第3話 先生、お風呂、石鹸、失神

 久々に充実した夕食をとったような気がする。先生の作る料理はどれもこれもめちゃくちゃ美味かった。皿に米粒一つ残さず夕食を平らげた俺は自分がまだ風呂に入っていないことを思い出すとともに、我が家の決定的な欠陥に気がついた。


「お風呂、湧いたみたいだね……」


 そのことに気がつくと同時に風呂場から出てきた先生は何やらそわそわし様子で俺の目を見つめた。


 どうやら先生もその決定的な欠陥に気がついたらしい。


「脱衣所……ないね……」


 先生は少し表情を強張らせながら、ぎこちない笑みを浮かべる。


 先生も気がついたようだ。これまではお互い一人で暮らしていたから気がつかなかったが、このボロアパートには脱衣所という概念は存在していない。


 初めてこの部屋を両親と一緒に見学に来たときは、安い家賃とは裏腹に風呂場とトイレが独立していることに好印象を抱いたものだ。だが、風呂場は今いるこの六畳間に、扉一つ隔てて直結して設置されている。そのため風呂から上がって服を着るためのスペースなど存在しない。


 だから、俺はいつも風呂場の前にマットを置いてそこで着替えている。


 まあ、一人で暮らしている分には何も問題はないのだが、二人暮らしとなると事情は変わってくる。


 先生が風呂から上がって着替える姿は部屋にいる俺からは丸見えだ。


「あ、あの……なんなら先生が風呂入っている間、俺に外に出ているんで大丈夫です」


 俺が先に気を遣ってそんな提案をすると先生は首を横に振った。


「それはさすがに近本くんに悪いよ。近本くんが私のために気を遣う必要なんてないよ」


「ったって、このままだと先生は俺の目の前で着替えることになっちゃいますよ?」


「それはその……」


 先生は顔を真っ赤にしてあたふたしたように瞳をきょろきょろさせる。


 ここは俺が打開策を示さなければならない。


「そ、そうだ。こういうのはどうですか?」


 先生はポカンと口を開いて首を傾げる。


「お、俺、今すげえベッドの中でスマホが弄りたいんですよ。俺、壁の方を向いてスマホを弄ってるんで、その間に先生が服を脱いで風呂場に入れば問題ないじゃないですか」


 そこまで言ってようやく先生は俺の言いたいことを理解する。


「そ、そうだね。でも、私が一番風呂に入ってもいいの?」


「俺、別に今すぐ風呂に入りたいわけじゃないんで」


「そ、そう。そう言うことなら……」


 先生は申し訳なさそうな顔をしながらも、俺の提案に納得した。


「じゃあ、俺、スマホを弄ってるんで」


 そう言って、俺はベッド昇るとわざとらしく先生に背を向けてスマホを弄り始める。


「近本くんってなんだか面白い子だね」


 先生は何が可笑しいのかクスクスと笑いながら俺の背中にそう言った。


「面白いですか?」


「うん、私と一緒で少し不器用なところがあるね」


「それは心外ですね」


「そうかな? 私はそういう不器用さがきみの可愛いところだと思うよ」


「っ…………」


 先生から可愛いと言われてほんの少しだけ心が乱れた。


 そして、それは先生にもバレていたようで、また先生がクスクスと笑った。


 それからしばらくして、先生は服を脱ぎ始めたようでガサゴソと衣服の擦れる音が聞こえ始めた。


 別に意識するつもりはなかったのだが、人間というものは視覚情報を失うとそれを聴覚で補おうとする本能があるらしい。


 悪いとは思っていても、先生が俺の真後ろで服を脱いでいるという事実に良からぬ想像力が膨らみ、自分が改めて思春期の高校生なのだという事実を思い出す。


「あ、こんなところにニキビができてる……」


 と、先生がそんなことを言うものだから、俺の想像力はさらに膨らんでしまう。


 どこなんだ……いったい先生のどこにニキビができたんだ……。


 自分が自分で嫌になってくる……。


 が、しばらくして風呂場の折り戸がパタンと閉まる音が聞こえたので、俺はようやくスマホを置いて風呂場へと目をやった。すりガラス越しにシャワーを浴びる先生のシルエットが見える。


