第17話 至福のときはあっという間に過ぎていく

 俺と先生はこの日、朝から二人でそわそわしていた。今日から俺と先生の生活するこの環境はがらりと変貌する。


「近本くん、そろそろかな?」


「そろそろですね……」


 俺と先生は狭い六畳間に座りながらじっと薄っぺらいベニヤ板のドアを見つめていた。


 今日、我が家にある物がやって来る。それは先生が自らの歌声によって手に入れた最高のご褒美。


「省エネだね」


「省エネですね」


 数週間前、海辺でのカラオケ大会で見事に準優勝、いや優勝したうえでの準優勝を手に入れた先生への賞金として今日、我が家にエアコンがやって来るのだ。今朝かかってきた電話によるともう間もなく、工事のために業者の人がやってくるはずだ。


 と、そこで。コンコンとドアをノックする音が聞こえ俺と先生は顔を見合わせる。


 俺は慌てて立ち上がるとベニヤ板のドアを開ける。すると何やらタブレットを持ったおじさんがそこに立っていた。


「どうも、MHKです。この家のMHKの受信契約がまだ確認できませんのでお伺いしました。テレビ、ありますよね?」


 と、おじさんがニヤニヤと笑みを浮かべながら俺を見つめていた。


「いや、うちテレビないんで、なんなら確認しますか?」


 そう言って俺はおじさんを家に上げると、もう何度目かの本当にテレビなどという最新科学製品が自宅にないことを確認をさせて帰らせた。


 とんだ肩透かしだ。


 が、その直後、再び部屋をノックする音が聞こえ今度こそ工事のおじさんが家にやってきた。


 おじさんは『廣神家電』と書かれた大きな段ボールをもって部屋へと上がってくる。それを見た先生は目を見開くと俺のTシャツの袖をぐいぐいと引く。


「ち、近本くん、エアコンだよっ!! 本物のエアコンだよ。涼しい風が出てくるよ」


「いや、それを人前で言うのはさすがに恥ずかしいのでやめてください」


 と、なんとか先生をなだめる俺だったが、俺だって本当は心が躍る。おじさんが段ボールを開けて純白のエアコンを取り出したとき、俺はこみ上げてくるものがあり思わず目頭を押さえた。


 工事が行われている間、俺と先生は二人仲良く六畳間に正座してエアコンが取り付けられている窓際の壁をじっと見つめていた。


 工事自体はニ十分ほどで終わった。おじさんの持っていた紙にサインをするとおじさんは「あざーすっ!!」と脱帽して俺たちに頭を下げるとそそくさと帰っていった。


 おじさんが帰り、依然として正座した俺たちはテーブルの上に置かれたピカピカのリモコンを見やる。


「近本くん、エアコンつけてみようよ。省エネだよ」


 と、先生はわけのわからないことを言ってエアコンを指さす。


「そうっすね……」


 俺は震える手を押さえながらエアコンを手に取ると、それを正座する俺と先生の間の床に置く。そして、先生を見つめると先生はこくりと全てを察したように頷いた。


 俺と先生は同時に指をリモコンの運転と書かれたスイッチへと伸ばす。


 そして、


 スイッチを押すとピピッという電子音とともにエアコンの送風口がゆっくりと開き始める。俺と先生がそれをまるで初日の出でも眺めるように見ているとスーっと静かに送風口から空気がでる音が静かな室内に響き渡る。


 俺と先生は再び顔を見合わせると、セミダブルベッドに飛び乗り、その上部に設置されたエアコンの前に顔を近づける。


 涼しい風が俺と先生の頬に当たる。


 いやあ、憎い風だぜっ!!


 先生は恵の雨を浴びる飢えた地の農民のように「わぁ~」と嬉しそうに風を浴びている。そんな先生を見て思わず俺の頬も綻ぶ。


 俺たちは十分間ほど送風口の涼しい風を浴びて、喉がカラカラになったところで満足したところでテーブルへと戻り、先生が入れてくれた冷たい麦茶で喉を潤した。きっと俺たちは今年もっとも気持ちよくエアコンの風を浴びたコンテスト男女部門で優勝できるはずだ。


 気がつくと部屋中が冷たい空気に包まれている。


「今日の麦茶は格別だね……」


「格別ですね……」


 美味しそうに小さな口で麦茶を飲んでいた先生は不意に何かを思い出したように、扇風機へと近づく。そして、使い慣れた扇風機のスイッチを入れると先生は「あああああ」といつもの儀式をするとともに何やら嬉しそうに俺を見つめる。


「近本くん凄いよ。扇風機の風が涼しいよ……」


 どうやら今朝はただただ生温い風を送る装置と化していた扇風機は、冷気に満たされ水を得た魚のように涼しい風を送っているようだ。


 先生に手招きされるので俺もまた先生の隣で正座をして扇風機の風を浴びていると、不意に誰かがドアをノックするのが聞こえた。


 ん? 誰だ?


