第16話 夜の海は暗くて怖い

 別荘に戻ってからの数時間は俺と先生にとって至福の時間だった。別荘に戻った俺と先生は弥生さんが用意してくれていたバーべーキューセットをテラスに出して、夜の海を眺めながら高そうな肉を食べるという、午前中の俺たちには想像もできなかった優雅な時間を送っていた。


「美味しかったね……」


「美味しかったですね……」


「幸せだね……」


「幸せですね……」


 しばらくは肉はいらないと思えるほどに肉、肉、そして肉を夢中になって食べつづけた俺たちはようやく自分の腹が満タンになっていることに気がついて箸を置いた。先生は大きく膨らんだお腹を満足げに撫でながら俺の方を見やった。


 確かに風呂上りに二人でパピポアイスを食べるのも俺にとっては幸せな時間ではあるが、やっぱり久々に食う肉の味はどうしようもなく俺たちを笑顔にさせた。


 二人してカウチに深く腰掛けながら満足げな笑みを浮かべていると、ふと先生が羽織っていた半袖のパーカーから何か小さな紙のような物がぽとりと落ちた。


「あれ、先生何か落ちましたよ?」


「え?」


 首を傾げる先生に俺は先生の足元に落ちるその紙を指さした。先生が指さす方を見やる。そして、そこに落ちていた紙を見た瞬間、先生は何やら驚いたように目を見開くとその紙を慌てた様子で拾い上げようとする。が、その直前に海辺から吹く潮風でその紙は少し飛ばされて、俺の足元に落ちた。だから代わりに俺が拾い上げたのだが。


「ん?」


 別にまじまじと眺めるつもりはなかった。が、拾い上げたときにその紙に書かれている文字が目に入ってしまった。


「トリプロ? あれ? これって大手の芸能プロダクションじゃなかったでしたっけ?」


 それはどうやら名刺のようだった。が、なんで先生がそんなものを持っているんだ? 俺が首を傾げていると、先生は少し恥ずかしそうに顔を赤くする。


「実はね、さっきカラオケ大会が終わって舞台袖に下がったときに声を掛けられたんだ……」


「もしかしてスカウトですか?」


「そ、そんなんじゃないよ……。どうやらその人、私のアイドル時代のこと覚えていてくれていたみたいで、今でも歌に興味があるのなら連絡してくれって、渡されたの」


「いや、それスカウトでしょ……」


 さすがは先生だ。その可愛いルックスに美しい歌声を聞かされたら、いくら二十代半ばとはいえ芸能プロダクションも黙っていなかったらしい。しかもトリプロは俺でも知っているほどの大手プロダクションじゃないか。そんなところに目をつけられるとは先生はやっぱり凄い……。


「せっかくだから連絡してみればいいじゃないですか?」


 何気なくそう尋ねてみた。が、先生は驚いたように目を見開いて首を横に振る。


「だ、だって私、先生なんだよ。アイドルやれって言われたって急に学校辞めるわけにもいかないし……」


「先生はもう歌を歌うつもりはないんですか?」


「それは……」


 先生は困ったように口を噤むと俯いてしまった。俺はさっき先生が舞台に立って歌を歌っている姿を見て思った。先生はどんなときよりも舞台に立って歌を歌っている時が輝いて見える。先生自身、未だに歌を歌うことに未練を持っているのではないかと、前々から思っていたのだ。だから、率直にそう尋ねたのだ。が、やっぱり先生の困った様子を見ていると歌への未練は完全には断たれてはいなかったようだ。


「私はね……」


 と、そこで先生がようやく口を開いた。


「私は今でも歌は好きだよ。だけどね、先生にはまだ返さないといけないお金がいっぱいあってアイドルなんてやっている余裕はないし、それ以上に近本くんや他の生徒たちが無事に卒業できるように見守る義務があるんだよ。それを途中で投げ出すことなんてできないよ……」


 そう言って先生は苦笑いを浮かべる。が、俺には先生の言葉を素直に受け入れることができなかった。こんなことを言うのは先生に失礼かもしれないけど、先生はもう二十四歳だ。世間一般的にはまだまだ若いかもしれないけれど、これからアイドルになりたいという人間にとってはラストチャンスに近い年齢かもしれない。もしかしたらその名刺が先生がアイドルになるための最終チケットかもしれないのだ。だから先生には自分の将来を真剣に考えて本当に納得できる答えを出してほしかった。


 と、俺は高校生にはあまりにも出しゃばり過ぎなことを考えてしまう。だが、俺はこの数ヶ月先生と一緒に住むようになって、先生の人としての魅力に何度も気がついたし、先生には幸せになって欲しいと心から思っているのだ。


 が、少し先生を困らせすぎたようだ。先生は胸に手を当てたまま考え込んでいるようだった。


「こんなこと言ったら近本くんに怒られちゃうかもしれないけど、先生ね、貧乏だけど今の生活が楽しくて楽しくてしょうがないんだ……」


 先生はふとそんなことを口にする。


「さっきは少し見栄を張ってみんなの卒業を見守るなんて言ったし、それは嘘ではないけど先生は怖いんだ……」


 と、怯える目で俺を見やる先生。


「怖い……ですか?」


「うん、先生はね、今の生活がいつか終わってしまうその日が、怖くて怖くてしょうがないんだ……」


「そりゃいつかは終わってしまいますよ。先生だっていつかは結婚して家庭を持つ日がくるでしょうから。そうなったら先生だってずっと俺と一緒にいるわけにはいかなくなるでしょ?」


 先生は小さく頷いた。が、言葉では理解はできても納得はできていないようだった。が、俺にも先生の気持ちがわからなくはない。俺も先生となし崩し的にこんな同棲生活を送ってきたが、今は先生との生活が楽しくて楽しくてしょうがないのだ。貧乏でも毎日そうめんしか食べるものがなくても、先生と一緒ならば何だか明るく乗り切れそうな気がした。だから、いつか訪れるであろう先生が俺の部屋を出ていく日が本当は俺だって怖かった。


「近本くん、仲良くなった人とお別れするのって悲しいね……。でも、前に進むっていうのはそういうことなんだもんね……」


 先生は真っ暗闇の夜の海を眺めていた。が、先生の視線の先は海ではなく、それよりももっと遠くの方へと向いているようだった。


 時間は待ってはくれないのだ。ゆっくりだとしても一秒一秒着実に終わりへと向かって前に進んでいる。先生と過ごしているこんな楽しい時間だって無限ではないのだ。だから、俺もそして先生も常にその先のことから目を逸らしてはいけないのだ。何かを決断するということは自分の大切な何かを同時に切り捨てることなのだ。もしも先生にとっての決断がアイドルになることなのだとしたら、必然的に何かを切り捨てなければならない。何故ならば時間も人間の身体も有限だから。


 柄にもなくそんなことを考えているとふと俺は気がついた。


 俺にとっての決断ってなんなんだ……。


 俺は先生のことばかり心配して自分のことをこれっぽっちも考えていないではないか。先生が俺との生活の先の未来を見なければならないように、俺もまたその先を見据えていなければならない。


 俺には俺の望む未来がいったい何色なのかわからなかった。そのことに気がついたとき、俺は今まで感じたこともないような得体の知れない恐怖を感じた。


 きっとその恐怖は表情に出ていた。先生は立ち上がると、俺の足元しゃがみ込んだ。そして、俺の右手を包み込むように両手で掴むと柔和な笑みを俺に浮かべた。


「暗い道を進むときはこうやって手を掴んでいれば、不安も少しはマシになるよね」


 先生の手は暖かかった。


 俺はそれからしばらくの間、先生の手を握りつづけていた。

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