第26話 修学旅行4

 とんでもないことを口にした。俺の言葉はこれまでの先生と生徒、家主と居候という関係を完全に崩壊へと導きかねない発言だったと思う。


 先生のことが好きです。


 俺はそうはっきりと先生の前で言ってしまった。自分でもどうしてそんな言葉を口にしたのかわからない。多分口が滑った。けど、その言葉は口が滑ったなんて言い訳でどうにかなるような言葉ではなかった。


 どうして俺はそんな言葉を口にしたのだろうか。


 俺は先生のことが好きなのか?


 いや、好きといっても色々ある。もちろん、俺は先生のことが好きだ。けど、それはなんというかその……好きにも色々なニュアンスがあるというか……いや、こんな中途半端な考えは良くない。


 俺は先生を異性として好きだ。


 俺は先生と一緒に生活するうちに、先生のことを一人の女性として見るようになっていたし、先生が出ていって欲しくなかったのも今になって思えば先生のことが好きだったからだ。先生が自分の元から離れることがどうしようもなく怖かったからだ。


 これまでの俺の憂鬱の理由を、俺が先生のことが異性として好きだという前提で考えれば何よりも腑に落ちるのだ。


 きっとそんなことは前から知っていた。だけど、そう考えまいと自分自身を騙し続けていたのだ。強引に別の理由を考えて自分自身を納得させようとしていた。だからこそ、先生のことが好きだと伝えた瞬間に、俺の気持ちはやってしまったという感情と同時にすっきりした。


 だけど、今そのことを先生に伝えることはあまりいい手段ではなかった……と思う。


 だってそうだろ? 俺と先生は担任と生徒という関係だ。それに先生を居候させているのだって、お互いに恋愛対象として見ていないという前提があったからこそ成立していたのだ。それがそうではないとわかってしまった瞬間にその前提は崩壊して、先生は俺の家にいることができなくなってしまう。


 だから、先生のことが好きだとわかった今もなお、そのことを先生に悟られてはいけないのだ。


 だから俺は必死に誤魔化すことにした。


 南京町で俺は先生に必死に「先生のことは同居人として大好きです」と言い直した。先生は引きつった笑みを浮かべたまま「せ、先生も近本くんのこと大好きだよ……同居人として」と返事をしていたが全くもって納得していなかった。


 そうこうしているうちに集合時間になってしまい、俺はグループと合流、先生も他の教師と合流して俺は先生を納得させるタイミングを完全に逃した。


 正確に言うと何度か先生と二人きりになる瞬間はないでもなかったが、話しかけても先生は俺と目を合わせようとはしなかったし、しつこく声を掛けて強引に先生と目を合わせても先生は「はわわ……」と顔を真っ赤にして目を回すだけだった。とても、まともに会話ができるような状態ではない。


 そうこうしている間に生徒たちは各々の部屋へと引き上げることとなった。


 宿舎でクラスメイト達とトランプをしている間中も俺は気が気ではなかった。


「ほんと近本大富豪弱すぎだぞ……相手にならなくてつまんねえぞ」


 などとクラスメイトにからかわれるが、そんな言葉も耳に入らないぐらい、俺は上の空だった。


 どうしようどうしようと思考を巡らせいていると、いつの間にかトランプ大会は終了して消灯時間を迎えていた。


 真っ暗闇の部屋で俺は一人物思いに耽っていると、他の男子生徒たちがひそひそと話しているのが聞こえてくる。


「おい、このメッセージ見てみろよ」


 と、生徒の一人がスマホの画面を俺を含め他の生徒たちに見せてくる。俺はそんなものには全く興味がなかったが、一応今後のクラスメイト達との関係を考えて興味があるふりをして画面を眺める。


 メッセージの差出人はクラスの女子生徒で『作戦Aを実行しましょ』と書かれてある。他の生徒たちはそのメッセージに首を傾げていたが、スマホを持つ生徒はスマホのライトに照らされて何やらニヤニヤと笑みを浮かべると、自分のカバンを弄り始める。


