第108話 裏切り
通常の獣人族は発情期のみに子を成すため重要な期間ではあるが、半獣人の場合は普人族同様に基本的にはいつでも生殖行動が可能だ。
故に、発情期など存在せずとも問題はないのだが、年に一度だけ、その厄介な期間は訪れてしまう。
しかも、二種族の生態をしっかりと受け継いでしまった故の相乗効果なのだろうか、子孫を残そうとする衝動の昂りは獣人族よりも遥かに強くなる。
異常な程に性的欲求は高まり、女性である場合は異性を引きつける抑えきれない強烈なフェロモンを、何もしていなくとも発してしまう。
半獣人の発情期は長くとも三日程で収まるが、その間はまともに外出する事も出来なくなってしまうのだ。本人の性衝動の昂りも問題ではあるが、何より異性を誘惑する魔性のフェロモンが厄介極まりない。
半獣人は発情期の間、特定の相手でも居ない限りは周りに同性以外は寄せ付けず、その呪いのような衝動が過ぎ去るまで耐える他ないのだ。
うっかり街中でも歩いてしまえば、いかに本人が自制心を働かせたところで意味がない。
絶対に周りが放っておかないだろう。
あえてその時を狙い、近づいてくる下衆な者も少なくはなく、常に己の中の昂りと戦っている状態では抵抗もままならない。
半獣人に出来る自衛は、信頼の置ける者以外には発情期だと悟られないようにする事と、一切の外出をせず屋内に閉じこもることだけだった。
ミーナはその日、外出から帰宅し発情期の兆候が現れ始めたと感じた瞬間、げんなりすると同時にエルシャンとソフィに伝え、クライスとレットも含め、二人以外はしばらくの間屋敷に誰も入れないよう頼んでいた。迷惑をかけてしまうがこればかりはどうしようもない問題だ。
そして自室に引きこもっていたのだが、どんどんと高まってくる欲求――悶々とした疼きに耐えられなくなり、誤魔化すために訓練場で運動して汗を流し、大浴場でゆったりと過ごした。
完全に解消されるわけではないが、じっとしているよりもずっといい。
大浴場から出る頃には、耐えられない程の衝動ではなくなっていた。
しかし――
「何で来ちゃうのよ⋯⋯」
空が白み始めた頃に目を覚ましたミーナは、小鳥の囀りが聞こえてくる中、自室のベッドの上で一糸纏わぬ姿で身を起こし呆然と呟いた。
彼女の虚ろな視線の先――すぐ隣には、精魂尽き果てたかのように眠っているノイル・アーレンスが居る。当然のように、彼も衣服は纏っていない。
ミーナは額に手を当てた。
発情期の性的欲求は収まっている。今から改めてノイルに何かしてしまうことはないだろう。だが――もうやらかした後では意味がない。
昨晩の事は、はっきりと覚えていた。
ベッドに運ばれた後、自分が何をしてしまったのか、残念なことに覚えている。
覚えているのが当然だ。酔っていたわけでも操られていたわけでもなく、ただ自分の衝動を抑えきれなくなっただけなのだから。
しかし、それはノイルも悪い。
昨晩に限って、何か普段と雰囲気が違った彼も悪いのだ。
いつものひ弱そうな姿と違い、昨夜は全身から力強いマナの気配を漂わせていた。獣人族は本能的に強い遺伝子を求める。半獣人であるミーナもその傾向はあった。発情期には、相手がどれほどの強さを備えているか敏感に感じるようになり、昨夜のノイルは強さだけで見るなら優に合格ラインを超えていた。
しかも、何故か
ノイルが紙袋を畳に叩きつけた時は、僅かに残っていた理性で、ああ、何か大きな誤解があったのだと察していた。わかっていたのに――無視した。
そして――
「〜〜〜ッ!! 〜〜〜ッ!!」
ミーナは真っ赤になった顔を枕に押し付け、押し殺した声にならぬ声を上げながら両足をバタつかせる。
