戦後改変記 ~極北の奇蹟~

占冠 愁

昭和19年11月24日 空襲

「…ここは?」


辻政信は、ゆっくりと顔を上げた。


「たしか私は…ベトナムで死んだはず」


記憶は、現地で捕らえられて処刑されるまで続いていた。

1963年末日、参議院議員の任期中にベトナムで失踪、死亡扱いとなった辻は、どうしたことか、その記憶だけを保持したまま――ここに居た。


「この服装は…?」


彼は自らの格好に目を落とす。


陸軍軍服。

GHQの占領初期に陸軍自体が解体され、もはや着ることはありえないと思っていたモノだ。しかし辻には、なぜ自分がそれを着ているのかがわからない。それも――自らの最終階級である、大佐章を付けたものを。


それから辻は、まじまじと自身の手を眺め、身体を触り、顔を触り、丸眼鏡と刈り上げた頭皮を自覚して、他でもない自分自身としてここに両足立って入ることを理解した。


「にしてもやけに若々しい…。もしや、ここが仏様の言う死後の世界――極楽浄土だとでも言うのか?」


そう言って、空を見上げた瞬間。


彼の頭上を、轟音をがなり立てて巨大な鉄塊が越えていった。


「……は、ぁ??」


空に浮かぶ無数の鉄の城。

それは、彼が何度も見た悪夢。

トラウマとして思い起こさせるには十分な、殺戮機械。


―――空中要塞・B29。


「な!一体、なんだと言うのだ…!?」


高空を悠々と征くそれは、爆弾倉をゆっくりと開く。

ナイトメアの矛先は、辻の前方10kmほどに広がる大きな街。


「っ、行かなければ!」


半ば衝動的に地を蹴った辻は、猛ダッシュで道の先の市街目掛けて走り出す。

しかし、飛行機の速度に脚で敵うはずもなく、彼が駆け出してから1分経たないうちに爆弾が降り注ぎ始めた。


「クソ!どうなっているのだ…!戦争は20年も前に終わっただろう!?」


彼が駆け込んだ頃には、街中に火の手が回ってとっくに抑えが効かなくなっていた。

もはや手遅れだと、経験上も歴史上からも知っている辻はごうごうと燃え盛る炎のアーチを駆け抜けて、未だバケツリレーで消火を試みる市民へと叫ぶ。


「なにをやっている!早く壕に避難しろ!!」

「し、しかし!軍が示した防火指針に逆らえば…」

「憲兵共など私が黙らせる!さっさと退避するんだ!街中に回りきった炎をバケツ程度でどうにかなるわけがないだろう!!」

「だ、黙らせるったってアンタ!相手は憲兵だぞ!?市民一人で太刀打ちできるようなものじゃ――」


「何をしている、バケツリレーをサボるな!!」


そこに颯爽と現れた兵士。

腕には憲兵腕章、消火指揮の最先鋒だ。

そんな存在にもためらうことなく辻は食って掛かる。


「なんだと貴様!この様がバケツでどうにかなるとでも?!」

「炎がなんだ!強靭な精神力による勇猛な鎮火作業さえなればどうとでもなる!」

「何が精神力だ!そんなものに縋り続けた成れの果てがこれではないか!!」

「何を言おうと此処は陛下の治める皇國の地だ!断じて守らねばならん!!」


業を煮やした辻は、惜しげもなく襟の階級章を示しつつ怒鳴る。


「私は陸軍大佐だッ!」

「「ッ!!?」」


憲兵が固まる。

燃え崩れる街に単身滑り込んできた男が、まさか超高級軍人とは思っていなかった市民たちも、唖然とする。


「貴様ら民間人を守る役割の軍人が民間人を殺すような命令を出しているなら、軍人として私が抗議するまで!」


辻は決然とそう述べ立て、

そこに倒れていた少女を背負い上げつつ市民たちへ喝を飛ばす。


「さっさと防空壕に避難するんだ!!」


その言葉に戸惑っていた市民たちも、迫りくる炎を前にやがて頷き合い、バケツを投げ捨て、防空壕目掛けて一目散に走り出す。

呆然としていた憲兵たちは、大慌てでそれを止めようとするが辻がその前に立ちはだかって、食い止めた。

それに留まらず、次々と辻はバケツリレーを展開する他の市民を見かけ次第声を張り上げ、各所の防空壕へと誘導してく。

背負っていた少女は最初の防空壕に預け、炎から逃れる道中で斃れた人々を次々と担ぎ上げて、防空壕へと運び込んでいった。その姿は1938年にノモンハンの最前線で負傷兵を背負って戻ってきたときと、全く変わっていなかった。


