第一章
第1話 先生を拾った
どこの学校にも学園のアイドルというべき女子の一人や二人はいるものだ。
それは時にスポーツ系女子だったり、文化系女子だったり、あらゆるタイプのアイドルがいるわけだが、なんというかうちの学校は少し事情が違う。
もちろん、うちの学校にだって他の学校同様に、学園のアイドルと呼ぶべき女子生徒はいるにはいるが、うちの場合はそんな女子生徒たちが霞んでしまうほどに圧倒的なアイドルが存在する。
そいつの名は織平さくらという。
織平さくらは俺の担任だ。
先生はその美しい容姿はもちろんのこと、性格だって人一倍生徒想いの優しい先生だし、さらに言えば元アイドルという他の女子生徒には太刀打ちできない圧倒的な肩書まで持っている。
織平さくらは正真正銘の学園のアイドルだ。
「ここテストに出るからちゃんと覚えておいてね。わからないことがあったら、後でこっそり先生のところに来てね」
なんて授業中に言おうものなら、授業が終わると教卓の前に男子生徒たちの長蛇の列ができる。
でも、先生の凄いところはそんな下心丸出しの生徒たち一人一人に丁寧に接するところで、男子生徒たちのみならず女子生徒たちからも支持されている。
とまあ、ここまで学園のアイドル織平さくらの説明をしてきたわけだけど、たとえ、うちの学校にそんな圧倒的なアイドル織平さくらがいたところで俺の地味な高校生活には何の関係もない話だ。
まあ、担任ではあるし、時々、事務的な会話をすることはないわけではないが、きっと俺が卒業した後は、今後何の接点もなく人生を終えるであろう、雲の上の存在だ。
と、昨日まではそう思っていた。
いや、今日あのタイミングで扉を開けるまではそう思っていた。
県外の私立高校に通っている関係で一人暮らしをしている俺、近本巧(ちかもとたくみ)は、たまたま喉が渇いてコンビニにでも行こうとボロアパートのベニヤ板の扉を開いた。
その直後、俺は隣の部屋の前に散乱した家財道具と、その傍で座り込む女の姿を見た。
え? どういう状況?
なんか面倒なものを見た。俺は直感的に思ったが、その時には完全に俺の身体は部屋の外に出てしまっていた。
女はうな垂れながらしくしくと泣いていた。その右手には何やらトロフィーのようなものが大切そうに抱きかかえられている。が、それは台座だけで、ガラスでできていたであろう本体の方は粉々になって足元に散乱していた。
本当ならば、そのまま知らぬ存ぜぬで、横を通り過ぎてコンビニに行きたいところだが、家財道具で完全に廊下が塞がれているせいで、そういうわけにはいかない。
今さら部屋に戻る勇気はないし、そもそも喉はカラカラだし、俺には彼女に話しかける以外の選択肢は残っていなかった。
「あの……大丈夫っすか?」
「は、はい、大丈夫です……」
「いや、どう考えても大丈夫じゃないでしょ……」
「本当は大丈夫じゃないです……」
女はあっさりと前言撤回した。そりゃそうだ。どう考えても大丈夫な状態ではない。
「なんかよくわかんないですけど、困っているようなら何か手伝いましょうか?」
俺は何気なくそう言って、何かとんでもない安請け合いをしたような気がして後悔した。
そんな言葉に女は「え?」と少し驚いたように顔を上げた。
そこで俺は始めて隣に住んでいる女の顔を見た。
そして、俺はその女の顔を見た瞬間、心臓が凍りそうなほどに驚いた。
「せ、先生っ!?」
「え?」
女は驚く俺に首を傾げていた。が、すぐに俺の顔に見覚えがあることに気がついて目を見開いた。
「近本くんっ!?」
それはどう見ても、俺の担任にして学園の真のアイドル織平さくらその人だった。
※ ※ ※
その後、俺は先生を俺の部屋に避難させると、廊下に散乱した先生の家財道具をとりあえず自分の部屋に運んだ。どうやら先生は部屋に入れないらしく、かといってこのままこの散乱した家財道具を放置するわけにもいかずそういうことになった。
その間、先生は何度かドアから顔を出して「手伝うよ?」と聞いてきたが、「大丈夫です。先生は休んでいてください」と断った。
それから十分ほどで何とか部屋に全てを運び込み、俺がテーブルに座ると、いつの間に沸かしたのだろうか、先生が熱いお茶の入った湯飲みを俺に差し出した。
「勝手にキッチン使っちゃってごめんね……」
俺はありがたく先生の淹れたお茶を頂くことにした。が、俺がお茶を啜っていると先生は突然、「大変っ!?」と言って立ち上がると、俺の真横にしゃがみ込み俺の左手を両手で包み込むように持った。
「血が出てる……」
そう言われて初めて気がついた。どうやら家具を運び入れる時に手の甲を切ったらしい。
先生はしばらく心配そうに俺の手を眺めていたが、すぐにハッとした顔をして運び入れた自分のカバンから何かを取り出して戻ってきた。
それは携帯用の救急箱だった。先生は箱から消毒薬とガーゼを取り出すと俺の手当てを始めた。
何というか手当てをされている間、俺は気が気ではなかった。
何せ相手は学園のアイドル織平さくらなのだ。そんな彼女が俺の部屋で、俺に身体を密着させて、さらには俺の手を握りながら俺の手当てをしているのだ。
