第8話
――俺、ヒナのこと好きなんだ。子供の時からずっと……。だからこれからもずっと一緒に……いずれは結婚したいと思ってる。
――あたし、タクのことが好き。いつからか覚えてないけど、ずっと、ずーっと前から。だからこれからも、ずっとタクと一緒にいたいな。
お前らいっぺんに言うなって。わけわかんなくなるからさ。
ていうか、俺に言われたところでどうしよーもねえっての。ほんとやめてよねそういうの。
んでもたしか聖徳太子は二人どころか十人一気に話聞いたっていうからすげーなぁ。さすが教科書に載るだけあるよ。
ああ、でもあいつ近年の研究では嘘っぱちかもしれないんだっけ。そりゃそうだよな。
近年の研究すげーなぁ。やっぱ研究は大切よね。じゃあその近年の研究とやらで、俺のこともなかったことにならないかなぁ。
最初からいなかったことに。
――大丈夫……大丈夫だから。
あ、ごめん今のやっぱり嘘。
なんか俺、まだ大丈夫っぽい。
だって大丈夫って言われたし。
ああ、麗しのお花ちゃん。
その唇から発せられるは天使のようなウィスパーボイス。
どこを触ってもふわふわで柔らかい。できることならいっぱいぎゅっと抱きしめて、キスしたい。
厚みがあって色っぽい唇をしているのだ。きっとぷるぷるだ。
……あ、柔らかい。この柔らかさは国宝級。
さらに花ちゃん唇はちゅっちゅっちゅと、大胆にも強く吸いついてくる。
この手慣れ具合は、他の誰かともいつもしてるのかな。そうだったらやだな。
熱を持った滑らかな塊が、前歯の間を縫って、舌の先をつついてくる。
隙間を開けて迎え入れると、くちゅくちゅくちゅと粘膜同士が音を立てて絡み合う。
これはヤバイ、脳みそとろける。気持ちいい……。
「はっ……はぁっ」
苦しくなって息を吐き出し、すぐに大きく吸い込む。
かすかに甘い、飴玉のような匂いがして、ぼんやりした意識が徐々に覚醒していく。
クリアになっていく視界の先で、エプロン姿の花が俺に向かって笑いかけてくる。
なんたる神々しさ。どうやら俺は未来にタイムワープして、花と幸せな家庭を築いてしまったようだ。FIN。
……ん、あれ? いや待てよ、花はさっき帰ったはずじゃ……。
「おはよ」
「ヒナ……?」
上半身を起こした俺の視線の先で、おたまを持って立っているヒナがにこりと笑う。
おはようと言われて混乱したが、時計を見れば現在午後六時過ぎ。
どうやら花が帰った後、そのままふて寝してしまったようだ。
「来てたんだ」
「うん。ご飯まだでしょ? 今作ってるから」
そう言ってヒナはパタパタとスリッパを鳴らして、キッチンの方へ戻っていく。
キッチンからは香ばしい匂いと、ジュージューと何かが焼けている音がする。
この時間にいるということは、今日はバイトではないらしい。
立ち上がって俺もキッチンへ近づきながら、制服のブラウスの上からエプロンをしているヒナの背中に問いかける。
「何作ってるの?」
「タクの好きなハンバーグ」
「わぁい」
とは言ってみたが、素直に喜んでいいものか。
ヒナは味噌汁も作っているらしく、具をまな板の上で包丁で細切りにしながら、
「もしかして、誰か来てた? マサ?」
「違う」
「じゃ誰?」
「女の子」
そう答えると、一瞬ヒナの手が止まった。
が、すぐにまたまな板の上の大根に刃を入れ始める。
「マサからライン来てた。なんかタクに好きな人ができたらしい、とかって。ほんと?」
「ほんと」
「誰? あたしの知ってる子?」
「知らないと思う」
「マサは?」
「たぶん知らない」
連続して質問攻めに合うがひるむことなく答える。
その間、ヒナはずっと手元に視線を向けていたが、一通り終わったのか包丁を置いて俺の方に向き直った。
「それって、告白されたって子のうちの一人?」
「違う。それは明日もう全部断る」
「へー断るんだ、やっと決めたんだね。でもまあ、そっちのほうがタクは……」
「そしたら告白するから」
俺はヒナを遮って言った。ヒナは首を曲げて俺の目を見た。
それから一呼吸あって、
「誰に?」
「それは……今日来てた子だけど」
「その子って……いきなり家に来てたの? 付き合ってもいないのに? それって、どうなの?」
「いや、俺が誘ったんだよ」
「それでノコノコついてくるのもどうなのって」
ヒナは棘のある口調で言う。
どうあってもこきおろしたいらしい。
「家で何してたの?」
「別に……ちょっと話してただけ」
「ふぅん、それで?」
「そ、それで? いや、だからそれで好きになったかもしれない……いや、好きだ。本気で。だから……」
「ご飯大盛りでいいよね?」
ヒナはくるりと背を向けて、炊飯ジャーがあるほうへ近づいていく。
そして戸棚から取り出した平たい皿にご飯をよそいながら、
「タクはね~たぶん続かないと思うな。付き合うことになっても」
「どうして」
「だって何年一緒にいると思う? あたしが言うんだから間違いない」
「それはわからないでしょ、そもそも誰かと付き合ったこと、ないんだからさ」
そんな勝手に未来予知までされたらたまるかという話だ。
俺とかわりと一途なところあるから、付き合いだしたらもうずっとイチャイチャのラブラブかもしれない。
「もし振られたら?」
「それはその時考える。でもまあ、そしたら当面誰かと付き合う気はないかな」
「振られちゃえばいいのに」
「え?」
「ごめん。うそ」
今なにか一瞬酷い事を言われた気がしたが、ここで突っ込むのはやめておこう。
