10 野望
学校が楽しい。楽しくて仕方がない。土曜日、ぐーすか寝ている継母と姉ABとガキンチョABの隙を突いて、始発で部活にいくのが楽しみになった。
さすがに始発なので到着しても学校は開いていない。陸上部もテニス部も練習していない。その間は高良さんに勧められた本を読んでいる。いまはソフィーの世界とかいう、やたらめったら分厚い児童書を、興味深く読んでいる。
中学のころはこんなの読むなんて考えもしなかったな……漫画くらいしか読まなかった。小説なんて「字の本じゃん」といって読まなかったし、「哲学って食えないんだべ?」という発想しかなかった。しかしモノを考えるということは思ったよりずっとずっと楽しい。
部活が始まるまで校舎正門の階段に腰掛けて読書をしている。五月初め、まだ早朝の空気は冷たい。指先が冷えるのでときどきスカートのポケットに突っ込んでいるホッカイロを揉む。
「おや、ごきげんよう。今日もやっぱり始発で来たのかい?」
顔を上げる。高良さんだ。高良さんは通学用の指定カバンと、生徒会の書類をつっこんだリュックサックを装備している。
「そういう高良さんだってあたしに合わせて来たじゃないですか。まだ七時ですよ、しかもこんな薄曇りの寒い日に」
高良さんはハハハと笑うと、あたしの横に座った。なんだかドキドキする。
「読書ははかどっているかい?」
「はい。高良さんの勧めてくれる本はどれも面白いです。あたし、中学のときこんな字ばっかの本なんてぜったい読まなかったですよ」
「そうなのかい? 漫画とかそういうのを読んでいたんだっけか」
「そうですね、漫画雑誌を買って読んでました。たいがい姉たちにとられるんですけど」
そう答えて、指先にはぁと息をかける。高良さんは考えるような顔をして、
「私にそういう、字の本を勧められて迷惑に思ってないかい?」と訊ねてきた。
「迷惑じゃないです。この学校に通って見えるものが広がったし、高良さんの勧めてくれる本で考える楽しさが分かりました。中学、ひどかったんですよ。生徒は不良かオタクの二択で、勉強する楽しさなんてだれも考えてもいませんでした。でも、ここに来て――勉強って楽しいんだな、って思えるようになりました。高良さんのおかげです」
「そうか。それは嬉しいな……というか、れいらくんは元から賢いんじゃないのかね?」
「賢くないですよ! 中学のころ数学で30点とかとってたんですから! いまから七月の期末テストが怖くて仕方がないんですから!」
「うーん。勉強が得意、というのと、賢い、というのは別じゃないかい? たとえばど、ドラ●もん? の、の●太くんは、学校の勉強は苦手だけれどひみつ道具も持てば知恵を見せるし、さ、サ●エさん? の、カ●オくんだって、いろいろなことを思いつく策士じゃないか」
「……珍しいですね、高良さんがアニメを引き合いに出してくるなんて」
しみじみとそう答えると高良さんは白い歯を見せて笑った。
「アニメは見ていないよ。祖母に漫画を読んでみたいと言ったら、お女中がド●えもんとサ●エさんを全巻まとめて買ってきたんだ」
いきなり全巻セットで揃えてしまうあたりお金持ちみを感じる。しかしド●えもんとサ●エさんて古典の名作だなあ。どうせならもっと流行りの漫画を読めばいいものを。
「授業、ついていけてるかい?」高良さんはあたしの顔を覗き込んだ。
「ええまあなんとかどうにか。ここの先生たちは教え方がうまいですね。中学の先生たちは、ろくに勉強のやりかたなんか教えてくれなかったし、それで脱落するやつがいても救済措置はありませんでした」
「ここの先生方は落ちこぼれを出さない教育というのをモットーにしているからね。全員揃って大学まで完全エスカレーターで卒業させたいんだ」
「大学かあ……」正直な話、頭を抱えてしまう。確かに以前、大学に行きたいとは言った。高良さんも策を考えてくれると言った。しかし自分が大学生になったところを想像できない。というか大学ってなにを勉強するところなのかよく分からない。継母も姉ABも父さんも高卒だし、あたしだって高良さんの一件がなければ近所の工業高校に進んで、高卒で就職していたはずなのだ。大学には行きたい。しかし行く自分が想像できない。
「どこかよその大学を受けるのかい?」高良さんの心配そうな声。
「まさか。進学なんかできませんよ。大学に行きたいのは前に言った通りですけど」
