第243話 それぞれの想い


 首にかけたノイルから贈られたペンダントを、顔の前に持ち上げてじっと見つめ、ノエルは『白の道標ホワイトロード』自室のベッドで仰向けになっていた。


 しばしの間無言でそうしていたノエルは、くすくすと、笑みを零す。


「ふふ、もう仕方ないなぁ⋯⋯ノイルは」


 可笑しそうに、小さな子の悪戯を優しく咎めるかのような声でそう呟いたノエルは、ぎゅっとペンダントを胸元で握りしめた。


「私、まだ返事聞いてないよ」


 ノエルはノイルの身を案じてはいるが、同時に必ず大丈夫だという確信を持っている。何故ならば、彼はやる時にはやる人だからだ。そして、自分を置いて決して居なくなりはしない人だ。ノエルを本気で悲しませるような事はしない人だ。


 それに、彼は約束してくれた。

 『魔王』を倒したら自分を選んでくれると。

 答えを出すと約束してくれたのだ。


「私、選んでくれないと死ぬって言ったもんね」


 自分はノイルにそう伝えた。

 少々卑怯なやり方かもしれないが、この気持ちは嘘ではないし、ノイルが居なくなればもはやノエルは生きてはいけない。だからあれはただの本心だ。本当の事を言い、想いを伝えたまでである。


 そしてノイルはそれをちゃんと聞いていたし、ペンダントまで贈ってくれた。

 何処まで本気で受け取ったのかはわからないし、大層困惑させてしまったかもしれないが、彼の頭と胸にはしっかりと刻まれているはずだ。


 ならばノイルは自分を死なせないようにしてくれるだろうし、自分も絶対にノイルを死なせたりしない。


 だからノエルは不安にはならない。

 ノイルはきっと大丈夫だ。今回も無事に帰ってきてくれる。その為に、今も『魔王』の中で戦ってくれている。二人の明るい未来のために。


 ただ、やはり今回は相手が相手なだけに、どうも苦戦してしまっているようだ。早く救けに行ってあげなければならないだろう。


 まったく困った人だ。

 普段はやる気がなくて面倒くさがりで逃げてばかりのくせに、まあそこも今では自分が支えてあげたいと思う程に愛らしいのだが、一度やる気になってしまえば、いざとなれば、自身の身を顧みずに危険に飛び込んで行ってしまう。


