8 素晴らしいマンデー

 地獄のような日曜を過ごして月曜日。家を出る足取りは異様に軽い。まるで空を飛んでいるみたいに軽い。本当にこのまま空を飛べる気すらする。


 電車――通学や通勤のひとはそれほど乗っていない――に揺られて、学校に向かう。電車で通学してるのなんてあたしくらいだよな、うちの学校。


 学校の最寄り駅で降りてあとはてくてく歩くだけだ。そんなに大した距離じゃない。校舎の前でみな高級車を降りて「ごきげんよう」と挨拶を交わしている。

(新田さん、ごきげんよう)鈴木さんのテレパシーだ。振り返って、

「おっすごきげんよう」と答える。おっす、って我ながら野沢●子か……。

(お、おっす?)案の定鈴木さんは混乱している。アハハと笑って、なんでもないよ、と言う。


「新田さんごきげんよう」白野さんが白くて細くて指先のぽっと色づいた手をひらひらさせる。あたしは笑顔で、手荒れのひどい手を振って応える。白野さんが訊ねてきた。


「新田さん、美術部に入るって本当? コーラス部が一段落ついてから美術部に顔を出したの」

「そうだよ。部活やるなんて初めてでさ、すっごく楽しみ」

「は、初めて? 中学校は部活してなかったの?」


 白野さんは驚いた。あたしは理由をぼかして、それから入ってきた竹屋さんに声をかけた。


「うん。強制じゃなかったし、そのころから不良だったから……あ、竹屋さん。ごきげんよう」

「ごきげんよう。きょうもまたニコニコね、学校の何が楽しいの?」

「そりゃ家のこと考えなくていいからだよ」

 竹屋さんは色白なうりざね顔を疑問の形にゆがめて、

「新田さんのお家ってあの料理屋さんなのでしょう? 楽しそうじゃない」

 と、外野そのもののセリフを発した。


「うちの姉が言ってたでしょ、上級国民はどうたらーって。そういう程度の低い家族しかいないわけよ、我が家には」

「そう。大変ね、そういう家族を持つと……あぁ、美術部に入るって聞いたけど、やっぱり王子様……五輪寺先輩に誘われたの?」

「うん。これで土曜日に学校に来る口実ができたぞ」


 竹屋さんは上品にほほ、と笑うと、教室に向けて歩き出した。あたしと鈴木さんと白野さんも続く。教室――一年ゆり組のドアを開け、それぞれ自分の席についた。


 この学校のクラス名はすべて花の名前で、一年生はうめ、ゆり、ふじ、二年生はもも、さくら、きく、三年生はすみれ、ばら、あじさいである。最初は幼稚園かよと思ったが、慣れるとA組とか1組とか北組とかいうのより随分品がある。


 担任の先生はすでに教室に来ていて、みなに配る書類の準備をしていた。ちょうどいいので入部届けを提出し、これで美術部に入ることが確定した。ガッツポーズをするなどした。


 この学校は、本当にいいところだ。

 男子に値踏みされることも、生意気だと言われることも、家のことを詮索されることもない。あの近所の工業高校に入っていたらそういう目に遭わされていたのは確実で、やっぱり高良さんには感謝しかない。ありがとう高良さん、と心の中でつぶやいた。


 授業も、脱落者を出さないように丁寧に質問に答えてくれる先生ばかりだし、なんて幸せなんだろうと思うばかりである。中学のころはグダグダだった成績も、授業が面白いため、なかなか楽しくついていくことができるので、だんだん改善されてきた。


 勉強するって、こんなに楽しかったんだ。

 中学校の授業はみんな手紙を回したり漫画を読んだりお菓子を食べたりと不良は真面目に聞いていなかったし、そういう不良でない生徒はみな塾に通って勉強し直しているようなものだった。やっぱり民度が違うのだ。


 もともとあたしは勉強が好きだったんじゃないのかな、と思うようになった。荒れる荒れない以前である小学校低学年のころの勉強の楽しさを思い出すほど、この学校で学ぶことは面白いし楽しい。


 楽しく午前中を終えて、昼休みになった。高良さんがランチに誘ってくれた。中庭には、高良さんとあたしのような、姉妹関係と見える二人連れが何組かいて、弁当をぱくついている。