 扉の前には先生がさっきまで身に着けていたTシャツとスカートが綺麗に折りたたまれており、その上には水色の下着が置かれていた。


 そんな光景を見て俺は改めて、自分が教師とはいえそう年齢の離れていない女性と一緒に暮らすことになったんだ、という事実を自覚する。


 そんなことを考えていたときだった。


 ギギッ金具のようなものが軋むような音が聞こえた。


 と、同時に風呂場の折り戸がゆっくりと開くのが見えた。


 その瞬間に俺は思い出した。


 我が家の折り戸は相当ガタがきていて、風呂場の換気扇をつけると風圧で勝手に開くというクソ仕様になっているということに……。


 が、思い出したときにはもう遅かった。


 思い出したときにはすでに折り戸は全開になっており、風呂場でシャワーを浴びる織平さくらの姿が視界に入る。


「先生、マズイっ!!」


 俺が叫んだ。


 先生が俺の声に振り向く。


 先生は何が起こったのか理解できていないようだった。


 いや、理解ができていないのは俺の方も同じだった。今になって思えば慌てて視線を逸らせて冷静にドアを閉めるよう忠告すればよかったのだ。


 が、その時の俺は非の打ちどころのない容姿を持つ、学園のアイドル(教師部門)が生まれたままの姿で目の前に立っているという事実に、理性が吹き飛んでいた。


 理性が吹き飛んでいたのは先生も同じだった。


 先生は全身から湯気を立てながらこちらを向いて突っ立っていた。当たり前だが先生の身体を隠すものは、風呂場に立つわずかな白い湯気以外に何もない。


 思春期の生徒にはむしろ勉強の妨げになる豊満な胸も、括れた腰も、さらに他の部分もはっきりと見えた。


 謎の沈黙がしばらく続いた。


 が、先生はようやくそこで自分の身に起こった悲劇に気がついたようで、大きく目を見開いた。直後、頬が真っ赤に染まる。


 部屋中に先生の悲鳴が響き渡った。


 先生は腕を振り上げた。


 そして、その腕が振り下ろされたと同時に俺は鼻っ面に衝撃を感じて意識を失った。



※ ※ ※



 それから俺がどれぐらいの時間気を失っていたのかはよくわからないが、多分、数分だと思う。


「近本くんっ!! ねえ、近本くんっ!!」


 そんな声が頭に響いたと思うと、誰かが俺の身体を揺すっていることに気がついて、俺は瞳を開いた。


 瞳を開くと、そこには目を真っ赤にして俺の身体を揺する織平さくらの姿があった。


「あ、あれ、俺、何やってたんだっけ……」


「ごめんね。先生バカだから、何が起こったのかわからなくなっちゃってっ」


「そういえば……」


 ぽたぽたと涙を俺の頬に落としながら、謝罪する先生を見て、俺は自分の身に起こったことを思い出した。


 枕元には石鹸が転がっている。


 そして、先生はというと……。


「意識ははっきりしてる? どこか痛いところはない? 救急車呼ぼうか?」


 と、申し訳なさと心配とでパニックを起こしているようだった。


 が、そんな先生とは裏腹に俺の方は冷静だった。


 むしろ、先生が火照った体にタオル一枚で目の前にいることの方が一大事だった。

 ずり落ちないように胸元でぎゅっと返されたタオルの上には、窮屈そうに圧迫された谷間が見える。シャワーを浴びたせいで谷間は淡いピンク色に上気していて思わずまた意識を失いそうになる。


 だが、先生の方は俺のそんなけしからん視線に構うことなく「ごめんね。本当にごめんね」と謝罪を続ける。


「だ、大丈夫ですから安心してください」


「鼻血とかでてない?」


「今のところは大丈夫です」


 そう答えると先生は「はぁ……よかった……」と胸を撫で下ろすようにため息を吐いた。


 が、それと同時に自分がタオル一枚だということにも気がついて恥ずかしそうに俺から目を逸らす。


「ごめんね……みっともない姿見せちゃったね……」


「い、いや、そんなことないですよ」


「私の身体なんか見てもいいこと何もないよ」


「そんなことないです。先生は綺麗ですよ」


 先生の言葉を否定するためにとっさにそんな言葉が口から出てしまった。言った瞬間、恥ずかしさに頭に血が昇る。


「い、いやこれはなんというかその……」


 すぐに弁解をしようと口を開いてみるが、何も言葉が出て来ず、一人であたふたする。


 すると先生は人差し指で俺の唇に触れて、俺の言葉を制すと、どうやら俺のそんな反応が可笑しかったようでクスクスと笑みを零して「本当にきみは可愛い教え子だね……」呟いた。


 そして、不意に俺も耳に唇を寄せると、わずかに聞こえるような小さな声で「助けてくれてありがとう」と囁いた。



 先生は俺よりもずっと子供のようで、それでいて俺よりもずっと大人のような不思議な人だ。

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