 自分の為だ何だと言いながら、誰かの為に怒り身を粉にする。彼が本気で怒るのは、自分が傷つけられた時ではなく、大切な誰かが傷つけられた時だ。


 そういう時のノイルは誰よりも頼りになり、同時に危うくもある。自身に価値を見出していない彼は、基本的には他者を優先し尊重してしてしまう。


 楽をして生きたいと常々零しているのに、損な生き方を選択し、自己犠牲を厭わない。


 そう、ノイルは少々、自己犠牲的過ぎるのだ。

 そのくせに、大した見返りも求めず、自身が救った相手に感謝する。


 自分勝手にわがままに、いつもぼろぼろになりながら、手を差し伸べてくれる。


 自分のおかげじゃない、ありがとうと言いながら。


 そんな人、放っておけるわけがないのだ。

 そんな彼を見る度に、胸が温かくなり、切ないほどにきゅっと締め付けられ、想いは募る。

 もう堪らないほどに、愛おしい。


 ノイルの生き方は、これからもずっと変わることはないだろう。


 だから自分が必要なのだ。


 手を差し伸べてくれる彼に、こちらも手を差し伸べ、互いに手を取り合い歩んでいける存在が、ノイルには必要だ。


 そんな相手に、ノエルはなりたい。

 彼の一番の理解者で、ありたい。


 元々特別でも何でもないただの村娘であったノエルは、自身を凡人と思い込み生きてきたノイルの価値観、視点にもっとも近い存在であるという自信がある。

 誰よりもその気持ちを理解してあげられる自信はある。


「ノイルには、私が必要なの⋯⋯」


 だというのに、あの時――ノイルが『魔王』と戦った時に、取り合った手を離してしまった。吹き飛ばされたノイルを追いかけて、支えてあげることができなかった。


 その為に創り出した力だったというのに、もう少し自分がちゃんと支えてあげていれば、こんな事にはならなかったかもしれない。

 また、ノイルがたった一人その身を犠牲にするような事には。


 そうさせない為の力だった。

 そうさせない為の繋がりだった。

 そうさせない為の自分だった。


 噛み締めたノエルの唇から、一筋の血が流れ落ちる。いつの間にか、彼女の顔からは笑みが消えていた。


「大丈夫だよ、ノイル。今度は絶対に離さない」


 そう呟くとノエルは口元の血を拭い、起き上がってベッドから下り、机の引き出しにペンダントを丁寧にしまう。


「私が、何とかしてあげるから」


 そして瞳に強い光を宿し、自室を静かに後にするのだった。







「⋯⋯⋯⋯」


「シアラ、そろそろ皆集まるよ」


 しとしとと雨の降る、イーリストの大橋を渡った先の平原で、じっと一方だけを見つめているシアラに、テセアは背後から声をかける。

 しかし、シアラは振り向く事はなく『魔王』が――ノイルが居る方向へと視線を向けたままだ。

 テセアは一度眉を歪め、妹の隣に歩み寄り同じ方向を見つめた。


「⋯⋯⋯⋯姉さん」


「⋯⋯何?」


 視線を交わすことなく、ぽつりと自身の名を呼んだシアラに、テセアは訊ねる。

 鉛のような雲が立ち込め昼だというのに薄暗い平原に、少し強い風が吹き湿った土と草の匂いを運び、濡れた二人の髪を揺らす。


「兄さんは昔よく、私に、任せて、シアラって言ってくれてた」


「⋯⋯⋯⋯」


「困った時は⋯⋯困ってなかったけど。そう言って、救けてくれた」


「⋯⋯困ってなかったのに?」


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯一生懸命救けようとしてくれた」


 テセアが少し意地悪にそう訊ねると、シアラは長い沈黙を挟みそう言い直した。僅かに、テセアは強張っていた頬を弛める。


「昔の兄さんは、弱くて、何もできなくて⋯⋯でも、よく、そう言ってくれた」


「⋯⋯お兄ちゃんらしいね」


 普段、シアラの前では控えている呼び方をしても、彼女はテセアを咎めようとはしなかった。


「救けてって呼んだら、必ず来てくれて、安心させるように無理にでも笑ってくれた」


「嬉しかった?」


「⋯⋯言葉では、言い表せないくらい」


「⋯⋯そっか」


 シアラはぎゅっと片手で胸の辺りを握りしめる。


「ここが、凄く温かくなって、嬉しくて⋯⋯何度も何度も、救けてって言った。兄さんは、一度も嫌な顔をしないで、ただ、任せてって。何度も何度も、笑いかけてくれた」


「⋯⋯⋯⋯」


 どちらからともなく、シアラとテセアは前を向いたまま手を繋ぎ合う。


「⋯⋯⋯⋯今、兄さんは、きっと救けてって、言ってる」


「⋯⋯うん」


「だから今度は、私が言う」


 胸に手を当てたまま、一度顔を伏せたシアラは、再び顔を上げて真っ直ぐに前を見つめて毅然とした表情で、万感の想いを込めるかのように口を開く。


「――任せて、兄さん」


 テセアは、握られた手から伝わる覚悟を感じながら、力強く頷いた。


「うん、絶対に救けよう」


「力を貸して、姉さん」


「当たり前だよ」


 ぎゅっと手を握り返し、テセアはシアラに応える。

 一度顔を見合わせた二人は、ふっと微笑み合うと、再び前を向く。


「兄さん」


「お兄ちゃん」


 そして、遠く離れた、『魔王』の中に囚われたノイルへと、二人は声を揃えて言った。


「――私たちに、任せて」


 二人の声は、薄暗い陰鬱な空気を切り裂くように、はっきりと平原に響き渡った。







 採掘者協会イーリスト支部、その最上階の執務室兼自室で、ヴェイオン・ライアートは眉根を寄せて呟く。


「やっぱり⋯⋯来ねぇか」


 椅子に腰掛け執務机に両肘を着き、両手を顔の前で組んだ険しい表情の彼の傍らには、サラ・レルエが平時より更に鋭い瞳で立っている。


 ヴェイオンは目を閉じ、疲れたように鼻から息を吐き出した。


 友剣の国を襲った存在、それから生まれた黒紫の巨獣、いや、厳密に言えばその姿は獣とも言い難いが、『破滅の死獣』と名付けられたそれを討つために、イーリストの全採掘者マイナーには招集命令が出されていた。

 既に多くの採掘者が協会には集まりつつあったが、その中にイーリストを代表するパーティ、『精霊の風スピリットウィンド』、『紺碧の人形アジュールドール』、『双竜』、『絶対者アブソリュート』の姿は未だになく、採掘者協会を訪れる気配すらない。


 『双竜』と『絶対者』はともかく、『月下美麗』が居なくなってしまった今、これではイーリストの採掘者の戦力は不十分にも程があった。信頼できる主要パーティが全員居ないのだ。集まった採掘者たちも不安に駆られてしまい士気も低下するだろう。