ただ実際、今日のあの感じからしたら振られる確率ははっきり言ってかなり高い。というか限りなく百に近い気がする。
え? 私彼氏いるけど? みたいに言われる可能性だってあるわけで。なんせそのへんも全く裏を取ってないわけだから。
でも今日だってこういう状況初めてとか言ってたから、多分いないと思うんだよなぁ。そうであってくれ。
とにかく今、気持ちを伝えないことには何も手に付かないというか、収まりがつかなくなっている所まで来ているのだ。
やがて調理が終わって、料理がテーブルに並ぶ。
俺とヒナは向かい合って座って、いただきます、の後に食事に手を付け始めた。
俺がハンバーグのひとくちめを口に運ぶと、じっとその様子を見ていたヒナが、
「どう?」
「うん、おいしい」
そう言うとヒナは口元をほころばせ、自分もフォークを使って肉を崩して食べ始める。
やっぱあたし上手~と自画自賛するヒナに苦笑いを返しながら、お互い食事を進めていく。
やがて一通り皿の上がきれいになったところで、俺は機を見計らって切り出した。
「えっとさ……作ってもらっておいてなんだけど、こういうのもいい加減、もうやめたほうがいいよね」
「なんで?」
「ほら、マサからしたら自分の彼女が他の男の家にいるって……それで料理も作ってやってるって、気分いいもんじゃないだろ」
「他の男って……タクでしょ? 何が悪いの?」
「いや……って言ってもいい加減、彼氏彼女なんだから……」
「彼氏彼女って、あたしたちの場合関係ないでしょ、そんなこと」
ヒナはさも当然というような顔で言い返してくる。
そうきっぱり言われると俺も何だかよくわからなくなってきた。
それっぽいことを言ってみてはいるけども、実際彼女がいたことがないのでわからないというのが本音だ。
「いやでも、俺だって、ヒナにいつまでも迷惑かけられないし……」
「あたしは迷惑じゃないよ? 全然。むしろ好きでやってるから。タクのこと一人にするの、かわいそうだもん。だいたいマサだって、タクの面倒見るのは別にいいって言ってるし」
本当かねえ……。
あいつも人がいいからなぁ、ヒナに強気に押されてダメとは言えないだけじゃなければいいけど。
今度一回、マサも含めてそのへんきっちり話をつけないとな。
それから一緒に洗い物をして、一緒にテレビを見ながらいつもの他愛ない話をした。
普段どおりの流れで、特に変わったこともない。
それで九時近くになって、これもそろそろいつもどおり時間だということで、
「送ってくよ」
「あ、うん……」
そう言って立ち上がる。
今日は上着を羽織っていこうと、ハンガーにかかったパーカーを外していると、ソファーに深く腰掛けたままのヒナが言った。
「ねえ今日さ、泊まっていってもいい?」
「ダメに決まってんだろ」
超食い気味に言った。
サイフをポケットに入れた俺は、アホなこと言ってないで早く立てとヒナを促すが、ヒナはごろんとソファーの上に寝そべって、
「なんだか眠くなっちゃって……腰が重い」
「外に出れば目が覚めるよ」
「ていうかなんか体がだるくて……熱あるかも」
「言うことがコロコロ変わってるけど」
なんだかんだ理由をつけてヒナは帰ろうとしない。
普段はいい子なんだけども、こうやって急に聞き分けが悪くなる時がある。
それが一度言い出すと頑固で聞かない。
今度はしきりに下腹部の辺りをさすりながら、
「お腹が痛くて……そう、生理生理。さっき急に来て」
「え、えぇ? そんな急に来たりするの?」
「するよ? 生理が急に来たときは動かないで寝てないとダメだから」
「そ、そうなの?」
よくわからないので口を挟めなくなってしまう。
こうなったら家に電話して迎えに来てもらうか。
放ってあった携帯を電話できる状態にして、ヒナの家の電話帳を探していると、
「ウチ、家電は誰も出ないよ? セールスしかかかってこないから」
「本当かよ? んじゃマサに電話して引き取りに来てもらうか」
「ふざけないで」
「ふざけてねーよ。ふざけてるのはそっちだろ」
「だから安静にしてないとダメって言ってるじゃん」
言ってるそばから安静どころかでかい声出してるわけだが。
いい加減だんだん腹が立ってきた。そっちがその気ならもう知らねえぞ。
「俺、風呂入るから。もう知らないからね? 帰れなくなっても」
十時過ぎると大通りも暗くなるし、本当に帰れなくなる。
こうやって脅せばさすがのヒナもおとなしく帰るだろう。
なおもソファーに横になったままのヒナを放って、俺は風呂場へ向かう。
一度通路からそっとヒナの様子をうかがうも、向こうから折れてくるかと思ったが全然その気配がない。
半ば苛立ち紛れに服を脱ぎ捨て、扉を開けて風呂へ。
湯船にお湯は張ってないので、とりあえずさっさとシャワーだけして出ることにする。
ジャーっとシャワーのお湯を頭からかぶりながら、あの頑固者をどうしたものかと考えを巡らせる。
もしこのまま本気で帰らないつもりだったら……最悪ヒナをベッドに寝かせて、俺はソファーで寝る、しかないかぁ……。
いやでもいいのか本当に? 大体、家の人が何か言ってくるだろ絶対。それにマサだって……。
その時ふと、背後に人の気配がして振り返る。
打ち付けるシャワーの音で気づかなかったが、いつの間にか風呂場の戸は開いていた。
そしてその前に、小さなタオルで申し分程度に前を隠したヒナが、全裸で立っていた。
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