ほとんど、ほとんどやってしまった。
思いつく限りの行為を、欲望のままに。
身悶えするほどの羞恥と罪悪感にミーナは襲われていた。
だが――
「⋯⋯⋯⋯」
ミーナはのろのろと枕から顔を上げ、未だ赤く染まった顔で隣で眠りこけているノイルをちらと見る。
最後までは――至らなかった。
彼にかかっている毛布をそっと持ち上げて、遠慮がちにその身体を検める。
所々が、酷く痛々しく内出血を起こし、痣となっていた。
自傷行為――その痛みでノイルは自制心を必死に保っていたのだ。
それ程自分との行為が嫌だったのか――いや、そうではないことくらい、わかっている。
「⋯⋯⋯⋯ばか」
ミーナは、ぽつりとそう呟いた。
――こ、こんな形でやったら! 絶対ミーナは後悔する!――
行為の最中に、発情期のフェロモンの誘惑に抗いながら、ミーナへとノイルはそう訴えていた。自身ではなく、ミーナが後悔する、と。
おかしくなっている自分の事を慮って、彼は必死に耐えていたのだ。
ミーナは自身から発するフェロモンが、どれほど異性を狂わせるのかよく知っている。発情期を狙い、良からぬことを企む者も居た。
だから、ミーナは身持ちを固くし、異性との距離感を神経質な程に意識してきたのだ。
眠っているノイルの頬を、ミーナは一度軽く指でつついた。
「ばか、ばーか、ばーかばーか⋯⋯」
そして、ぽつぽつと呟く。
この男は、本当に馬鹿だ。
確かに最後までやっていたら、ミーナは後悔していただろう。それはエルシャンへの裏切りだ。既に十分な裏切りかもしれないが、最後の一線を越えずに済んだのは幸いだった。
しかし、言ってみればミーナの懸念はそこだけなのだ。
その辺りの事を、この男は絶対にわかっていない。
自己評価が低すぎるこの男は――いや、ノイルの自己評価が低いのは魔導学園での自分との一件が原因なのはわかっているが――絶対に勘違いしているのだ。
いかに発情期といえど――
「ばか⋯⋯」
ミーナは膝を抱えて座り込む。
発情期の衝動は、既に解消されている。
最後まで至らずとも擬似的に発散した事で収まったのだろう。元々そうやって鎮める事も一応可能ではあるのだ。ミーナはあまりやらないが。
しかし、だとしたら――
「ほんと⋯⋯あたしのばか⋯⋯⋯⋯」
今もうるさい自身の胸の鼓動に、言い訳が出来なくなってしまう。
やはりこれは――裏切りだ。
「ごめん、エル⋯⋯」
ミーナは自身の膝をぎゅっと抱え、額をこつんとぶつけると、小さな声でそう漏らすのだった。
◇
「本当に、あんな事をして良かったんですか?」
「ああ」
まだ薄暗い夜明けの湖で、クライスはボートの船尾に立ち釣り糸を垂らしながら、船首で同じように立って釣り糸を見つめている黒猫の獣人族の男に尋ねた。
発情期のミーナの元へノイルを送り込む作戦を考えたのは、言うまでもなくこの男――師匠だ。
ミーナの実父であり、レットの釣りの師であり、クライスにとっては剣の師である。
クライスはシソウ流の達人といっても過言ではないが、その彼を以てしても純粋な剣の腕前では師匠には及ばない。
今ではたまに剣の稽古に立ち合ってもらっていた。
手合わせを頼み、そのお代として『獅子の寝床』で彼の酒に一杯付き合うのがお決まりになりつつあったが、今回はレットも誘おうとして、ノイルが珍しく一人でいる事を知った。
まさに絶妙なタイミングではあったが、多少強引ではある。
「マイフレンドノイルに嫌われるかもしれませんよ?」
「覚悟はしている」
「勢いだけで一線を越えてしまったら?」
「ノイルんならば、そんな事にはならない」
「ミーナも辛い思いをするのでは?」
「手遅れになってから自覚するよりは、早いほうがいい。全てが終わった後に気づく恋心ほど虚しいものはない」