 何より、今回の作戦はイーリストだけの問題に留まらない。三国の戦力を集結させているというのに招集に応じないなど、今回のわがままばかりはヴェイオンでも庇い切れるわけがなかった。勝手が許される状況ではない。如何に森人族長の娘や『創造者クリエイター』と呼ばれる創人族といえど、何らかの処罰は免れないだろう。


 採掘者はこういった非常事態に対応するのも義務であり責務の一つだ。

 それを反故にすることはどんな立場であろうと許されない。

 普段多少の目溢しをされているからと言って、肝心な時にも規律を守れないというのであれば、採掘者としては居られない。


 気持ちは理解できる。

 この作戦は、『破滅の死獣』を討伐するのが目的だ。それはつまりノイル・アーレンスの命は配慮しないという事である。そんな余裕は何処にもないのだ。


 ヴェイオンも彼が居なければ、今こうして生きていられたかはわからない。事実を知る者は少数だろうが、あの男は間違いなく英雄であり、救われるべき存在だ。


 だからと言って、全人類、世界との天秤にはかけられない。


 この上なく大切な存在を、何としてでも救いたいという気持ちは充分に理解できるが、このまま独断行動をさせるわけにはいかなかった。


「⋯⋯はぁ」


 一つ息を吐き出してヴェイオンは立ち上がる。


「行くんですか?」


「ああ⋯⋯まあとりあえず一服したらな」


 ヴェイオンは窓際に立ち、ポケットから煙草を取り出すと咥えて火をつけた。普段は咎めるサラも、今は何も言わずじっと彼を見ている。


「ん?」


 ヴェイオンが細い紫煙を吐き出すと、部屋の中にはノックの音が響いた。サラが扉へと歩み寄り、ヴェイオンは振り返り来訪者を待つ。


「⋯⋯ガルフ・コーディアスか。何か用か?」


 開かれた扉から、執務室へと入ってきたのは元『猛獅子』のリーダーの男であった。


 ヴェイオンに名を呼ばれたガルフは、一度驚いたように目を僅かに見開く。


「驚いたな⋯⋯まさか覚えられてるとは」


「当然だろ」


 ヴェイオンはイーリスト支部に所属する採掘者の顔と名前は全て覚えている。たとえ引退した者であろうとだ。そうでなくとも『猛獅子』は――


「光栄です」


 ガルフが微かな笑みを浮かべる。


「んで、何の用だ? 今はちっと忙しくてな」


「ええ、わかってます。不躾にすいません」


 紫煙を吐き出し、ヴェイオンがもう一度問うと、ガルフは表情を引き締め――


「⋯⋯何やってる」


 その場に膝を着き、床に額を着けた。

 ヴェイオンはガルフの突然の行動に呆気に取られる。サラも目を見開いていた。


「⋯⋯俺は、採掘者を引退してます。現役だった頃も、大した採掘者じゃなかった」


 頭を下げたまま、ガルフははっきりとした声を発する。


「そんな俺が、アンタにこんな事を言っても意味ねぇし、聞く義理なんかねぇと思う」


 ヴェイオンは手に持っていた煙草を口に咥え、静かに腕を組んで彼の言葉を聞いた。


「でも、頼みます。あいつらを――止めないでやってください」


 ガルフは、真摯にヴェイオンへとそう嘆願する。


「俺は強くねぇ⋯⋯ダチを救ってやる力にはなれねぇんだ。でも、あいつらなら、バカみてぇに強くて、バカみてぇにノイルを想ってるあいつらならよ⋯⋯救けられるかもしれねぇんだ」


 自身の無力さが許せないかのように、身体を僅かに震わせて、ガルフは言葉を続けた。


「無茶苦茶な事を言ってるのはわかってる。でも、俺にはこんな事しかできねぇ。だからよ――お願いします」


 声を張り上げ、ガルフは再度乞う。


「あいつらを信じてやってくれ⋯⋯!」


 そういや⋯⋯こいつもノイル・アーレンス達と仲良くなってたんだったか⋯⋯。


 ヴェイオンは一度目を閉じて、組んでいた腕を解くと紫煙を吐き出した。


「責任は俺が負う! いや、俺一人程度じゃ何の意味もねぇかもしれねぇが、何でもする! あいつらを行かせてやってくれ!」


「⋯⋯⋯⋯顔を上げろ」


 ヴェイオンが再度窓の外へと視線を向けながらそう言うと、ガルフはゆっくりと顔を上げた。煙草を吸いながら、ヴェイオンはそんな彼に言葉をかける。


「『猛獅子』は、採掘者協会にも、イーリストにもよく貢献してくれたパーティだったな」


 ガルフが困惑したような表情を浮かべる。


「いや⋯⋯俺たちは⋯⋯俺はそんな⋯⋯」


「長年失敗という失敗もなく、重症者も死者も出さず、安定して依頼をこなし、マナストーンを持ち帰ってくれるパーティだったよ」


「それは⋯⋯こなせる仕事をこなしていただけで⋯⋯」


「採掘者ってのは、そいつが難しいんだよ」


 ヴェイオンは窓の外を眺めながら思う。

 採掘者は死と隣り合わせの仕事だ。リタイアする者も多い。そんな中、『猛獅子』は随分と長いこと活動し、利益を齎してくれていた。解散すると聞いた時は、仕方ないと思いながらもヴェイオンは残念に感じていたものだ。


