駅に着くと、路線が違う私たちはお互いに会釈だけして、それぞれのホームへ向かった。

 自分から知らないにおいがする。どこかで波多のにおいが移ったのか、ホテルのにおいか。私は気づかないふりをして電車の中の人ごみのにおいだと思い込むことにする。


 波多と肌を合わせても、私の日常はそう簡単には変わらない。変わるとすれば、大翔から連絡が来るときだろう。

 大学に入学してすぐに彼から告白され、何度か別れてはそのたびに付き合い続けている私の彼氏。

 遠距離で連絡がほとんど途絶えているといえ、彼がいるのに波多とホテルに行った私はどうかしている。

 大翔は私を忘れたかもしれない。忘れてくれていたほうがいい。そうすれば私は自由だ。そう思いながらもいつもスマホの通知を気にせずにいられない。


 大翔の最後の言葉は一ヶ月半前のくそどうでもいいやり取りの中の「めっちゃ寝てた」の一言。その後は私のしつこいくらいの挨拶メッセージが続いている。おはよう、ただいま、今日は残業で疲れたよ。エトセトラ、エトセトラ。

 既読がついているのだから目に入っているはずなのに、それとも後で返信しようと思って忘れてしまったから、改めて返信しにくいだけなのだろうか。

 私をフるのならそれでもいいから、早く、この宙ぶらりんな状態から抜け出したい。それなのに、私から別れを切り出すことができなかった。別れたい、別れたくない。わからなかった。私はどうしたいの。ひとつわかっているのは、大翔は「私を選んでくれた人」だということ。その大翔を手放したら、私になにが残っているだろう? たぶん、なにもない。

 完全に夜になってしまった空を電車の窓越しに見て、なんだか虚しくなった。時間の使い方を間違った。波多との時間は完全に無駄だった。先輩たちが開いてくれた飲みの席は気を使ってかかなり早い時間で終わったのに、結局電車に乗るのは、少し残業したときと同じくらいの時間だった。

 さっさと家に帰って観ずに溜まっているドラマを消化すればよかった。

 気持ちよく酔い、なんとなく帰りがたい雰囲気に流されてしまった。近くのイングリッシュバーにでも入って、数杯だけ飲んで帰ればよかった。でも、久しぶりの男性の手はどうしようもなく温かかった。抗いがたい。

 波多は私が大翔からの連絡を待っていることを知っている。さっき、散々私はそれが原因で酔っていた。

 それなのに、だ。

 バカな私。大翔に一途でいたいのに、こうして彼を裏切り、そして彼からの連絡がないと唇を噛みしめている。

 SNSアプリを開き、大翔のアカウントを眺めた。彼の投稿を見逃すことがないように、私のスマホに通知が来るように設定している。自分でも時々冷静になると引いてしまう。でも、私はこれでしか大翔と繋がれない。彼の生存確認をできる唯一の手段なのだ。

 私自身は投稿をしない。時々好きなアーティストの投稿を確認する程度だ。

 私はこんなにも大翔のことを追いかけているのに、大翔は懸命な私のことは知らない。

 電車のつり革を握り、アナウンスをぼんやりと聞いた。こんな時間でも働いている人はまだいるんだな。遠くの窓の外の遠くのビルにまだ明かりがついている。

 電車が止まり、ドアが開く。人並みに押し出されるようにして、私もホームに立つ。さして美味しくない空気も、電車に箱詰めになっていた状態からすると、なんて澄んでいるんだと感動するレベルだ。

 大翔が今いる北海道はもっと澄んでいるんだろうか。ごみごみした東京じゃなくて。

 私は自分を誤魔化すように、パンプスを鳴らして歩いた。

 カッカッカ。小気味良い音がすると少し楽しい。飲みの席だからと少しおしゃれをして、お気に入りのパンプスを履いてきてよかった。波多は靴を見ていない。あいつは私のスカートは褒めたけれど、靴にまで視線は行っていなかった。よかった。もし褒められでもしたら、お気に入りのこの靴を履くたびに波多の言葉を思いだしてしまっていただろう。

 あんなに酔っていたのに、今は頭がすっきりとしている。醒めるなら、もっと早く醒めてほしかった。

 改札を抜けると、人はまばらだ。とはいえやはり夜の中を一人で歩くのは怖い。この恐怖は私が波多の熱を求めてしまったのと反対のところから来ている。

 夜を恐れるようになったのはいつからだろう。自分が女だとはっきりと自覚し始めた小学生高学年ころからのような気がする。

 女に生まれてきたことを残念に思うことはしばしばある。規制が多くていやになることばかりだ。女がそんな恰好をするもんじゃない、あれはダメこれはダメとさんざん言われて育ってきた私は、色々な意味で女として自覚するのは早かった。女子は面倒だ。それならば女でいるほうがまだマシだ。女子はすぐ群れを作りたがる。そうして群れから標的の一人を追いだすのだ。

 私は毅然と女として夜を歩く。女子は群れるけれど、女は群れない。だからこそ恐ろしい。信号待ちの時間、私はぼんやりとスマホを開いた。なんのメッセージもない。私はアカウントだけを作って一つも投稿したことなかったSNSに、星すらよく見えない霞んだ夜の写真を撮って載せた。誰も見ないことはわかっている。フォロワーは0だもの。大翔のことはフォローしていない。私が彼を一方的に見ることはするけれど、彼に私が見ていることに気づかれたくなかったからだ。アカウントの名前は本名ではないけれど、大翔にばれるのはいやだった。

 車の数も少ない。夜は恐ろしい。横断歩道の白線を頼りに歩いた。

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