第107話 接近禁止時期


 採掘者街を引き返し、僕は『精霊の風スピリットウィンド』のパーティハウス、その相変わらず豪奢で瀟洒な屋敷の門前に立っていた。

 片手に師匠から渡された見舞いの品が入っているらしい紙袋、もう片手にはクライスさんから預かった屋敷の鍵――門扉と玄関のものを持ち、窓から灯りの漏れる屋敷を一度見上げる。


 クライスさん曰く、『精霊の風』のパーティハウスは常に精霊が見張っているが、不法侵入ではなくちゃんと鍵を使って入った場合は反応しないらしい。精霊がエルに言われているのは、侵入者の撃退と報告だそうだが、森人族以外の人の細かい違いなど精霊には判断できない。故に、普段居ない人でも、正当な手段を用いて入ってきたのだから、侵入者ではないし何もしなくていいやくらいの認識らしい。


 これがエルの宿している精霊なら話は変わるが、野良の精霊たちは基本的に給料(エルからもらえるマナ)分の働きしかしないそうだ。気分が乗らなかったり機嫌が悪いとサボることもそれなりにあるらしい。割と不真面目かつ自由な存在で非常に好感がもてる。おもしろそうだから、今度もっと詳しくエル本人に精霊たちの事を訊いてみよう。


 まあしかしだ。


「怪しい者じゃありません」


 僕は一応そう言って両手を上げながら敷地内に入った。そして、しばらくその態勢のまま様子を窺い、何も起こらない事を確認してほっと息を吐く。

 地面に置いた紙袋を拾い、門から屋敷まで続く敷石の道を歩く。僕の腰程のアンティーク調の庭園灯に照らされた庭は、いつ見ても丁寧に整えられている。刈り込まれた青い芝生に、丸く形を整えた低木が並び、緻密な模様が彫刻された噴水は、静かに水を噴き上げていた。


 そんな中異質なのは、庭の一角――結構なスペースを占領している池だ。以前フィオナが破壊したらしい釣り堀は、エルの手によって復元されていた。邪魔じゃないかなあれ⋯⋯。

 よくよく考えてみれば、ここは水の都とも呼ばれるイーリストであり、一歩外に出ればそこかしこに水路が流れている。全ての水場で釣りができるわけではないが、わざわざ敷地内に池とか造る必要など全くない。いや、景観としてならば無駄ではないが、釣り用に造る必要は全くない。


 あの事件以来僕は一度もここの釣り堀を利用していないのだが⋯⋯ずっとそのままにしておくつもりなのだろうか。


 そんな事を考えながら歩いていると、屋敷の玄関へと辿り着く。クライスさんから預かっている鍵を使って両開きの木製で重厚な扉を開けた。


「お邪魔します」


 そう言いながら、屋敷の中へと足を踏み入れる。一人でこの屋敷に入るのは初めてだった。

 ミーナと顔を合わせられない師匠はともかく、クライスさんも着いてきてくれたら良かったのだが「俺が行くとんミーナはご機嫌ナナメになるからねぇ! ハハッ!」と言われて納得してしまった。


 そもそも僕が見舞に行く必要があるのかはわからないが、師匠に懇願されてしまえば仕方がない。娘が心配でたまらないのだろう。親バカだ。


 まあ、僕としてもミーナには普段から世話になっているし、体調を崩してしまった時の心細さは知っているので、何かできるのならばやってあげたいところではあるが⋯⋯やはりどう考えても適任とは思えなかった。


 しかも、よく考えてみればエルとソフィが一人にしても大丈夫と判断した程度の症状なのだ。


「どうしよう⋯⋯」


 やっぱり必要ないのではないか?

