第17話 修羅場が来る
馬鹿は風邪を引かない。
古来より伝わることわざであるが、現在このことわざは正しく使われていない。理解している人もいるがほとんどの人は文面通りに解釈し、しばしば軽口や冗談として使われている。
「風邪を引いたことに気づかないほど愚鈍である。」
これが正しい意味だ。
時間は遡り、当時小学3年生だった僕は体調を崩すことは少なかった。それは今でも変わっていない。その代わり1度体調を崩すとしばらく治らない。それはまるでダムの決壊のように、溜まりに溜まった水が一気に流れ出るように体調が悪化する。
あの参観日以来従姉妹と気まずくなった関係に追い打ちをかけるかの如く、僕は風邪を引いたのだ。
当時の僕は年相応の純粋さを持っていた。だから小学校の時に流行った「馬鹿は風邪を引かない」ということわざを文面通りに解釈し、中々体調を崩さない自分に腹を立てていた。
同級生たちからは馬鹿にされ、先生からは偉いと褒められる日々を送っていた僕はようやく体調を崩したことに喜んでいた。
だから僕は、従姉妹の両親に病院に行くかと言われても断固拒否した。自分は馬鹿ではないことが証明された喜びに有頂天になっていたのかもしれない。おかげで身体にアドレナリンが分泌され、変に気分が良くなった僕は部屋ではしゃいでいた。
しかし、それが良くなかった。
初日は良かったのだ。アドレナリンのおかげで熱があっても気分がいいし、身体の内側から嬉々とした感情が湧き上がって常に高揚していた。
しかし2日目から死ぬ思いをした。
まず身体中が筋肉痛のような痛みに襲われ、関節は錆びた鉄のように動かしにくい。初日に感じなかった身体のだるさを痛感することになった。
自業自得とは正しくこのことである。
いつまでも起きてこない僕を心配した従姉妹の両親は昨日と打って変わった状態の僕に激しく動揺し、動かすことを危険と判断して医者を呼んでくれた。
朦朧としていたから医者の話はよく聞こえなかったが、安静にして風邪薬を飲んでいれば治ると言う。
そうして安静にしているうちに3日が経った。従姉妹の両親は未だに体調が良くならない僕を見かねて、いよいよ大きい病院に行かせようとしていた。
「あ、あなた、ど、どうしたらいいの…!」
「落ち着こう。楓は今一生懸命闘っているんだ。俺たちが焦ってどうする。」
「で、でも…」
「明日の朝、もう一度楓に病院に行くように説得してみる。最悪、入院なんてことも有り得るかもしれない。」
「そ、そんな…」
意識が朦朧としていたが、その会話だけやけにハッキリと聞こえた。
時刻は深夜。いよいよ眠気が押し寄せ、そのまま寝ようとした時、僕の部屋の扉が開く音がした。
聞こえるのは裸足でペタペタと歩く2つの音。入ってきたのは、参観日以来ぎこちない関係になり、僕が体調を崩してから接触しないように言われていた2人の姉妹だった。
「もうねたかな?」
「きっとねてるよ。」
「そうだね。」
そんな会話をしながら僕の両隣に腰を下ろす2人。すると何やら雑巾を絞るような音が聞こえ、僕の額に湿った布が置かれた。
「やっぱり、あせかいてるね。」
「うん。」
「おれんじじゅーすもってきた?」
「あるよ。」
僕の額の汗を拭いて、飲み物を用意してくれていた。思えば寝ている時も時折涼しく感じたり、起きたら新しい飲み物が用意されてたりしていたが、まさかこの2人がやってくれているとは思いもしなかった。
「ふぅ〜」
「おつかれ、おねえちゃん。」
「うん。じゃあもどろっか。」
避けていた2人は僕を嫌うと思っていた。しかし嫌うどころか心配してくれる。この時ばかりは感謝の思いと同時に、申し訳ないという気持ちが湧き上がった。
「はやくげんきになってね。」
—————チュッ
えっ?
