第27話 修学旅行5
朝まで眠れなかったのは、先生がどうして泣いているかわからなかったことに対する不安と、きっとその涙の理由が自分の言葉にあるということに対する罪悪感のせいだ。
翌朝、目の下にできたクマのことなど気にならないぐらいに、気持ちは動揺していた。どんな顔をして先生の顔を見ればいいのかわからない。
気がつくと集合時間を迎え、俺とルームメイトたちは宿舎前の所定の位置へと向かった。
ずっと下を向いていた。先生の顔を見るのが怖かったからだ。背の順に並ばされて列中央に立った俺は終始うつむいていた。が、しばらくしたところで「近本、顔を上げなさい」と男性教諭から怒られ渋々顔を上げる。
そこで初めて生徒たちの列の前で横並びで立つ先生たちの姿が見えた。学年主任が拡声器を使って今日一日の行動を説明している。今日は昨日とは違い集団行動らしい。しばらく学年主任を眺めていたが、結局最後まで先生の顔を見る勇気はなかった。
俺たち生徒たちは添乗員、そして先生の後ろをぞろぞろと列になって歩き始める。初めは異人館とかいう昔外国人が住んでいたらしい豪邸を見に行くらしい。
どうでもいい……。
俺は他の生徒と会話を交わす余裕もなく歩き続ける。
酷い上り坂だ。歩いているうちに昨日眠れなかったことによる体への負担が大きくなっていき、坂の中腹にたどり着く頃には息切れしてしまう。初めは綺麗に背の順で並んでいた行列も坂がきつくなるにつれて列が乱れ始め、気がつくと仲の良いもの同士のグループがいくつかできてそれぞれのペースで坂を上っていた。そんな中、俺は行列の最後尾をだらだらと息を切らせながら歩く。
「近本くん」
そんな俺の背後から誰かの声が聞こえる。
死にそうな顔で振り返るとそこには担任織平さくらの姿があった。どうやら、列の最後尾のさらに後ろにも列を監視するための教員が配置されていたようだ。しかもよりによってそれが織平さくらだったというわけだ。
とっさに振り向いてしまったせいで先生の顔を直視することとなってしまった。しばらく驚いて見開いたまま先生を眺めていたが急に気まずくなって目を逸らした。
「近本くん、大丈夫?」
が、先生は動揺する俺とは逆に俺のもとへと駆け寄ってくる。
「無理しなくてもいいんだよ。疲れているなら少し休んでから歩いてもいいんだよ」
そう言って先生は膝に手を付いて呼吸を整える俺の背中を優しく摩った。俺はそこでようやく自分の意思で先生を見やった。先生はいつも通りの柔和な笑みを浮かべていた。
その笑みはあまりにも自然で本当に昨日廊下で泣き崩れていたのかと疑わしくなるレベルだ。だけど、瞳の下はわずかに赤くなっていて、クラスメイト達が話していたことが嘘ではなかったということも同時に理解する。
昨日のやり取りが嘘のような先生の受け答えに俺はしばらく何も答えられずに目を見開いていたが先生は表情を崩すことなく俺の背中を摩っていた。
そして、先生は近くのベンチを指さした。
「少しあそこで休憩していこうよ」
「そ、そうっすね……」
動揺を隠せない俺だったが、俺は先生に付き添われながらベンチへと腰かけた。
先生はリュックからお茶の入ったペットボトルを取り出すとそれを一口飲んで、俺に差し出した。
「どうせ、お茶、作って来てないでしょ?」
「ありがとうございます……」
そう言って先生からお茶を受け取ると一口飲んだ。昨日宿舎で飲んだお茶と同じ味がする。きっと夜のうちに作っておいて冷やしておいたのだろう。キャップを絞めると先生にお茶を返す。が、先生はそれを制した。
「もう一本作ってあるから、それは近本くんにあげる」
そう言って俺に微笑む。
まるでいつもの先生のようだった。その身の振る舞いにこれまでと違った点はどこもない。だが、いやだからこそ、そんな先生の振る舞いが少し怖かった。
俺はきっと先生をひどく傷つけたのだ。だけど、先生はいつも通りで謝ろうにも謝れなかった。それにそもそも何を謝ればいいのか俺にはわからない。
