実録コロナ嫌疑
佐野心眼
実録コロナ嫌疑
『実録コロナ嫌疑』といっても、重い話ではない。
令和2年3月、私は腰を痛めた。
私は筋トレをしないと腰が痛くなるので、週に一回近所のジムに通っていた。ところが新型コロナの影響でジムは閉鎖されてしまった。
ま、多少サボっても大したことはないだろう。そんな甘い考えでいたら、二週間も経たないうちに腰に激痛が走るようになった。前かがみになることはもちろん、歩いていても、寝ていても、座っていても、立っているだけでも鈍痛は続いた。
もうこうなると痛みで筋トレはできない。
今までは腰痛ストレッチをやって痛みを和らげて、筋トレを再開すれば治った。ところが今回は腰痛ストレッチをしても、鎮痛剤を飲んでも痛みは引かなかった。こんなにひどい腰痛は今までになかった。
何とか解消の方法はないだろうか。そんなとき、ふと頭に浮かんだのは、街でよく見かけるマッサージ店の看板だった。あそこに行けばもしかしたら治るのではないか。そんな淡い期待を抱きつつ、私はためらっていた。
というのも、私はかなりの人見知りなので、見ず知らずの他人に体を触られるのが嫌なのだ。だから今までマッサージ店に行ったことはなかった。しかしこのまま放置しておけば痛みの
緑色の6階建ての雑居ビル。その5階にマッサージ店はあった。ビルの入り口には『肩こり、腰痛、疲労解消』と書かれた立て看板が
そこは全面ガラス張りの入り口だった。ガラス越しのカウンターに立っている30代半ばの男の店員と目が合った。店員はニコリともせず私を凝視している。やはり怪しく見えるらしい。
「あ、あの〜、マッサージを受けたいんですけど…」
そう言うと、やっと店員がニッコリと微笑んだ。
「ではこちらでご住所とお名前とコースを記入してください」
物腰が柔らかく、どうやら優しそうな人だと確信して、私はほっと胸を撫で下ろした。この人なら施術を任せてもいいだろうと思ったのだ。
必要事項を記入して料金を支払うと、奥へと
すると、マスクを着けた20代の女性が奥から出て来て「こちらへどうぞ」とベッドを指さした。
あれ⁈あの男の店員が施術するんじゃないのか?
あ、しまった、私はマスクをしていない。コロナが流行っているというのに、まずいことをしてしまった。
妻以外の女性に体を触られるなんて、30年位経験してない。しかも彼女は美形だ。
間違って風俗店に来たんじゃないよな。
ん?ここは密閉空間だ。もしこの女性がコロナにかかっていたら感染の可能性が高い。
様々な雑念が頭の中を駆け巡る。しかし、それどころではないのだ。私は腰が痛いのだ。私はすがるような気持ちで施術師に言った。
「あの〜、とても腰が痛くてですね、腰を中心にやってもらえますか?」
「分かりました。腰を重点的にやって、その後全身をほぐしていきますね。ではうつ伏せに寝てください。」
上着を脱いで指示通りに横になると、すぐに施術が始まった。強過ぎず弱過ぎず、絶妙なマッサージだった。さすがプロだ。私は身も心も溶けていくように感じられた。もはや私にとってこの施術師は女神であった。こんなことならもっと早くマッサージを受ければよかった、そんな後悔も覚えた。
すると、施術中にこの女性が鼻をすすり始めた。
あれ?もしかして…
私の心をよぎったのは新型コロナだった。しかし今更どうすることもできない。
その後も、施術師は何度も鼻をすすった。
…怪しい。この密閉された職場環境と至近距離なら、いつ感染していてもおかしくはない。疑念が疑念を呼ぶ。
しばらくすると、今度は私の鼻から鼻汁が出て来た。私は副鼻腔炎なので、鼻汁が少しずつ染み出して来るのだ。しかもうつ伏せ状態だと尚更出やすかった。
仕方なく私も鼻をすすった。何度も何度も…
いつの間にか、施術をする側とされる側のどちらもが鼻をすすり合うという奇妙な光景が出来上がった。
すると、施術師が話しかけてきた。
「最近コロナが流行ってますねぇ」
「そうですね、なるべく早く収まってほしいですね」
「何か対策してますか?」
「あまり出歩かないようにしてます。あとは手洗いですかねぇ」
「マスクもした方がいいみたいですよ」
「そうですねぇ、今日は忘れちゃいましたけど、なるべくマスクはしてますよ」
あれ?何かおかしいぞ。遠回しに「マスクをしろ」だって?私が彼女を疑っているのに、今彼女は私を疑っている。…ということは彼女は感染している自覚がないということになる。
………そうか!この人は『花粉症』で鼻をすすっていたのか。
得心が行った私は、そのまま気持ちよくマッサージを受けた。
やがて60分コースの終わりを告げるアラームが鳴り響いた。
「これで終了です」
アラームを止めると、施術師は急いで手洗い場に行き、念入りに手を洗い始めた。その様子を横目で見ながら上着を着て入り口まで来ると、彼女は私を引き止めた。
「手を消毒してください」
言われるままに入り口に置いてある消毒用アルコールを手に付けてクリームを塗るように摩った。
「それじゃぁ、どうもありがとうございました」と言って帰ろうとする私を、再び彼女が引き止めた。
「待ってください!お水も飲んだ方がいいですよ」
「えっ?喉は渇いていませんよ?」
「熱がありますよね⁈顔が真っ赤ですよ。お水を飲んでください」
「熱はありませんよ。顔を押し当てていたのと、血行が良くなったからでしょう」
それも事実だが、若い女性に体を触られるのが恥ずかしかったなんて言えなかった。
「いいから飲んでください!」
彼女は無理やり紙コップの水を差し出した。もう一歩も引かない決意を感じ取った私は、水を一気に飲み干した。
「腰が痛いのなら、整骨院に行った方がいいですよ」
彼女は紙コップを受け取りながらそう言った。
それは、もうここへ来て欲しくないということだろうか。
帰り際、アルコールで手を消毒している彼女の姿を見て、私はふっと溜息をついた。
疑う側がいつの間にか疑われる側に…、『肩こり、腰痛、疲労解消』の立て看板が笑っていた。
実録コロナ嫌疑 佐野心眼 @shingan-sano
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