感じたのは、僕の両頬に感じる、少し湿って、柔らかい感触。
そして、なにか温かいものが僕の心に染み渡った。
それはまるで、シャボン玉のように儚い。
触れただけで、壊れてしまうほど繊細な。
「えっ?!」
「っ?!」
気づけば僕は2人の手を、強く、強く握っていた。
「……行かないでっ!」
何を言っているのか分からない。
「…僕を、ひとりにしないでっ!」
行ってしまえば、もう戻ってこないような気がして、必死に繋ぎ止めるように。
「お願いだから……そばにいて…」
気付けば僕は泣いていて、すぐに意識がなくなった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「……んぅ…」
目が覚めると、部屋のカーテンから溢れる光はオレンジ色に染っていた。
時刻は恐らく午後4時か5時と言ったところか。
随分寝てしまったが、依然として体調は悪いまま。むしろ悪化している気さえする。おまけに懐かしい夢も見た。
「ん?」
ふと体を起こしてみれば、僕の枕が濡れていることに気づく。
「参ったなぁ…」
つい先日、強くなると決意したのにこのザマだ。
僕はまだまだ弱い。小学3年生から全く成長していない。それにあの時なぜ泣いていたのか分からない。ただなにか大切なものを忘れていて、それを思い出せそうな気がして…
「あぁ、ダメだ。だりぃ…」
あの時も高熱を出していた。意識も朦朧としていたため記憶も定かではない。さっき見た夢も、ただの夢かもしれない。よくよく考えてみれば従姉妹に看病された記憶なんて無いかもしれない。
絶対とは言いきれないが。
僕は考えるのをやめた。今考えたところできっと何も得られることは無いし、余計熱が上がるだけだ。
今はとにかく、この湿った顔面をティッシュで拭きたい。
そう思って立ち上がった。が、すぐに僕の視界が黒く染まった。同時に心拍数が急激に増加し、膝に力が入らなくなった。
(あ、まずい…!)
そう思った時には僕は自室で前のめりに倒れ込んだ。
それとほぼ同時に、玄関のドアが開く音がした。
「やっほ〜!楓ちゃん来たよ〜!」
「ちょっとお姉ちゃん!まずはお邪魔しますでしょ?人様の家に上がるんだから。」
「楓ちゃんは家族だもん。大丈夫だもん。」
「親しき仲にも礼儀あり、だよ!…それよりなんかおっきい音しなかった?」
「え?気の所為じゃない?」
「そうかなぁ…」
そんな会話をしながら上がり込んでくる2人組。
久しく聞いてないその声に懐かしい思いが込み上げるのと同時に、何故ここに?という疑問と少しばかり焦りを覚える。
今のこの状態を見られれば従姉妹に余計な心配をかけてしまう。そうならないために東京まで来たのに、このままでは本末転倒だ。
そう思って、未だに暗い視界の中で何とか足に力を入れて立とうとすると、
「楓ちゃんいる〜??」
そう聞こえると、僕の部屋の扉が勢いよく開かれた。
床にうつ伏せになっていた今、僕の頭の位置は当然扉側に向いていて…
ガンッ!!
「ぐっ……お…」
「へっ?」
僕は呻き声を出す。扉を開けた人物はとぼけたような声を上げる。
「か、楓ちゃん?………楓ちゃんっ!」
いつからちゃん付けで呼ばれていたのか記憶にないが、僕のただならぬ様子に声色が深刻なものに変わる。
「どうしたの?!おねえちゃ……お兄ちゃんっ!!」
慌てて駆けつけた人物もまた、同じような声を出す。
「楓ちゃんっ!しっかりしてっ!」
「お、お兄ちゃんっ!ど、どうしよう…!」
「あかねっ!タオル濡らして持ってきてっ!あと私の鞄に風邪薬と解熱剤があるからそれも持ってきてっ!」
「う、うんっ!」
「あかね」と呼ばれは女は急いでキッチンの方へ走っていく。そしてもう1人は僕の名前を必死に呼び続けている。
だが僕は元々熱があって立ちくらみをし、その上頭に打撃をくらっていたので、意識を保つのが限界だった。
「楓ちゃんっ!楓ちゃんっ!」
僕を呼ぶ声に返事が出来ないまま、意識を手放した。
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