「海がよく見えるね」
「え?」
「あっち、さっきから見えてたんだよ。気がつかなかった?」
俺は自分たちが昇ってきた道を見下ろす。確かに繁華街のさらに奥に瀬戸内海が見えていた。
「こんなところに家があれば毎日海が見えていいのにね」
「でも、坂を上るのは大変ですよ」
「それもそうだね」
先生はクスクスと笑った。
そんな先生を見ていると胸が苦しくなる。先生の笑顔を見るのは好きだけど、その笑顔は棘になって胸にチクチクと突き刺さる。
「いろんなことがあったね」
と、先生は海を眺めながらぽつりと呟く。
「カラオケにも行ったし、海にも行ったよね。ゴキブリはちょっと苦い思い出だけど、今になってみればどれもこれも楽しい思い出だったなぁ……」
「そうですね……」
先生はそう言って俺との共同生活を振り返る。
「近本くんには本当に感謝しているよ。もちろん、ホームレスになりかけていた先生のことを拾ってくれたことにも感謝しているけど、それ以上に楽しい思い出をいっぱい作ってくれたことにも感謝しているよ。きっと感謝してもしきれないぐらいにたくさん感謝してるよ」
「俺は別に何も……」
「そんなことないよ。近本くんは本当に優しい男の子だよ。それは先生が保証する。きっと卒業してからも近本くんはみんなから頼りにされるような立派な大人になるし、それに……それに……」
と、そこで先生は言葉に詰まった。いつの間にか先生の表情から笑顔は消えていた。
そんな先生をじっと見やる。すると先生は俺の顔を見た。
そして、精いっぱいの笑みを浮かべる。
「それにきっと素敵な女の子とだって出会えるよ」
「っ…………」
先生の笑顔を見てこんなにも胸が苦しくなったことはなかった。いつもは俺の気持ちを晴れやかにするはずの先生の笑顔が俺の気持ちを暗くする。
だけどそれは自業自得だ。
先生に対する気持ちを隠して俺は先生と、担任と生徒という割り切った関係を続けることを決めたのだ。先生もそれを理解してこれまであいまいになりつつあった関係を整理してくれたのだ。
そんな先生に俺は感謝しなければならない。
「そろそろ歩ける?」
先生は笑みを浮かべたまま俺に尋ねる。
「え、ええ、もう大丈夫です」
「じゃあ、あともうひと踏ん張りだねっ」
そう言うと先生はゆっくりと立ち上がって歩き出した。俺も先生に続いて歩き始める。
先生の背中を眺めながら、俺は自問自答する。
これは自分が決めた道だ。むしろ今までの方が異常な関係で、今はむしろ普通に戻っただけなのだと。
だけど……。
俺はとぼとぼと歩く。
先生の背中が徐々に遠ざかっていく。
それが今の俺にはどうしようもなく怖い。少し手を伸ばせば届きそうなのに届かない。そう考えているうちに先生はもう二度と手の届かない遠い存在になってしまうような気がした。
「先生」
先生を呼ぶと先生は立ち止まって振り返った。
「先生は平気なんですか?」
そう尋ねると、先生は少し不思議そうに首を傾げた。が、すぐに笑みを浮かべると「平気じゃなくても、進まないとみんなに置いてかれちゃうよ。ほら、もうみんな見えなくなっちゃったよ」と坂の上を指さす。
「俺はもうしんどいです。胸はどきどきするし、息は切れるし、ずっとここにいたいです」
そう言うと先生は俺のもとへと坂を下ってくる。
「先生も近本くんももう十分休憩したでしょ。きみは十代の男の子なんだよ? そんなんじゃきみの将来が不安だなぁ……」
「でも……」
「近本くんはどこへ行きたいの?」
先生は膝に手を置いて俺の顔を覗き込むと左に首を傾げた。先生の右の長い横髪が重力に従って先生の頬にかかった。
「俺はこのままここにいたいです……」
「それはできないよ。確かにここは景色がきれいだけど、いつまでもここにいたら飽きちゃうよ。それに頂上はここよりももっと綺麗な景色が見えるはずだよ」
