第25話


 ある日、唐突に変化は訪れた。

 だが実はそれは突然でも偶然でも何でもなく、ずっとくすぶっていたものが燃え上がるかのように……ただ何かのきっかけが必要だっただけなのかもしれない。

 

 その日は学校が休みで、拓美と一緒に買い物に出かけて、借りてきた映画のDVDを拓美の家で見た。

 ずっと眠たいのを悟られまいとしていた拓美がとうとう途中で寝てしまったので、花は拓美を起こさないように部屋を出て、夕飯の材料の買い出しに向かった。

 

 マンションを出てすぐの路地は、陽が落ちてそろそろ暗くなりかけていた。

 母親へ大体の帰宅時間を告げるメッセージを作成しながら歩いていると、角を曲がったすぐ先で進行方向から勢いよく向かってきた人影と肩がぶつかった。

 バランスを崩して携帯を取り落としそうになりながらも、花はすぐさま頭を下げて謝罪をする。


「ごめんなさい」

「いったぁ~い……」


 聞き覚えのある声だった。

 目線を上げると、相手は表情を歪めながら、しきりに手で肩を抑えてさすっている。

 陽愛だ。薄く化粧をして、頭に小さな髪飾りをつけて、よそ行きの格好。

 向こうも今気づいたように目を瞬かせながら、


「あ、水無瀬さんじゃん」


 あっけらかんとした口調で言うので、花は「ごめん、大丈夫だった?」と再度頭を下げる。

 微動だにせずその仕草を眺めていた陽愛は、今しがた強めに肩がぶつかったことなどとうに忘れたかのように、普段どおりの口調で尋ねてきた。

 

「タク、家にいる?」


 陽愛は相変わらず、拓美の家におしかけるようにちょくちょく顔を出しているらしい。

 らしい、というのは、花がいる時間帯を避けているのかたまたまなのか、花と陽愛が直接顔を合わせることはほとんどない。

 今日もおそらく、もう花は家に帰るのだと思われているのだろう。


 家で二人が鉢合わせになると、傍目にも拓美の落ち着きがなくなるのが手に取るようにわかる。とても気を遣わせてしまうのだ。

 今日も朝から少し顔色の悪かった拓美はしきりに「いつもどおりだよ? 全然大丈夫」と繰り返していたが、きっと最近また眠れていないに違いない。

 このまま陽愛を行かせて、彼にこれ以上負担をかけるようなことは極力避けたかった。


「いるけど……拓美の家に行こうとしてる?」

「だとしたら何?」 

「拓美は今、疲れて寝てるから。できれば遠慮してほしいんだけど」


 あくまで冷静な口調でそう告げると、陽愛はじっと熱のこもった目で見つめ返してきた。


「は? 何その言い方……なんであたしが遠慮しないといけないの?」

「だって私、拓美の彼女だもの」 


 その一言で、陽愛の顔色がさっと変わる。陽愛は花の顔のわずかに横の一点を見つめたまま、言葉を失っているようだった。

 それきり黙りこくっているので、花がそのまますれ違おうとすると、 


「待って!」


 強く手首を掴まれる。

 痛みを感じてすぐさま腕を振りほどくと、影が回り込んで前に立ちふさがる。

 陽愛の鋭い目つきが、花をまっすぐに射抜いていた。

 

「……前っから、言おうと思ってたんだけど」

「ちょうどよかった。私も、あなたと話がしたくて」

「なにそれ? そっちからされる話なんてないから」


 陽愛は遮るように言うと、


「あのね、あたしはずっと前から……昔からタクのこと知ってるの。そっちがタクと知り合うずっと、ずぅっと前から。合鍵だって持ってるし……今までだって、あたしが色々面倒見てきたんだから。彼女だかなんだか知らないけど、あれこれ言われる筋合いないの。わかる?」

「拓美にはもうやめてほしいとさんざん言われているのに?」

「それは他人の手前、タクがそういうポーズを取ってるだけ。タクが考えてることだってあたしは全部、わかってるから。タクはねぇ、あたしがいないとダメなんだから」

「あなたのおかげで拓美がいい状態になっている、とは到底思えないけど」

「それ、どういう意味?」

「彼の様子を見ていて何か思うことない? 最近も……あまり眠れていないようだけども」

「それは、タクはもともと寝付きが悪いタイプだから。ゲーム好きで夜更かしばっかりしてるし……」

「本当にそうなの? 私の見立てとは違うようだけど。拓美のこと、なんでも知っていてわかってるって言うなら……あの手紙のことだとか、あなたはどう思っているの?」 

「手紙って……何が?」


 本当に知っているなら、手紙、という単語だけでおおよそ見当はつくはずだ。

 だが陽愛は警戒心を顕にしながら首をかしげるばかりで、とぼけている様子はない。

 拓美は以前、雅人にはこの件は話していない、と言っていたが、おそらく雅人に限らず誰にも話していないに違いない。

 

 拓美が定期的に嫌がらせの手紙を受け取っていること。

 下駄箱にカメラを仕掛けたが、それすらも奪い去られていたこと。

 かいつまんで説明をするにつれ、陽愛の顔からは徐々に血の気が失せていく。


「なにそれ……どういうことなの? なんでタクが、そんな……」

「やっぱり知らなかったのね? 拓美のことは何でも……と言う割に」

「そ、それは! きっとタクが、心配をかけたくないって……」

「昔からの……と言っても、心配をかけたら困るような間柄なのね」

「そ、それは……違う! タクは、優しいから……」


 陽愛は言いかけて、唇をかみしめて黙った。

 しかし、黙ったのは花も同じだった。

 

 拓美は優しいから。

 それは花自身、痛いほどわかっている。

 偶然落とした紙切れを花が拾わなかったら、そう言う花本人にも拓美はきっと黙っていただろう。

 

 心配をかけたくないから。拓美はそう言っていた。だけど、本当はそんなのは優しさじゃない。

 だって、ちゃんと心の内を明かして、相談してくれないことが、これだけ花の心を焦らせて、悩ませているのだから。

 ここで陽愛に八つ当たりのような真似をしても仕方がないとわかってはいても、花はもどかしさに耐えきれずに問いただしていた。

 

「それよりも、犯人に心当たりない? もしなにか知っていたら、」

「そんなの、あるわけないでしょ!? なんでタクが、なんでそんな……」


 陽愛が突然声を荒げた。

 信じられない、といった様子で目線を落としたまま、右手でもう片方の自分の手首をぎゅっと掴む。

 ややあって陽愛はさっと面を上げると、挑戦的な目つきで花を睨みつけてきた。 


「ねえそれ……嘘でしょ? そんなありもしない話をでっち上げて、あたしをやりこめようとしてるんじゃないの?」

「嘘じゃない。私、この目で見たもの」

「だからそっちの言うことなんて、なんの証拠にもならないでしょ?」


 まさかそんな反駁を受けるとは思っていなかったので、花も返す言葉が出ずに閉口してしまう。

 代わりに陽愛はずっと緊張させていた頬を急に緩めて、ふふ、と軽く息を漏らすと、

 

「あーあ、かわいそうだなぁ……」

「何が?」

「なんだか必死になってる水無瀬さんが、滑稽だなって思って」


 突拍子もない発言に花が顔をしかめると、陽愛はそんな花を見てくすくすくすと、小さく声を上げて笑いだした。


「……何がおかしいの?」

「だって……ふふ。タクは本当はね? あたしのことが好きなの。だからあなたのことが好きっていうのは、全部嘘なの」

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