 逆に迷惑がられる恐れすらある。

 ここまで来ておいてなんだが、やはり引き返そうか。ミーナはきっと大丈夫だし、釣りに行っても問題ない気しかしない。

 

「⋯⋯⋯⋯様子だけ確認して、これを渡したら釣りに行くか」


 暫しの間屋敷の入り口で悩んでいた僕は、一応ミーナの部屋に向う事にした。ここまで来てしまったし、師匠の頼みはやはり無視できない。見舞いの品も預かっている。

 それに、何だかんだでやはりミーナが少し心配だった。多分大したことはないのだろうが、万が一症状が悪化でもしていたら大変だ。容態を確認して、見舞いの品を渡すくらいはするべきだろう。やはり問題なさそうならお暇して、師匠に報告すればいい。その後はお楽しみだ。


「ん?」


 歩き出そうとして――僕は一度振り返った。


 一瞬視線のようものを感じた気がしたのだが、目に入るのは閉じられた玄関扉だけだ。

 そもそも、ここは『精霊の風』のパーティハウスなので、誰かが簡単に入れるわけがない。


「⋯⋯気のせいか」


 僕は気を取り直して、玄関ホールの奥へと進んだ。ミーナの部屋は二階にあるが、玄関ホールの階段は使わずその間にある両開きの扉を開く。

 この先の廊下を真っ直ぐ行くと大浴場があるのだが、ミーナの部屋に行くには大浴場近くの階段から二階に上がった方が早い。伊達に一月僕はこの屋敷で過ごしたわけではないのだ。


 若干早足で長い廊下を歩き、大浴場の前を通り過ぎようとした瞬間だった。


「⋯⋯⋯⋯」


「⋯⋯⋯⋯」


 絶妙のタイミングで大浴場から出てきたミーナに出会ったのは。

 目を丸くした彼女の首から、タオルがずり落ちる。

 一瞬、思考が停止してしまった。


 ミーナの髪は艷やかに濡れており、頬は上気している。どうやら風呂上がりのようだ。いやまあ当然だろう。

 服装は屋敷に一人きりだったためなのか、やけに薄着で――黒のキャミソールに下着のみだった。


 次の瞬間、僕は一切の迷いなく頭を床に擦りつける。


「誠に申し訳ございません!!」


 そして、誠心誠意謝罪した。

 わざとじゃないんです本当すみません。


「な、なんで⋯⋯」


「具合が悪いというお話を伺いましてですね! 出過ぎた真似かとは存じたのですが! お見舞いをとはい!」


「⋯⋯や、やめてよなんで⋯⋯」


 顔を上げていないので様子はわからないが――何か変だ。いつものミーナならば、もっとこう⋯⋯勢いがある。だが、今の彼女の声からは全く覇気が感じられなかった。それどころか、非常に弱々しい。まさか体調が悪化して――


「⋯⋯⋯⋯ミーナ? 大丈夫?」


「ぅぅぅ⋯⋯!」


 心配になり尋ねると、ミーナが弱々しい声を上げ、その場にへたり込んだような気配がした。

 これは、本気で不味いことになっているのかもしれない。

 僕は意を決して、恐る恐る顔を上げた。


 顔だけだ、ミーナの顔だけを見る。他は見ない。見るんじゃないぞノイル・アーレンス。


「⋯⋯⋯⋯だいじょうぶ⋯⋯じゃなぃ⋯⋯」


「⋯⋯⋯⋯」


 そう言った彼女を見て、僕は声を失ってしまった。馬鹿みたいに口を開けたまま、見入ってしまう。

 涙で潤んだ瞳に、赤く染まった頬。小ぶりで艷やかな唇から漏れるやや乱れた吐息。濡れた髪が幾本か顔に張り付き、眉は困ったように、今にも泣き出してしまいそうに歪んでいる。