やけに実感の込められた言葉だった。
「経験がおありで?」
「今は妻を愛している」
やはり、何かあったのだろう。しかし、これ以上詮索するのは無粋というものだ。
「素敵ですねぇ」
「しかし⋯⋯すまんな。クライスたちには迷惑をかける」
「んー気にしないでください。今回の件がなくとも、どうにかしなければいけない事でしたから」
もしエルシャンとミーナが仲違いするような事になれば、『
だが、クライスはそこまで心配はしていなかった。何故ならば、ソフィが居てくれるからだ。彼女の存在がある限り、『精霊の風』が崩壊することはないだろう。
「そうか⋯⋯む⋯⋯⋯⋯?」
「どうかしましたか?」
訝しむような声にクライスは顔だけを振り向かせる。見れば、師匠の竿先がくいくいと動いていた。何かアタリが来たようだ。
「⋯⋯これは――ニケルベンベ⋯⋯明け方にかかるとはな」
「釣れないはずでは?」
「あれは嘘だ」
「ハッハー!」
クライスはやられたとばかりに額を手で打った。
「強敵だ、手伝えクライス」
「おまかせを!」
そして、流麗かつ鋭い動きで竿を上げ、フッキングしながらそう言った師匠に、歯を輝かせながら応えるのだった。
◇
とぼとぼと、僕はまだ人の少ない閑散とした早朝の採掘者街を歩いていた。
明け方にしっかりと服を着たミーナに起こされた僕はすぐさま謝罪しようとして、それよりも早く彼女に謝られた。
そして「これは事故よ、なかったことにしましょう」と言われ、屋敷を後にしたのだ。
僕が屋敷を出るまでの間、ミーナは一応玄関まで見送りに来てくれたが、一度も目は合わせてくれなかった。
彼女との関係は、もう終わってしまったのかもしれない。何とか最後の一線だけは越えなかったとはいえ、あれだけの事をやってしまったのだ。僕は大切なマブダチを一人失ってしまったのだと思う。
役立たずの鋼の理性さんのせいでついた複数の傷よりも、何だか心が痛んだ。
「はぁ⋯⋯」
「何やってんだお前?」
突然かけられた声の方にのろのろと顔を向ける。すると、そこにはガルフさんが両手にゴミの入った袋を持って立っていた。僕を驚いたような表情で見ている。
ああ、ここは『獅子の寝床』の前じゃないか。ぼんやりと歩いていたせいで、無意識の内に知っている道を選んでいたらしい。
朝方まで営業していたのか、ガルフさんは仕事をする際の格好だ。
「おはようございます⋯⋯ガルフさん」
「おう⋯⋯⋯⋯ちょっと寄ってけ」
「え?」
ガルフさんはゴミを店先に置くと、手を払いながらそう言った。そして、一つ息を吐くと腰に手を当てる。
「何かあったんだろ?」
「⋯⋯はい、でも⋯⋯」
相談できる事ではない。
誰かに話せるわけがないのだ。
「言えねぇなら訊かねえよ。ただなんか温かいもんなら出してやれるからよ。ちっとは気持ちも落ち着くだろ」
僕は涙が出そうになった。
「⋯⋯ありがとうございます」
「おう」
お礼を言ってガルフさんが開けてくれている扉から店内へと入る。
「⋯⋯あん?」
その途中、すれ違う時にガルフさんが鼻をひくつかせた。どうかしたかと、僕は立ち止まり彼を見る。すると、ガルフさんは眉を顰めた。
「⋯⋯⋯⋯やっぱ女か」
「え?」
一つ息を吐き出した彼は、僕へと憐憫のような眼差しを向けた。
「⋯⋯シャワーも浴びてけ、念入りにな。服は何か貸してやるから、今着てんのはここに置いてけ。そのまま帰ったらお前⋯⋯あれだぞ」
どれだろう。
よくわからなかったが、僕はガルフさんの厚意に甘えることにするのだった。
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