 いつもならばこのまま居留守をするところだが、工事のおじさんはさっき帰ったばかりだし何か忘れたことでもあったらマズいと思いドアを開けると、そこにはおじさんが立っていた。が、さっきのおじさんとは別のおじさんだった。


「は、はい……」


 と俺が訝しげに伯父さんを見やるとおじさんは「どうも、東都電力のものです」と丁寧に会釈をした。そして、東都電力という言葉を聞いた瞬間、俺の顔から血の気が引いていくのを感じた。


 まずい……。


「先日、払込書のほうを送付させていただいたのですが、未だ先月の電気料金が入金が確認できないので本日は伺いました」


「あ、あぁ……それはご足労をおかけしました」


「もしも、今ご用意できるのであれば支払いの手続きをさせていただきますが……」


 俺はエアコンに浮かれてすっかり忘れていた。今月は出費が多く生活がひっぱくして電気料金を払うお金が残らなかったということを……。


 俺はおじさんに深々と頭を下げる。


「す、すみません、あと数日すれば仕送りが入ってくるのですが……」


「そうですか。ですと、それまでの間、規則に基づきこちらのお宅への電気の供給をストップさせていただくことになるのですが……」


 と、困ったようにおじさんはそう言った。


「そ、そうですよね……」


 いや、悪いのは明らかに俺たちの方だ。使った分のお金を払えないというのは人間として最低の行いで、それができないのであればそれ以上のサービスを受けることができないというのは人間社会において当たり前の事実だ。


 俺は振り返って先生をみやった。


 先生は依然として扇風機から送られてくる風を浴びて至福の時間を送っていた。


 俺はおじさんを再び見やって頭を下げる。


「すみません、仕送りが入り次第電気代はお支払いいたしますので、それまでお手数ですが電気を止めていただく方向でよろしくお願いします」


 その数十分後、我が家の電気はストップした。



※ ※ ※



「ひぐっ……ひぐっ……近本くん……エアコン動かないね……」


「動かないですね……」


「お金がないってつらいね……」


「つらいですね……」


 数時間後、俺たちはお葬式のように寂しい夜を迎えていた。部屋の中は薄暗く、部屋の中を灯す物は皿の上に置かれた一本のろうそくだけだ。


 わずかな火の光に照らされる先生の顔からは生気が抜けていた。


 と、そこでゴトゴトと天井の上を何かが駆け抜ける音が聞こえる。先生は「ひゃっ!!」と悲鳴を上げると素早く俺の方へとやってくると俺の腕にしがみついてくる。


 どうやらねずみが天井裏を駆け抜けたようだ。


「近本くん、怖いよぅ……」


「先生、大丈夫ですか?」


 先生は俺の腕に顔を埋めたままこくりと頷いた。


「ほら、何か気を紛らわしましょう」


「気を紛らわす? ど、どうやって?」


「ほら、暑い夏には涼しくなるような話をするのが一番ですよ。ちょうど真っ暗でロウソクもあるし怖い話でも――」


「それだけはやだっ!!」


 先生は両目から涙を流しながら俺を見つめた。


「ったって、他にやること……」


 ドンドンっ!!


 と、そこで薄いベニヤ板を誰かがノックする音が室内に響く。


「「ひゃっ!!」」


 と、俺と先生は同時に短い悲鳴を上げる。


 こ、こんな時間に誰だ……。


「ち、近本くん……」


 と、震えながら俺の腕に捕まる先生。そうこうしていると再びドンドンとベニヤ板を誰かが叩く。


「お、俺、出ますよ……」


「だ、ダメだよ。もしかしたら幽霊かもしれないよぅ……」


「い、いや、流石にそれはないでしょ……」


 と、言いつつも俺もわずかに身体を震わせていた。そして、依然としてドアを誰かがノックする。


 これは出るしかない……。


 俺は先生に腕にしがみつかれながらも、玄関へと向かうとゆっくりとドアを開ける。


 すると、そこには真っ赤なドレスを身に纏ったずぶ濡れの女がそこには立っていた。どうやらいつの間にか雨が降っているようだ。


「ひゃっ!!」


 情けない悲鳴を上げてしまう。先生は声も出ないようで俺にしがみついたままブルブルと震えている。


 な、なんだ。もしかして本当に幽霊なのか? いや、どう考えても幽霊だよな……。


 金縛り状態で声も出せずにその女を見つめていると、女は「たくみ……」と小さく呟く。


「い、いや、誰ですか……」


「たくみ……また、婚活パーティで失敗しちゃった……」


 そう言うとずぶ濡れの女は俺の前へと歩み寄ると徐に俺の空いている方の腕にしがみついてきた。


「わっ!! ちょ、ちょっとなんですかっ!!」


「たくみ……私は今どうしようもなく寂しいんだ。何でも言うことを聞くから、私の話し相手になって欲しいんだ……」


 女はそう言うとわんわん泣きながら俺の腕に顔を埋めた。


 そこで俺はその女が廣神弥生だということに気がついた。俺は何故か二人の女性から腕にしがみつかれるという謎な状態になり呆然と立ち尽くすこととなった。


 その数時間後、俺と先生はタクシーで弥生さんの自宅へと向かい、電気料金と引き換えに冷房の効いた部屋で泣きじゃくる弥生さんの失恋話を延々と聞かされる羽目になった。

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