第2話 先生の手料理

 それから俺たちは先生の部屋の物をできる限り、俺の部屋へと運ぶことにした。


 布団や食器は何とか運び入れられたのだが、ベッドや家具、その他、諸々の物はさすがに俺の狭い六畳間に収納するのには無理があり、リサイクルショップや古本屋に売り、雀の涙ほどのお金に変えた。


 引っ越し屋さながらの作業を続けること数時間、ようやく作業を終えた俺は体力は限界を迎え、気がつくと眠りに落ちていた。


 それからどれぐらい眠っただろうか、不意に目が覚めて瞳を開くと、薄ぼんやりとした視界に俺の顔を覗きこむ顔を捉えた。


 視界が徐々にはっきりとし始め、それが俺の担任、織平さくらの顔だと気がつき、俺は彼女との同居を始めたのだということを思い出す。


「疲れは取れた?」


 幼くて、それでいて大人の色気をも兼ね備えた、美しいその顔の主は俺の傍らにしゃがみ込んだまま、柔和な笑みを浮かべていた。何気なく先生の足元に目をやると、相変わらず油断しきった先生の太ももの間から水色の布製の何かが顔を覗かせている。


 何というか悪くない目覚めだ。


「い、今何時ですか?」


「七時だよ全員集合っ!!」


「なんすかそれ……」


「え? トリフだよ。ト、ト、トリフの大爆笑だよ? 知らないの?」


「知らないっす……」


 どうやら先生なりの冗談だったようだが、ジェネレーションギャップの壁にぶち当たってしまったようで、少し不満げに頬を膨らます。が、すぐに元に柔和な笑みに戻る。


「あんまり気持ちよさそうに眠ってるから、起こすのは可哀そうかなって悩んでたんだけど、ちょうど目が覚めたみたいでよかった」


 そう言うと先生は指先でツンツンと俺の頬をつついた。


「ご飯も出来たし、そろそろ起きたら?」


 俺はベッドから身体を起こすと、テーブルへと目をやった。


「なんじゃこりゃ……」


 テーブルの上にはここ数年間は見ていない、彩り豊かな食事が綺麗に食器に盛られて並べられており、俺は軽く感動した。


「最近のデリバリーは、こんな家庭的な料理も運んでくれるんですね」


 そう冗談めいた褒め方をしてみると、先生はむっとした表情を浮かべて、指先でぐりぐりと俺の頬を圧迫してきた。


「先生は近本くんを、そんな意地悪なことを言う男の子になるように指導した覚えはないけどな」


「冗談ですよ。ちょっとびっくりしただけです」


「さっきゴミを纏めたときのカップラーメンの容器がいっぱい出てきから、心配になったの。ろくに自炊もしてないんでしょ?」


「男の一人暮らしなんて、そんなもんですよ」


 初めのうちは自炊もしていたが、一週間もすると面倒になって、カップラーメン生活が常態化したのだ。


「ほら、早く起きて一緒に食べよっ」


 そう言って先生は一足早くテーブルに腰を下ろした。俺もやや重い頭をとんとんと軽く叩きながら食卓に就いた。


「本当にこれ、全部先生が作ったんですか?」


「味の保証はできないけどね。でも、それなりには頑張って作ったよ」


 先生の作った食事を見るのはもちろん初めてだったが、食卓に並んだ食事を眺めているとなんというか懐かしい気持ちになった。


 白米と、味噌汁はもちろんのこと、煮物や酢の物は母親の作ったそれを彷彿とさせる、とても二十代の女の子が作ったとは思えないほどの本格的な家庭料理だった。


「十代の男の子の炊事を任されたからには、人一倍栄養には気を遣わなきゃいけないからね。ほら、冷める前に食べようよ」


「いただきます……」


 俺は丁寧に手を合わせると、さっそく先生自慢の料理に手をつける。


 美味いっ!!


 見た目に負けないほどに、先生の手料理はどれもこれも絶妙な味付けで箸が止まらない。


「凄いですよ先生っ!! どれもこれもめちゃくちゃ美味いです。こんなものを先生が作ったなんて信じられないです」


「なんか全然褒めているように聞こえないんだけど……」


「褒めてますよ。こんな料理どこで覚えたんですか?」


「ほら、さっきも言ったけど家は貧乏で両親が共働きだったの。それで、小学生の頃から時々料理は作らされていたから」


 なるほど、そりゃ料理が上手くなるわけだ。いつもの笑顔を見ていると、彼女の顔から苦労など微塵も感じられないが、実際には先生は俺なんかと比べ物にならないほどの苦労続きの生活を送ってきたようだ。