ついでに言っておくと、先生は部屋着なのだろうか、サイズの大きいTシャツの襟元からは水色の下着に覆われた豊満な胸元が見えてしまっている。
治療に集中しているのか、先生はそのことに全く気がついていないので俺も目のやり場に困る。
「本当にごめんね……。痛くない?」
先生は俺の顔を覗き込むようにそう尋ねる。
「え? ま、まあ、先生に言われるまで気づかなかったぐらいなんで、平気だと思いますけど……」
間近で見る先生の顔は何歳も年下なんじゃないかと勘違いするほどに幼い顔をしていた。
本当に可愛い顔をしている。
そして、先生からはほのかに甘い香りが漂っていて俺は思わず卒倒しそうになるのを堪えた。
先生は消毒を終えると、丁寧に絆創膏を貼ってくれた。
手当が終わったところで俺は先生に尋ねる。
「いったい何があったんですか?」
「実は……」
先生の言い分を要約するとこういうことだ。
先生の実家は昔事業に失敗して借金まみれらしく、その借金を先生も返しているらしいのだが、安月給のアイドルの仕事だけでは返済できず、元々学力に秀でていた先生はアイドルを卒業して大学の奨学金を勝ち取り、ほぼ無料で大学を卒業し、教員になった今も返済を続けているらしい。
「ちなみに借金ってあといくらぐらいあるんですか?」
そう尋ねると先生は少しバツが悪そうに俺から目を背けると、ぼそっと「一千万とちょっとかな」と、とんでもない金額を口にした。
「一千万っ!?」
悪いと思いながらも思わず目を剥いてしまった。
「これでも結構返したほうなんだよ?」
「返したって言ったって……」
いくら教員とはいえ、一千万円なんて金額を先生一人で背負うなんて途方もない話だ。
「だいたいどうして両親が作った借金を先生が返さなきゃなんないんですか?」
「パパとママは、お金が苦しいのに私のアイドル活動を必死で応援してくれから、これぐらいの恩返し当然だよ」
「…………」
そう言われてしまうと俺は何も言いようがない。
「で、これからどうするんですか?」
「それは……」
「どうせ行く当てはないんでしょ?」
先生はこくりと頷いた。
後になって思えば、何でこの時の俺はこんなにも勇気があったのだろうか。困り果てた先生に俺は迷わずとんでもない提案をした。
「俺ん家に住みますか?」
さすがに先生もそんな俺の提案は予想外だったらしく「え? そ、それはさすがに近本くんに悪いよ……」と首を横に振った。
「でも、他に行く当てもないんでしょ?」
「そ、そうだけどさ……」
「ならば他に選択肢はないんじゃないんですか?」
「…………」
先生は迷っているようだった。そりゃそうだ。教え子の家に居候する先生なんて見たことがない。
だが、他に選択肢がないのもまた事実だ。
「もしも私がここに住んだら近本くんに迷惑かけちゃうかもしれないよ?」
「いや、先生にホームレスになられる方がよっぽど迷惑ですよ」
「本当にいいの?」
先生は俺の顔を覗き込むようにそう尋ねた。
「大丈夫です」
「本当に本当?」
「本当です」
そう答えると先生はまたしばらく悩みこんだ。が、ついに「近本くん、ありがとうね。先生、いつかきっと恩返しするからね」と呟くと、緊張の糸が切れたようで初めて柔和な笑みを浮かべた。その瞬間に先生の瞳から一筋の涙が頬を伝った。
その表情の美しさに思わず胸を打たれる。
幼くて、それでいて誰よりも大人な表情は、どんなに持て囃されている女子生徒にだって決して真似できない美しさがあった。
そんな彼女の表情に見惚れていると先生は恥ずかしそうに、
「あんまり、見つめると先生まで恥ずかしくなっちゃうよ……」
と目を逸らした。
が、すぐに真剣な表情に戻ると何か決意したように、再び俺を見つめる。
「とにかく、近本くんが勉強やそれ以外のことにも集中できるように私、頑張るね」
「ありがとうございます」
「炊事洗濯とか、その他のことも全部先生がやるから安心してこれまで通りの高校生活を送ってね。困ったことがあったら先生が何でもするから遠慮なく言ってね」
なんでも?
そんなワードが俺の心に一瞬引っかかったが、先生の澄んだ瞳を見て、何だか自分がとんでもなく邪な酷い人間のように思えて慌てて邪念を振り払った。
そこで先生は立ち上がった。
「そうと決まればさっそく頑張らないとねっ!!」
そう言ってガッツポーズをすると、キッチンに目をやった。シンクには俺が数日放置していた食器が散乱している。先生は洗い物をしようと思ったらしく、キッチンへと歩き出した。
が、その直後。
先生はテーブルの脚に小指をぶつけると「ぎゃっ!!」と短い悲鳴を上げた。
先生はしゃがみ込むと、その拍子にスカートが捲れあがり、その中の水色の布製の何かが露見していることにも気がつかずに指を摩り始めた。
「えへへ……一歩目から躓いちゃった……」
苦笑いを浮かべる先生。
そんな先生を見て、俺は自分が何かとてつもなく誤った決断をしたような気がして、同じく苦笑いを浮かべた。
俺の担任、織平さくらはどうしようもなく、まっすぐな女性で、それでいて少しアホだった。
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