 最後の方は幾らか腐ってしまっていたようだが、問題行動を起こしても殊更に咎められなかったのは何故か、この男はわかっていないようだ。当然採掘者協会は『猛獅子』が荒れていた事など把握していたし、あと少しで処分が下されていたが、ぎりぎりまで様子を見ていた理由は、『猛獅子』が優秀なパーティだと認識されていからに他ならない。


 もう少し、声をかけてやるべきだったな⋯⋯。


 安定感があっただけに、殊更に気にかける必要がなかった。しかし、それはどうしようもないミスだったと、ヴェイオンは自身を恥じた。


 どちらにしろ年齢の問題もあったため遅かれ早かれ辞めてしまっていただろうが、出来る事ならもう少し自信を持ったまま、引退させてやればよかった。


 ヴェイオンは心の中で謝罪しながら、戸惑っている様子のガルフへと振り返る。


 だがまあ⋯⋯ノイル・アーレンス達が救ってくれたわけか。


 そして、不甲斐なさと改めて感謝を覚えながら、ガルフへと笑みを向けた。


「よく貢献し、優秀だった採掘者に頼まれちまったんなら、仕方ねぇな」


 ガルフはその言葉に目を見開き、そしてもう一度頭を下げる。


「ありがとうございます⋯⋯!」


「あーあー、やめろやめろ。俺はそんな風に頭を下げられるような大層な人間じゃねぇ」


「そうですよ。まったく⋯⋯最初から止めるつもりなんてなかったくせに」


 サラが一つ息を吐き、そう言いながらガルフの側に屈みこんでそっと肩に手を当てた。


「え⋯⋯?」


「おいサラ、言うんじゃねぇよ⋯⋯」


「無駄に格好つけないでください」


 サラは一度、呆れたような視線を頬をかくヴェイオンに向けると、呆然としたように顔を上げたガルフに微笑んだ。


「ヴェイオンさんは元々、自分の指示で・・・・・・彼女たちは動いたという事にするつもりだったんですよ」


 平時には見られない柔らかな笑みを浮かべ、サラはガルフにそう告げる。


「んなことしたら、アンタは⋯⋯」


 ガルフが驚きを顕にしてヴェイオンを見ると、彼は豪快に頭をかいてガルフに背を向け窓の方を向いた。


「あー本当やってられねぇ。だけどまあ⋯⋯問題児の面倒見てやるのも俺の仕事だからな」


 そう言って灰皿に煙草を押し付けると、ポケットからもう一本取り出し口に咥えて火をつける。

 ガルフとサラは、顔を見合わせた。


「そういやお前よ、酒場を始めたらしいじゃねぇか。中々な評判らしいな」


「あ、ああ⋯⋯」


 唐突に『獅子の寝床』の話題を振られ、ガルフは頷く。

 ヴェイオンは再度後頭部の辺りをかきながら、彼に背を向けたまま紫煙を吐き出す。


「丁度いいから、俺が首を切られたら雇ってくれや」


 そして、振り返り笑みを浮かべながらそう言った。


「私も道連れになるのですが」


 ガルフも笑みを浮べようとしたところで、サラがきっぱりとそう言い、二人は真顔になる。


「ですが、次の職場は見つかりましたし、まあいいでしょう」


「い、いや⋯⋯二人も雇う余裕は⋯⋯」


「ふふ」


 自身の肩に置かれたサラの手を、ガルフが気まずそうな表情で見ると、彼女はくすくすと可笑しそうに笑い出す。


「冗談です」


「あ、ああ⋯⋯」


 ここまで機嫌の良さそうなサラを、ヴェイオンは初めて見たかもしれない。

 そして、察した。


「それよりも、今度お食事でもどうですか?」


「は?」


 目を丸くしたガルフが、わけがわからないという顔をヴェイオンに向ける。


「お前、意外とぐいぐい行くタイプなんだな」


「何か問題でも?」


「いや⋯⋯」


 すっと笑顔を消したサラに、いつものきつい表情を向けられ、ヴェイオンは二人に背を向けるのだった。

 

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