第9話
立ち込める湯気の中に、白い肌となだらかな体の曲線が浮かび上がる。
とたんにぎくっと背筋が伸びて、腰掛けた小さな椅子から転げ落ちそうになりながらも、慌てて体勢を整えて下を向く。
「なっ、何して……」
「ん? 背中、流してあげようと思って」
「な、なんでお前まで裸なんだよ!」
「お風呂に入る時は裸でしょ?」
くすくす、とおかしそうに笑うヒナの声がすぐ後ろに近づいてくる。
これこそリアルで俺の背後に立つなだ。俺は後ろを見ないようにしながら、
「せ、背中とかいいから、は、早く出てってくれよ!」
「どして? 子供の頃、あたしのうちで一緒にお風呂入ったりしたじゃない」
「そ、それは全然何の関係もない話でしょう今は」
「あの頃タクあたしの裸、チラチラ見てたよね。知ってるんだから」
今それ言う?
うちの親が仕事で遅くなることがあって一人で留守番の時に、ヒナの家に泊めてもらったことが何度かあった。
小学校低学年ぐらいの頃ならいざしらず、高学年になっても一緒入ろ? とか言われてマジで? とか思いながらも入った。
かく言う私も微妙なお年頃だったわけで、異性の体が気にならないといえば嘘になると言うかなんというか。
「今は見ないんだ? なんか面白いね、くすくす」
「何も面白くない、いいから早く出てけって!」
「じゃあ背中流したらね」
ふざけんなよマジで、と怒鳴りかけるが、冷たい手のひらがピタッと背中に触れてビクリとしてしまう。
ボディソープを手で直に背中に押し付けたらしいヒナは、今度はタオルを使って勝手にゴシゴシとやりだす。
「すごぉい、かた~い。やっぱり体、いい感じに締まってるね」
「……お前、わざと言ってない?」
「何が?」
首、肩に始まり、皮膚を擦る動きは徐々に下に降りていく。
やがて腰のあたりまで来ると、突然前の方に伸びてきた指が、さわさわと脇腹の表面を撫でた。
「ちょっと!!」
「あ、くすぐったかった? ……ここ、傷残ってる」
俺の体には脇腹からへそぐらいにかけて、大きく傷口を縫った跡がある。
ヒナはそれを指先で優しくなぞるようにしながら、
「痛い?」
「痛くないよ」
「……もう絶対やめてよね、あんなこと」
中学の時、橋の上から川に飛び降りた時に、水中の木の枝で腹と太ももを派手に切った。
あの時は何も考えずに飛んだけども意外に大丈夫だった。人間って丈夫。
「動画撮っておけばよかったかな。飛び降りてみた、みたいな感じで」
「ふざけないで。絶対絶対、二度とあんなことしないで」
ヒナは横から身を乗り出してくると、怖い顔で俺のことをじっと見つめてきた。
……はいいのだが、もちろん一緒に見えたらいけないものも視界に入ってきてしまって、
「ちょ、ちょっと前! 見えてるから!」
「ちゃんと約束して? もう危ないことは二度としないって」
「わかったよ、しない、しないって!」
目を閉じて体を九十度回転させる。
すっかり成長した幼馴染の体というのは、保健体育的な意味はなくもはや完全に目の毒である。
「……本当、心配したんだからね」
べしん、と軽く背中を手のひらで叩かれる。
そう言われても、俺だって自分でびっくりしたぐらいだ。
とりあえず今は大丈夫と答えておくが、ああいうのは突発的に、自然災害的に来るものであるからして、未来の俺の言動全てまでは約束できないなぁ。
「わかったからさ、さっさと出てけよ。もう背中洗い終わっただろ」
「髪もあらったげる」
「いらない」
「え~? ホントに出てっちゃうよ? いいの? 数年ぶりに見なくても。ヒナちゃんの立派な発育ぶりを」
ヒナはにやにや笑いながら、横から俺の顔を覗き込んでくる。
もはやこのアホは相手してられんと無視を決め込んでいると、
「別にタクにだったら、見られてもいいよ。だってどうせ、見せるもの」
「は?」
思わず振り返りそうになるのを、すんでのところでとどまる。
ヒナは俺のすぐ耳の後ろに吐息を当てながら、
「……マサとは、まだしてないから。あたし、初めてはタクとじゃなきゃ嫌」
「……何の話だよ」
「なんでそうやってしらばっくれるの? あたしの気持ち知ってて……。あたしは、タクがかわいそうだから……タクを苦しめたくないから、タクの言うとおりにしたんだよ? タクが望むこと……あたしができることなら、なんでも叶えてあげたいって思ってるんだから」
そう言いながら、ヒナは後ろから首に手を回してきた。
少し甘いような酸っぱいような匂いがして、胸の形が明確にわかるような感触が背中に当たる。
「今はタクがちゃんと……できるように、してあげたい。ねえ、どうすれば……いい?」
「どうすればもこうすればもない。出てって」
「やだ。……ね? こっち、見て」
ヒナは脇から手を差し込んできて、再び傷の跡を撫で始めた。
手で払いのけようとすると、逆に手首を掴まれ唐突にぐいっと腕を勢いよく引かれる。
またもバランスを崩しそうになっていると、すぐ目の前にヒナの顔が近づいてきて、そのまま唇を塞がれた。
「んっ……!」
驚きに声が漏れる。
すぐさま押し戻そうとするが逆に体重をかけられ、ガタン、と椅子が滑って倒れてしまい、床に尻餅をついた。
両手を床について起き上がろうとしたところに、ヒナの体が上から覆いかぶさってきて、再度唇を押し付けられる。
「……タクが他の子と付き合うなんて、絶対にだめ。だめなんだから」
柔らかい。
柔らかくて、重たい。
重たくて、苦しい。
「……もうちょっとだから。待っててね」
とても似ていた。
得体の知れない不快な感覚が、突然蘇った。
必死に跳ねのけようとしたが、腰が抜けて、腕が震えて、まるで力が入らなかった。
「タク、あたしのこと……好き? ……だよね?」
――タクミくん、お姉さんのこと好き?
「や、やめろ……」
発した言葉はほとんど声にならなかった。
やっぱりあの時と同じだった。
怯えた俺の顔を見て、彼女は楽しそうに笑った。
「ねえ、力抜いて……あたしに任せて?」
――ふふ……かわいい。ほら、お姉さんに任せて?
「やめて、くだ、さい……」
訳がわからなくなって、怖くなって、そう懇願して、ぎゅっと目をつむった。
目の前が暗くなって、何も見えなくなった。それからはただずっと、シャワーの流れる音だけがした。
風呂から出ていくと、ヒナはいなくなっていた。帰ったようだった。
着替えてベッドに潜り込むが、全く眠れそうになかったので、テレビをつけてゲーム機の電源を入れた。
眠れないときはいつもこうする。ゲームをやっていれば、幾分時間が経つのが早いからだ。
結局俺は一睡もせずに、朝までずっとゲームをやった。
カーテンの隙間から光が差し込み始める。
時計を見ると、そろそろ学校に行かなければならない時間だった。俺はゲームをやめてテレビを消した。
体がだるくて、今になって眠くなってきて、よっぽど休もうかと思ったけども、俺は制服に着替えた。
なんだか無性に花に会いたかった。
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