「どうして? 行きたいのに諦めるのかい? 大学の学費なら出してやれるよ?」
「学費の問題というか、我が家の民度の問題ですよ。うちは家族みんな高卒だし、父さんは大学にあたしが進学することなんか考えちゃいないし、継母も姉ABも反対すると思います。特に継母は上級国民さまに毒されてるんだとかなんだとか無礼なことを言うと思います」
「でもそれはれいらくんの意志じゃなかろう。れいらくんはどうしたい? それが大事だ」
「そりゃ……行きたいです。前に言った通り……できることなら大学生になりたいです」
「じゃあ決定だ。れいらくんが大学に行く方法を考えよう。私はれいらくんの味方だよ?」
あたしが大学に行く方法を考えてくれるというのが、高良さんの心の底からの本心だったことが嬉しかった。素直に嬉しすぎて、またしても犬だったら嬉ションするところだった。
涙が出てきた。ここまで、あたしのやりたいことを肯定してくれたのは、高良さんだけだ。
「れいらくんが泣いていたらまた早苗に叱られてしまう。はい」
高良さんは高そうな白いハンカチをすっと差し出した。涙をぬぐう。
腕時計――ほかの生徒がみんなつけているので、頑張ってお小遣いで買った、2000円の割にはちゃんとしたやつ――を見る。そろそろ八時。土曜日の学校が開く時間だ。
校舎のドアの鍵を、中からいまどき珍しい宿直の先生が開けた。あたしと高良さんは、それぞれ下足入れに靴を突っ込み内履きを履いて校舎に吸い込まれた。
美術室に入り、準備室から自分の作品を出してくる。高良さんはうっとりするほどきれいな七宝焼きのアクセサリーを作っていて、あたしは堆朱でキーホルダーを作っている。どうにも貧乏性で、実際に使い道のあるものを作りたいと顧問の熊沢先生――ホントにクマみたいな見た目のおじさん先生――に相談して、なら堆朱のキーホルダーはどうだいと提案されたのだ。
「ごきげんよう、五輪寺先輩、新田さん」
竹屋さんが現れた。平安貴族のごとく長い髪をゆらしながら、準備室から描きかけの水墨画を出してきた。あたしはあかるく、
「ごきげんよう竹屋さん」と答える。竹屋さんはその品のいい色白な顔にちょっといじわるな笑みを浮かべて、
「また始発できて校舎前で待ってたの? 愛しの君を」
といじわるを言ってきた。なんだこいついじわるだな(語彙)。
それから鈴木さんが現れて、みんなの脳内に(ごきげんよう)とエコーを響かせた。作りかけの魚のモビールの続きを作っている。楽しそうだ。
それから少しして、塔原部長と白野さんが手をつないで現れた。完全なる恋人つなぎ。朝から見せつけてくれるぜ……などと思いつつ、ごきげんようと挨拶をする。まあ見せつけているのはあたしと高良さんも同じだ。塔原部長と白野さんはとても仲がいい。白野さんが一方的に好いていたところから始まったけれど、結局いい関係を保てているようだ。
ほかの部員も次々集まり始め、てんでに制作を始めた。
あたしは、自分の善行……いや不良をボコボコにしたから善行ではないな、とにかく自分の行いで未来を切り開いた。そして、切り開いた先には、こんなに楽しいことがたくさん待っていた。
大学に行きたい。それは高良さんもあたし自身も望んでいることだ。大学に行って、友達や先輩たちと、本当ならできなかったモラトリアムがしたい。高良さんと楽しく過ごしたいのだ。
高良さんがあたしのために策を考えてくれるというのだから、やるしかない。高良さんが味方だし、きっと白野さんや鈴木さんや竹屋さんだって味方になってくれるはずだ。ルッコラを分けてもらったあの昼は思わず泣いてしまったが、もう泣く理由はない高良さんを信頼していいのだ。高良さんが、あたしの味方になってくれるのなら、大学だって行けるはずだ。
帰ったら、継母にハッキリ言おう。大学に行きたい、と。笑われるかもしれない、怒鳴られるかもしれない、でも言いたいのだ。大学に行きたいと。
ひとつ野望ができた。それは、大学に行くことだ。はっきり考えることを諦めていたけれど、それは心の中に巨大な野望としてそびえ建った。
大学に行って、高良さんが見えないところまで遠ざかるまで――高良さんの妹でいるという、大きな大きな野望ができた。
思わず力が入って、堆朱のイイ感じに色が出ていたところをごりっと削ってしまった。
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