「れいらくん、お弁当はなんだい?」

「ご覧の通りチャーシューの切れ端とシナチクと煮卵とチャーハンです」

「栄養が偏るよ」高良さんは曲げわっぱの高そうな弁当箱からなにやら野菜をとってあたしの弁当箱に入れた。食べてみる。にがっ。からっ。なにこれ。


「ルッコラ、もしかして初めて食べる?」

「はひ」生まれて初めて食べるルッコラを必死でもぐもぐする。てっきり名前しか知らないまま死んでいくものだとばかり思っていた。


 高良さんは愉快そうに笑うと、自分でもルッコラを食べた。

「美術部、無事入れたと聞いたけど……お母様を説得できたのかい?」

「いえ。父が独断でハンコをくれました。継母はあたしを単純な労働力としてしか見てないみたいで。姉たちもそうです」

「そうかぁ……れいらくん、君は、家族が好きかい?」

「父は、無口だけど優しいです。甥っ子姪っ子は、生意気なこと言いますけどまだ小さいんで可愛いです。継母と姉たちは、……なんていうか」


 そこで言葉に詰まった。なぜか涙が込み上げてきた。唇が震えた。

「いいよ、無理に話さないでも――大丈夫。ね?」

 高良さんが背中をさすってくれた。ハンカチも出てくる。


「高良さん、あたしあの家いやです。高良さんとずっと一緒にいたい。高良さんは、あたしを、まるごと肯定してくれる。召使いじゃないって言ってくれる」

「私もそうできればいいと思うよ。一緒の大学に進みたい。れいらくんは、高校を出たら就職するつもりだと前に言ったけれど、しかしこの学校の先生がたは高卒で就職する生徒なんてろくに対応したことがないから、まともな職を見つけられるとは思えない」

「高良さん、あたし高良さんと同じ大学に行きたいです。勉強するのは楽しいです。どうすればいいですか」

「なにか策を考えるしかあるまいね……一緒に考えよう。幸いにしてまだ二年くらい時間はある」


 高良さんが「策を考える」と言ってくれたことが、嬉しくて仕方がなかった。

 弁当タイムを終了し、それぞれ教室に戻ろうと歩き出すと、ふらりと美術部の部長の塔原先輩が現れた。


「ごきげんよう」塔原部長はあたしにそう言ってきた。ごきげんよう、と返事をする。

「高良、こんな可愛い子を泣かしたの?」塔原部長は詰め寄り顔で高良さんに迫った。


「い、いや、その、うっかり家族について訊いてしまって……」

「高良。妹を泣かせるなんて姉失格じゃなくて?」塔原部長の詰め寄り顔は続く。

「あの、塔原部長。それを言ったらうちのリアル姉は姉どころか人間失格だと」

「あなたには聞いていないわ。わたしは高良に聞いてるの。わかる?」


 ……わーお、悪役令嬢。高良さんは少年のように刈り上げた頭をぽりぽりして、


「私がれいらくんの姉として相応しくないなら、君はどうするんだい? れいらくんを妹にするのかい?」

「それは秘密よ。とにかく高良、あなたは妹を泣かせた姉なんだから、わきまえなさいな」


「あ、あの。これはうれし涙です」思わず助け船を出す。どうやら塔原部長は、高良さんとあたしを引きはがしにかかっているらしい。何を考えてなのかは分からないが、しかしあたしと高良さんの幸せな関係を粉砕されるのはいやだ。


「……そうなの? 何が嬉しかったの?」

「高良さんが、家族について心配してくれたことです。うち、継母と血のつながらない姉ふたりと、血のつながらない甥っ子と姪っ子がいて、それに振り回されて疲れているのを心配してくれたんです」


「……そう。今日はこれくらいにしておいてあげるけど、高良、次にれいらちゃんを泣かせたら、そのときは姉妹の関係を返上してもらうわよ」

「おーこわっ。れいらくんは少し涙腺を鍛えねばならないなあ」

「だって心配してもらえるだけで嬉しいんですもん。犬なら嬉ションしてるとこです」


「犬か。本宅で飼ってる犬は元気かな。眼つきが悪くてバッキバキのボクサー犬」

 教室に戻ると、みんなに目が赤いと心配された。嬉しいことを言われてうれし泣きしたのだ、と答えた。高良さんとのこの幸せを、誰かに引き離されてたまるものか。

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