 普段の強気なミーナからは考えられないような儚げな表情。それら全てから漂う、つい手を伸ばしてしまいそうになる程の――色気。


 彼女の体調がおかしいのは明らかだ。明らかなのだが――何だこれは。

 絶対に、ただの体調不良ではない。そして僕は何故今のミーナにこれほど――胸が高なってしまうのか。


 やばい。

 これは、ダメだ。

 このままでは、ダメだ。

 僕まで、おかしくなってしまう。


 一瞬放心していた僕は、必死で心の中にまーちゃんを思い浮かべた。最愛の人の力を借りて、何とか吸い込まれそうなミーナの瞳から視線を外す。


 そして、しどろもどろになりながら、僕は紙袋を彼女に差し出した。


「⋯⋯⋯⋯あ、その⋯⋯これ⋯⋯」


 ダメだ、上手く頭が働いていない。

 いきなり紙袋を差し出されても戸惑うだけだろう。ちゃんと見舞いの品だと言わないと。


「⋯⋯⋯⋯なに?」


 しかし、ミーナのか細いはずの声が耳朶を打ち、僕はまた余裕がなくなってしまう。

 何も言えずに顔を逸していると、紙袋をミーナが受け取ったのがわかった。


 かさかさと袋を開く音が聞こえ――


「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯え? こ、これ⋯⋯あんた⋯⋯知って⋯⋯そのつもりで⋯⋯?」


「え⋯⋯うん」


 暫しの沈黙の後、震える声で尋ねられて僕は頷いた。視線を逸してまーちゃんの事をひたすら考えていたおかげで、多少落ち着いた。

 

 僕は紙袋の中身は見ていないので知らないが、ミーナの父親である師匠が用意したものだ。きっと今の彼女に必要な物が入っていたのだろう。

 僕はミーナの体調がおかしいのを知って、それを届けるつもりできたのだ。


「だ、ダメよ⋯⋯⋯⋯だって⋯⋯エルが⋯⋯」


「エルには⋯⋯ちゃんと説明する」


「!?」


 驚いたような声が聞こえたが、それくらいは僕だってちゃんとするよ。バレたらね。

 エルを閉じ込めておいてミーナと会っていたと知られたら厄介な事になりそうだけど、お見舞いだったんだとちゃんと説明すればわかってくれるはずだ。


「⋯⋯⋯⋯本気⋯⋯なの? エル以外だって⋯⋯」


「まあ⋯⋯大変だろうけどね⋯⋯二人で乗り越えよう」


「!?」


 ミーナも絶対に責められるだろうからね。

 エルはともかく、他の皆には容赦なく責められるだろう。


「⋯⋯⋯⋯あたしで⋯⋯いいわけ⋯⋯?」


「⋯⋯ミーナ以外に居るわけないじゃないか」


「!?」


 残念な事に理不尽に責められるのはミーナくらいだよ。


「それにさ、ミーナ」


「⋯⋯な、なに⋯⋯?」


「バレなきゃいいんだ」


「!?」


 黙っていれば、僕がお見舞いに来たことなどそうそうバレる事ではない。


「⋯⋯⋯⋯責任、とってくれるの⋯⋯?」


「⋯⋯⋯⋯」


「!?」


「あ、はい」


「!?」


 しまった、責任という言葉が嫌いすぎて無意識の拒絶反応が出てしまった。

 まあ今回もミーナに全く非はないし、責任というか全力でフォローはするよ。


「⋯⋯⋯⋯わかったわ⋯⋯ねぇ?」


「ん?」


「⋯⋯部屋まで連れて行ってくれる?」


「なんで?」


「!?」


 いや、別にいいんだけど⋯⋯今の状態のミーナってまず直視できないんだよね。かなり厳しい戦いになると思う。僕の鋼の理性さんが下手すれば死んじゃうよ。


「ここじゃダメなの?」


 その紙袋の中身使うのは。


「⋯⋯さ、流石にここじゃ嫌よ!」


「どうしても?」


「!?」


「⋯⋯仕方ない、か」


 この場が嫌で、あのミーナが連れて行ってくれと頼む程に弱っているのなら、まあ仕方ない。

 気をしっかり保て、やるぞ。出番だ鋼の理性さん。今度は不意討ちじゃないから耐えてくれよ。


 僕はミーナに背中を向けてしゃがみ、両手を伸ばした。

 よし、ばっちこい。


「⋯⋯⋯⋯なに?」


 しかし、ミーナは背に乗っては来なかった。


「え? おんぶを」


「!?」


 連れて行ってくれって言うから⋯⋯。


「そ、そうじゃないでしょ、こういう時は⋯⋯」


「え?」


「⋯⋯⋯⋯お、お姫様だっこ⋯⋯」


「!?」


 ハードルたっかいわぁ⋯⋯。

 今のやたら色気を醸し出している上に、ほぼほぼ下着姿のミーナをお姫様だっこ? 精神修行か何かかな?