 先生のそんな話を聞いていると、いかに自分が恵まれた環境にいるのかがよくわかり、自分のだらしなさが恥ずかしくなった。


 先生への感謝の念を抱きながら食事を続けていると、ふと本棚へと目がいった。


 本棚には例のトロフィーの台座が置かれていた。


 俺は美味しそうにご飯を頬張る先生に視線を戻すと、少しだけ気まずさを感じながらも口を開く。


「先生、ちょっと変な質問してもいいですか?」


「え? 何? あ、でも、えっちな質問にはあんまり答えられないよ」


「あんまりってことはちょっとならいいんですか?」


「え? いや、そういうことじゃないくてその……突然パンツの色とか聞かれても先生答えに困っちゃうし……」


「そんな質問しないから安心してください」


 そもそも、それなら聞かなくても知ってるし……。


 先生は何を想像しているのか一人で恥ずかしそうに身悶えしている。


 俺はそんな先生を無視して、本棚の台座を指さした。


「え?」


 先生が本棚に目をやった。


「あ、あぁ……あれはね……」


 と、少しだけ気まずそうに先生は口を開く。


「あれは先生がアイドルをやってたときに貰ったものなの。私、昔から歌が下手でよくレッスンの先生から怒られてたんだ……」


 先生は少し懐かしそうに天井を見上げる。


「でもね、私、意外と負けず嫌いで、小さなテレビ局のアイドルの歌を競うコンテストで初めて優勝して、そのときに貰ったトロフィーだったの……」


 そこで先生の表情が少しだけ曇った。


 だが、すぐに笑顔に戻り再び箸を食事へと伸ばした。


 おおよその予想はついていたが、やっぱりあのトロフィーは先生にとってかけがえのないものだったようだ。先生は努めて平静を装っているが、そのショックは相当なようだ。

 そんな先生を眺めていると気の毒になる。


「先生は今でもアイドルに戻りたいとか思ったりするんですか?」


「え? う、う~ん……さすがに先生はもう二十四歳だし、今更アイドルなんて無理だよ」


「そうですか? 今は先生ぐらいの年齢のアイドルだっていっぱいいますし、俺は先生の歌、今でもめちゃくちゃ上手いと思いますよ」


 そう言った瞬間、先生の手からポロンと箸が落ちた。


「どうかしたんですか?」


 急に目を見開いて口を半開きにする先生に俺は首を傾げる。


「今でもって、どういうこと?」


「は? いや、だって先生、休日になるといつも一人で気持ちよさそうに歌ってるじゃないですか?」


「…………」


 先生の頬が真っ赤に染まっていく。


「もしかして、全部聞こえていたの?」


「はぁ!? もしかして、聞こえていないとでも思っていたんですか?」


 先生はうんうんと激しく頷いた。


 どうやら俺の想像していた以上に、目の前の女はバカだったようだ。


「先生が思っている十倍は、ここのアパートの壁薄いですよ」


 厳然たる事実を伝えると、先生は突然口を噤んで俯いてしまった。


「大丈夫ですよ。先生は本当に歌が上手いし、少なくとも俺は迷惑だなんてこれっぽっちも思っていなかったですよ」


 それは事実だ。現に俺は先生の透き通った歌声は大好きだったし、なんなら癒されてもいたのだ。先生が恥ずかしがることは何一つない。


 が、そんなフォローとは裏腹に先生はより一層、恥ずかしげな表情を浮かべる。


「ねえ、近本くん……」


「なんすか?」


「聞こえてたのは歌声だけ?」


「はあ? ま、まあ、足音とか食器を洗う音とかは聞こえてましたけど、それ以外は特に……」


「本当に本当に、それ以外は何も聞こえてなかった?」


「え、ええ? 別に聞こえてこなかったと思いますけど……」


 先生はそこで顔を上げると今にも泣きだしそうな真っ赤な目で俺を見つめる。


「夜中に物音が聞こえたりしなかった? 大丈夫?」


 その先生のあまりの執拗な問いかけに俺はわけもわからず動揺してしまう。

 

いったい、この人は何をそんなに気にしているのだろうか……。


「べ、別に何も聞こえなかったです。俺、夜中は眠ってるし」


「本当に本当に本当?」


「本当です……」


「もし、嘘ついてたら、先生、一生お嫁にいけなくなっちゃうからね?」


「は、はあ? な、何の話ですか?」


 その真剣な眼差しに思わず、気圧される。


 一体全体、この人は何をそんなに心配しているのだ。そもそも隣の部屋から聞こえてくる限り、先生は恋人はいないようだし心配することなど何もないはずだ。


「本当に何も聞こえていないので安心してください……」


 俺はわけもわからず、とりあえず先生を安心させようとそう伝えると、先生はしばらく泣き出しそうな顔でじっと俺を見つめていたが、諦めたようにはぁ……とため息を吐いた。


「もういいや。もしも近本くんが嘘ついてたら、私、近本くんのお嫁さんにしてもらうもん……」


 そう言うと先生は考えることをやめるように、再び箸を手に取った。

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