 男子生徒はカバンの中から忘年会なんかで使用する有名人の顔にそっくりの覆面を人数分取り出した。


「なんだよそれ……」


 俺が思わず尋ねると男子生徒は「まあ、見てろよ」と何故か自分の布団のシーツを覆面に突っ込んで枕の上に置く。そして、今度は押入れから座布団をいくつか取り出すと掛け布団の中に突っ込んで盛り上がりを作る。


「おい近本、玄関の辺りからこっちを見てみろ」


 と、突然命令されるので、俺は言われるがまま玄関まで向かい盛り上がった布団を見やる。


「どう見ても俺が眠っているようにしか見えないよな?」


 いや、まあ確かに見えるには見えるが……。


 俺が「そ、そうだな……」と答えると他の男子たちが「「「おおおおお」」」と一斉に感嘆の声を上げる。


「お前、天才かよっ!!」


「お前あれだぞ。科学者のアインなんとか……アインよりも天才だぞ」


 なんだよそのバカ殿みたいな名前の科学者は……。


 とにもかくにも男子生徒たちは科学者アインよりも天才らしい男子生徒の発明に喚起しているようだった。


「今から北川たちの部屋に行くぞ」


 どうやら、こいつらは先生たちの目を欺いて女子たちの部屋に行き、楽しい時間を送ろうとしているらしい。


「もちろん近本も行くよな?」


 と、男子生徒が俺を誘う。


 が、俺は、少なくとも今の俺には女子たちと楽しい夜を過ごすような精神的な余裕はなかった。が、ここでこいつの誘いはつっぱねると感じが悪い。だから、


「まあ、確かに俺も行きたいが、あまりに部屋が無音なのは逆に怪しまれる。先生が来たときに寝息を立てる奴が一人ぐらいいたほうがいい。女子生徒の部屋には行きたいがここは俺が壁役になるよ」


 そう言うと男子生徒たちは「おい、お前マザーなんとかかよっ!! お前は俺たちの最高の親友だっ!!」と涙目で俺を見つめてきた。


 男子生徒たちは大急ぎで覆面にシーツを詰めて、偽装工作を終えるとそそくさと俺を置いて部屋を出ていった。


 ということで俺は部屋に一人取り残された。


 が、今の俺にとっては一人にしてもらえる方が好都合だ。さっさと寝て嫌なことは忘れてしまおう。そう考えて布団に潜り込んでしばらく目を閉じる。が、中々眠りにつけずに二時間ほど時間が経った。


