し先で止まった。

 謝罪でもしてくるか、と思っていると、自転車から降りた人影は、突然こちらに向かって走り出した。


 黒一色の上下。

 黒いマスクと帽子、サングラス。背の高さからして、おそらく男性。

 いつの間に取り出したのか、相手は手に棒状の金属のようなものを持っていた。


 はっとした花は、とっさに持っていた傘を縦に身構える。

 その刹那、一気に走り寄ってきた影は花の予想を裏切ることなく、無言で右手に持ち上げた棒を振り下ろしてきた。


 左腕のあたりに落ちてきた一撃を、花はほとんど勘と反射で捉える。

 なにしろ暗く、金属製の棒が一瞬光ったようにしか見えなかった。

 

 それでもメキッと鈍い音がして、傘はなんとか相手の攻撃を受けた。

 だが変な当たり方をしたせいか衝撃を殺しきれず、細い持ち手が滑って花は傘を取り落としてしまう。


 相手の得物は金属バットの類かと思ったが、それよりも細い。

 その割に強度のあるところを見ると、おそらく伸縮する特殊警棒か何かか。

 

 そう推察するうちに、相手は数歩動いてわざわざ落ちた傘を踏みつけた。

 そしてもう一度、警棒を振りかぶる。今度は受ける手段がない。腕で受けでもすれば、きっと骨が折れる。

 

 それなら逆に懐に飛び込んで……いや、リスクが高すぎる。

 いくら訓練を受けた経験があるとは言え、実戦でそれが……仮に花が冷静で万全な状態であったとして、果たして狙い通りに体が動くか。

 

 頭ではわかっていた。

 向こうがなぜか傘を気にして動いたせいで、間合いはまだ遠かった。

 だから余計なことはせず、今すぐに身を翻して、全力で走りながら大声を上げて、誰かに助けを求める。

 それが一番、安全で確実な方法だと。


(でも……)


 逃げたくなかった。負けたくなかった。

 自分の無力さをさんざん見せつけられて、ここでも背を向けて逃げるなんて、したくなかった。

 

 警棒を振りかざしてにじりよってくる相手に、花は正面から向き合う。

 強く脈打つ心臓の鼓動を感じながらも、意識を目の前に集中させ、身構える。

 そして吸い込んだ息を止め、今まさに飛び込んで相手の腕を取ろうとすると、


「花、下がって!」


 拓美の声だった。

 それと同時に、横殴りにまた一つ影が飛び込んできて、体当たり気味に目の前の影を突き飛ばした。

 拓美は地面に倒れ込んだ相手を警戒しつつも、追撃をするようなことはせず花を守るように立ちはだかる。


 倒れた影はすぐさま立ち上がると、背を向けて走り出し、すばやく止まっていた自転車に取り付いて助走を始める。

 そして飛び乗るようにペダルに足をかけ、猛然としたスピードで加速した。姿があっという間に遠ざかっていく。

 花は後を追いかけようとするが、すぐにそれを制するように伸びてきた拓美の手に腕を掴まれた。

 

「離して! 追わないと!」

「ダメだ!!」

「どうして!」

「危ない目にあってほしくない。それに今から追っても、どうせ追いつけない」


 そう言うそばから、自転車はもう影も形も見えなくなっていた。

 それきり拓美が黙っているので、花は携帯を取り出して、


「とりあえず、警察に電話……」

「いい、いらないよ」

「いらないって事は……!」


 拓美の顔に向かって抗議しかけたそのとたん、突然腕を強く引かれて、肩を抱きしめられた。

 静かに囁きかけるように、耳元で拓美の声がする。

 

「……ごめん。もう絶対に、花には近づけさせないようにするから。だから俺と会うのもこれで最後。そうすれば花は大丈夫だから。危険じゃなくなる」

「それは……だからっ! それは嫌だって言ってるでしょ! それなら……」

「俺、花のこと……嫌いになったから」

 

 その言葉に、花は目を見張って、拓美の顔を見た。

 震えた声で、泣きそうな顔で……言わせてしまった。


 まるで胸を貫かれたような衝撃だった。

 言葉そのものより、一体どんな気持ちで、彼がそれを口にしたのか。

 想像すれば何か口ごたえをすることなど、できるわけがなかった。


 ただ拓美のことを、これ以上苦しませたくない。

 それだけを思って、花はうなずいた。

 

「……わかった」

 

 手のひらをえぐってしまうのではないかと思うほどに、花は両手を強く握りしめていた。

 悔しい。あまりにも無力な自分が情けなくて、悔しかった。

 

「……じゃあね」


 力なく、それだけ言って、花は体を離して踵を返した。

 拓美の顔を見ることはできなかった。

 

(こんなのは、どうやったっておかしい。どうして、拓美だけが……)


 歩きながらそれでも花の瞳は、まだ闘志を失っていなかった。

 なぜなら疑念は、ついに確信に変わった。もはや揺るぎようもない。

 

(やっぱり、このままじゃ……引き下がれない)


 明るい大通りに出てまばらな人の波に紛れると、やがて弱い雨が降り出した。

 周囲が急ぎ足になる中、花は雨に打たれながら一人歩みを変えることなく、胸の内で心を決めた。

 

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