 というか、ミーナはそれでいいのかな。僕男なんですけど。危ないよ本当。


「あ、憧れだったのよ⋯⋯」


「もう喋らないで」


「!?」


 僕は今無の境地に至ろうとしているんだ。急に可愛らしいことを言われると心が乱れる。

 息を一度吐いて精神を集中し、クールな表情を浮かべ僕はミーナへと振り返る。

 心をクールに保つには、まず顔からだ。


「ぁ⋯⋯」


 そして、素早くそっと彼女を抱き上げた。

 ミーナは一度びくりと身を震わせると、僕の首に腕を回してくる。


 近い近い近いやばいやばいやばい。

 いい匂いがするミーナの呼吸音が聞こえる。潤んだ瞳で見上げてくる。ちくしょう抱きしめたい。まーちゃん助けて。


 何で、何で今日のミーナはやたら色っぽいんだ。そしてどうして僕は、今日に限ってそんな事ばかりを考えてしまうのか。


 ⋯⋯ん? あれ?

 もしかして⋯⋯『六重奏セクステット』の皆の存在が、鋼の理性さんの仕事ぶりに影響してたりしたのか⋯⋯? だから今日の僕はこんなにも――


「⋯⋯行こうか」


 これはまずいと判断した僕は、クールな表情は崩さず早足でミーナの部屋に向うのだった。







 勝った⋯⋯。

 僕は僕に打ち勝った⋯⋯。


 ミーナの部屋まで無事に辿り着いた僕は、彼女をベッドに寝かせながら途方もない達成感を感じていた。

 短い距離だったが、僕には終わりのない延々と続く道に感じられた。


 だが、僕はやったんだ。

 さあ、後は楽しい楽しい釣りが待っている。今夜はお楽しみだ。


 ランプの灯りだけが照らす薄暗い部屋の中、ベッドの上ではミーナがやたら情欲を煽る感じで仰向けに寝転がり、こちらをとろんとした瞳で見つめている。一体今日の彼女はどうしたというのか⋯⋯まあ、師匠の見舞いの品があればきっと大丈夫だろう。

 これ以上今日のミーナの側にいたら、本気でどうにかしてしまいそうだ。

 早いところ退散しよう。


「じゃあ、ミーナ⋯⋯」


「うん⋯⋯これ、渡しておくわね⋯⋯」


 と、帰ろうとすると、ミーナが何故か例の紙袋を僕に渡してきた。思わず受け取ってしまったが、何のつもりだろう。


「いや、これはミーナのでしょ」


「あ、あたし、着け方はわからないわよ⋯⋯やれっていうなら、頑張ってみるけど⋯⋯」


「⋯⋯ん?」


 どういうこと?

 え? もしかして僕が何かやらなきゃいけない物だったのか。


「ちょっと失礼⋯⋯」


 僕は紙袋の中身を見て――


「⋯⋯⋯⋯」


 無言で床に袋ごと叩きつける。


 中に入っていたのは、避妊具だった。


 ああ、そういう⋯⋯作戦ね。

 ミーナの体調がおかしいのってあれだね。

 つまりは、病気とかじゃなくて――


「うわっ!」


 あまりのショックに思わず眉間を揉んでいると、突然首に腕を回されベッドの上に引っ張りこまれる。ミーナと密着するように身体が重なり、僕の心臓が大きく脈打った。


 吐息が触れ合う程の至近にある彼女の蕩けきった瞳を見て、僕は焦りながらもやはりそうであることを確信する。


 そりゃ、エルたちも干渉しないわけだ。


「えへへ⋯⋯」


 ミーナは明らかに――発情期だった。

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