 と、そこで不意にガチャリとドアが開く。


 うっすらと瞳を開くと開いたドアに見回りにやってきた先生のシルエットが見えた。俺はそれがすぐに先生、いや織平さくらだとわかった。


 先生は「こ、怖いなぁ……」と小さな声を漏らしながら部屋に入ってくる。


 寝たふりをするつもりだった。


 が、部屋に入ってきた先生が懐中電灯を俺の顔に向けた瞬間、俺は眩しさに思わず眉を潜めた。


 それを見た先生が「ご、ごめんね、起こしちゃった?」と聞いてくるので「いや起きてたので、大丈夫です」と答えてしまう。


 俺の返事に先生は動揺したように「は、はわわ……」と後退りするが暗くて表情までは見えない。


 先生は「早く寝ないと寝不足になっちゃうよ」と言ってそそくさと部屋を出ていこうとする。


 が、俺が「先生っ!!」と言うと先生は肩をビクつかせて立ち止まった。


「な、何かな……」


「先生に話しておきたいことがあるんですけど……」


「じゃ、じゃあ明日聞いてあげるね」


「今じゃなきゃダメです」


 きっと明日まで待ったら先生にまたはぐらかされる。それに今ちゃんと話しておかないと俺は朝まで眠れる気がしなかった。


 俺は布団から身体を起こした。


「ちょ、ちょっと近本くん、そ、そういう話は今は……」


 先生はどうやら他の生徒たちの目を気にしているようで動揺しているようだった。


「安心してください。この部屋には俺しかいないんで」


 そう言うと先生は「え? そうなの?」と首を傾げるので俺は部屋のスイッチを点けた。


 眩しさで思わず目を細める俺と先生。俺は先生の手を引くと隣の布団の覆面を先生に見せた。


「な、生首っ!?」


 先生は俺の予想とは違う反応を示す。


「んなわけないでしょ。覆面ですよ覆面。パーティに使う奴」


「ほ、本当だ……。じゃあ、みんなはどこに行ったの?」


「女子生徒たちの部屋ですよ」


 そう言うと先生はようやく事態を理解したようでムッと頬を膨らませる。


「もう、消灯時間は過ぎてるんだよっ!! それも女子生徒の部屋に行くなんてダメだよっ!!」


 そう言って踵を返そうとするが俺は今度は先生の首根っこを掴んでそれを阻止する。


「今日だけは許してください。先生にとっては数年に一回でも生徒にとっては一生に一回の思い出の高校の修学旅行なんです」


「だ、だけど……」


「それに、俺は先生とどうしても二人っきりで話さないといけない話があるんです」


 そう言うと先生は「なっ……」と頬を赤らめる。


「ちゃんと、俺の話を聞いてください」


 俺が真剣な顔で先生を見つめると先生はしばらく困った顔をしていたが、「わ、わかったよ……」と渋々ながら納得した。


 それから俺は自分の分と先生の分のお茶を淹れて、先生と対面する形でテーブルに腰を下ろした。


 先生は相変わらず顔を真っ赤にしたままで俺から視線を逸らしてお茶を啜っていた。


「で、話って何かな……」


「先生だってわかってるでしょ。南京町での話ですよ……」


「…………」


 先生は何も答えなかった。まあ、気持ちはわからないでもない。俺だってできるならばこんな話先生としたくはない。けど、しておかないと今後の生活に支障が出るのだ。


 俺は話を続ける。


「覚えているとは思いますけど、俺はさっき先生になんというかその……好きって言いましたよね?」


 先生は「はわわ……」とぐるぐると目を回す。


「先生、ここは重要な話なんです。ちゃんと聞いてください」


 すると先生は何とか正気を取り戻して「わ、わかってるよ……」とぐるぐる回った目を制止させる。


 落ち着けよ近本巧。ここはとても重要な場面なんだ。言葉を選んで一つ一つ丁寧に発言しなければならない。


「まず、先生に言った好きという言葉は何というか曖昧というか場合によっては相手に誤解を招く言葉だと思うんです。ほら、好きにも色んなニュアンスがありますよね?」


「そ、そうだね……」


「で、今回俺が先生に発した好きのニュアンスについてなんですが……」


 と、そこで先生は俺の顔をじっと見た。その表情は真剣で、さっきまでの動揺の色はいつしか消えていた。


「さっきから散々言っていますが、俺が言った好きのニュアンスは……」


 俺は先生をじっと見る。


 そう、俺と先生は男と女である以前に担任と生徒、そして家主と居候なのだ。その関係を続けていくにはこう言うしかない。


「俺は先生のことはあくまで先生として尊敬している大好きな先生という意味です。それ以上でも以下でもありません」


 嘘を吐くと胸が苦しくなる。


 俺はそれでも先生にそう伝えるしかなかった。そうしなければ俺たちのこれまでの関係は一気に崩壊してしまうから。


 俺が言った瞬間、先生は大きく目を見開いた。


 何か俺の言葉に酷く驚いているようだった。が、先生の表情はそれからみるみる曇っていき、ついには俯いてしまう。


 どうしてだ?