「それでも俺はここにいたいです」
「きみがこんなに困ったちゃんだとは思わなかったなぁ。近本くんの甘える姿は中々可愛いけど、先生の役目はきみを坂道の頂上まで連れて行くことだからね」
そう言って先生は俺の髪を優しく撫でた。
本当に自分が情けない。これじゃまるで駄々をこねている子供じゃないか。
「自分の進みたい道はちゃんと自分で決めないと」
「…………」
何も答えられなかった。
先生の言う通りだったからだ。そうだ。俺は自分の進むべき道を他人に委ねているのだ。俺は嘘を吐いて、相手がどうでるかに委ねていた。それで相手が自分と予想と違った道を提示したときにそれが気に入らないと駄々をこねている。
もしも、俺に進みたい道があるのであれば誰が何を言おうと、自分の決めた道を突き進んでいかなければならない。
「俺が本当に行きたい場所は……」
俺は胸が詰まりそうになりながら言葉を絞り出す。
「俺は大学にだって行きたいですし、就職だってしたいです」
「そうだね。きっと見晴らしのいい場所だと思うよ」
「だけど、それには先生の助けが必要です」
「わかってるよ。だから近本くんがちゃんと卒業するまで――」
「それじゃダメなんです。俺はずっとずっと先生がそばにいてくれないと坂は上れません」
「それだと休憩しているのと変わりないよ。先生は近本くんの担任であってそれ以上でも以下でもないんだよ。先生が案内できるのは途中まで。あとは自分の足で歩かないと」
「そういうことじゃないです。俺が本当に行きたい場所は先生と一緒にいる未来だから……」
俺は初めて自分の気持ちを口にした。
それが先生にとっては少し予想外だったのか、先生は大きく目を見開いた。
「大学も就職もあくまで俺が行きたい場所に行くための手段でしかないんです。俺は先生が好きです。どうしようもなく先生のことが好きです」
気がつくとまた呼吸が乱れていた。
「昨日の俺はどうしようもないくらいのバカでした。本当に一発頬をぶん殴ってやりたいくらいに。好きな女の子を泣かせるような最低のバカです。でも、俺はそんなバカにはなりたくない」
「…………」
先生は動揺しているようだった。だけど、ここで言葉を止めるわけにはいかない。
「先生、いやさくら。俺はさくらのことを先生以前に一人の女性として大好きだ。だから……だから、俺はさくらのそばにずっといたい。さくらがいる未来のために勉強も仕事もがんばりたい。だから、さくらに家を出ていかれちゃ困るんだ。ずっと俺のそばにいて欲しい」
どうしようもなく織平さくらのことが好きだ。
そんな単純な言葉を口にすることも出来ずに俺は手をこまねいていた。それが結果的にさくらのことを傷つけた。その中途半端な態度がさくらのことを傷つけていた。
彼女が俺のことをどう思っているかはわからない。だけど、もっと早くにその言葉を口にするべきだった。
先生はただ黙って俺のことを見つめていた。
が、不意に笑みを浮かべるとクスクスと笑う。
「修学旅行で先生に告白する生徒なんて聞いたことないよ」
「だってそれは――」
そこまで言ったところで唇を塞がれた。そして俺の唇を塞ぐものは今まで感じたことのないほどに柔らかくしっとりとした感触。
目の前には先生の顔。
それまで俺の胸のもやもやはその柔らかいものに触れた瞬間、トーストのバターみたいにゆっくりと溶けてなくなっていくのがわかった。
そして、もやもやが完全に溶けてなくなったとき、先生はゆっくりと唇を離した。
「この先は近本くんがちゃんと坂道を上り終えるのを見届けたあとだね。きっと近本くんなら登り切れるよ」
そう言うと先生は踵を返して歩き出した。
俺はそんな先生の背中を呆然と眺めやる。
俺は休憩するのを止めて一歩、また一歩と坂道を登り始めた。
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