途中で黒焦げになった腕を見つけた。

灰になった脚を見つけた。

赤子を背負って焔に倒れた、まだ十も行かない少女の死体も見つけた。


街は、さながら地獄であった。


「この悪魔どもめ…!!」


一酸化炭素と無力感に喘いで、辻は黒煙の中に垣間見える碧天の、憎き星条章の大編隊を仰ぎ、睨めつけた。



・・・・・・



"1944年11月24日"


憲兵本部へ『同行願い』と称して連れて行かれた辻は、その天幕内のカレンダーに記されていた日付を確認して唖然とする。


(どういうことだ…。20年も遡っている、だと?)


混乱する辻をよそに、天幕の外で悲鳴が上がる。


「何、それは本当か!?」


驚愕と悲痛入り交じる叫びが聞こえたかと思えば、辻の連行されていた天幕へ、この地区の憲兵本部長が駆け込んできた。


「間違いない、この方は辻大佐だ!即刻解放差し上げろ!!」


拘束を解かれた瞬間、本部長は頭を下げた。


「視察当日のこの無様、申し訳ありません!」

「はぁ、視察だと?」


心外なことを言われて、首をかしげる辻。


「は、本日こちらへ視察に訪れるご予定と聞き及んでおりましたが」

(そもそもこの時の私は、ビルマ戦線で負傷してバンコクで入院していたはず…)


ふと懐に違和感を覚えてまさぐると、自身の軍歴を書き留めた軍人手帳を見つけた。

パラパラと捲ってみれば、ビルマ戦線で負傷した履歴がない。

入院したはずの日付には、その代わりに「内地へ異動」と記されていた。


(私が…負傷しなかった、ということか?)


どうなっているのだと周囲を見回して、焦土になった街が目に入る。

それで辻は、はっと気を戻した。


(そうだ、ここは1944年11月――!)


彼は凛と立ち上がって、本部長へと詰め寄る。


「この有様はどういうことだ、本部長。街を見ろ、何がバケツリレーだ、どこが鉄壁の防火体制だ。」

「しっ…しかし、こればかりは上の命令でして…。」

「なら私が憲兵統括部に直接殴り込む。貴官らは然るべき避難誘導をすればよろしい」


往年の上官殴り込みを掛けることを宣言した辻の表情には、早くも一つの覚悟が芽生えていた。


「私が―――変えてみせる。」



防火体制も、防空指針も。陸軍も、海軍も、そしてこの国の行く末も。

全てに渡って彼は、改変を決意した。


1944年11月末。

サイパンを失い、レイテで敗れ、フィリピンも風前の灯。

B29によって一刻一刻と強化される本土空襲。

破れかぶれで立案される本土決戦構想。


すでにこの国が全ての致命傷を負ったあとの、終戦10ヶ月前。

それでも辻は決めた。


歴史を変える、と。


彼は立ち上がる。

史実と違って内地に回送されているならば、いくらでもやりようがある。

まずは5日後に撃沈される空母『信濃』の救出からだ、と辻政信は一路東京目指して歩み出した。




1944年11月24日。

これから10ヶ月に渡る悪夢の初日――…東京に初めてB29が来た日である。

東京都下に爆弾が降り注いだその最初の日付、この武蔵野という街に、マリアナから飛び立った空中要塞が襲いかかった。


その日―――赫灼の地獄の下で密かに一つの希望が灯ったことなど、

誰もが知る由もない。



歴史が、動き出したのだ。

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