 俺には先生がどうしてそんな表情をしたのかわからなかった。


 だって、そうだろ? 先生にとっても俺の好きの意味が異性として好きという意味では困るはずだ。だって、先生にとって生徒から異性として好かれることは色々と職務に支障をきたすはずだし、同居人としてだって相手から異性として好意を持たれていると知ってしまったらこれまで通りの振る舞いはできなくなってしまうはずだ。


 なのに俺の言葉に先生はひどく驚いて、そして負の感情を抱いているようだった。


 しばらく、沈黙が続いた。


 が、不意に先生は顔を上げる。そして、いつの間にか先生は笑みを浮かべていた。そして、その笑みは酷くぎこちない。


「そ、そりゃそうだよね……」


 先生はぽつりとそう呟いた。


「そ、そうです……」


「よ、よかった。せ、先生も安心したよ。ま、まさか近本くんが先生のことを異性として好きになるはずないよね。だって近本くんと先生は年も離れているし、それに第一先生と生徒だし、そんなことあるわけないよ。あっちゃダメだよね」


 そう言うと先生は立ち上がった。


「話はそれだけかな?」


「え? そ、そうですけど……」


「じゃあ、先生は他の部屋の見回りに行くね。他の生徒たちのことは近本くんに免じて今回だけは不問にしてあげる。だけど、あんまり遅くならないようにね」


 そう言うと先生は俺に背を向けてドアの方へと歩いて行った。


 バタンとドアの閉まる音が聞こえて、俺は胸を撫で下ろす。


 とにもかくにも先生は納得してくれたとは思う。このもやもやを抱いたままお互い生活を続けていくのはお互いにとって良くないことだ。嘘を吐くのは好きではないが、これ以上に最良の手段は今の俺には思いつかなかった。


 俺は再び布団に入って、今度こそ心のつかえが取れてぐっすり眠れる……はずだった。


 が、数分も立たないうちに再び扉が開く。どうやらクラスメイト達が帰ってきたようだ。


 俺は奴らに天才アインが発明した偽装工作を使ったところで、懐中電灯というさらなる天才的化学兵器の前では危ういということを教えてやろうと身体を起こす。が、俺がクラスメイト達を見やると男子生徒の一人が目を見開いたまま俺を見つめる。


「おい、お前先生に何やったんだよ……」


「はあ? 何の話だよ」


 俺が首を傾げていると、男子生徒たちがぞろぞろと俺のもとへとやってくる。


「な、なんだよ……」


 男子生徒たちの表情に今度は俺が目を見開くと一人が俺を見やる。


「お前、まさか性欲が抑えきれずに先生を襲ったんじゃないだろうな?」


「いや、そんなわけないだろ……」


 いったいこいつらは何を言っているんだ。


 が、俺は妙に胸騒ぎがすることに気がついた。


「いったい何があったんだよ……」


 俺は胸を抑えながら恐る恐る男子生徒に尋ねる。


「織平先生、廊下で泣き崩れてたぞ……」


「はあ? な、なんで……」


 なんでだよ。どうして先生が泣き崩れなきゃなんない。


 わからない。わからない。わからない。わからない。


 俺には先生の涙の理由がちっともわからない。


 だってそうだろ? 俺と先生は南京町でのことは誤解を解いて円満に話が終わったはずだ。俺が先生に対して特別な感情を抱いていないという事実は俺にとっても先生にとってもこの上なく平和的な事実のはずだ。


 それなのに……それなのに、どうして先生が泣かなくちゃいけない。


 気がつくと俺は男子生徒の肩を掴んでいた。


「なんで先生が泣かなくちゃなんない……」


「それはこっちが聞きたいよ。まあそのおかげで部屋を出たことは不問にされたからよかったけどよぉ……」


 男子生徒は俺の動揺の意味が理解できず困惑している様子だった。


 が、不意に俺は我に返る。


「さ、さっき先生が部屋に来た時にゴキブリが出たんだよ。そ、それで先生が半狂乱になって大騒動になったんだ。それでお前らがいないことはバレたけど、ゴキブリ退治のお礼に特別に不問にしてもらったんだ。きっと、それが怖かったんだろ……」


 と、かなり苦しい言い訳をした。


 しばらく男子生徒たちは首を傾げていたが、一応は納得するという結論を出してくれたようでそれ以上俺に何かを問いただすことはしなかった。男子生徒たちはそれからしばらくして寝床に着いた。けど、俺は眠れなかった。


 どうして先生が泣かなきゃなんない……。

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